宇 治 橋

日本書紀にも登場する交通の要衝

伝統的な景観に配慮した宇治橋の側面、三の間が上流方向に突出しているのが見える
 琵琶湖から流れ出す瀬田川が峡谷を抜け出てようやく平野にさしかかろうとするところに宇治橋は架かっている。古来、それは途絶えがちで危ういもののたとえとしてしばしば歌枕に登場した。橋が途絶えたのは必ずしも急流のせいばかりではない。戦火により失われることも多かったのだ。そんな歴史を引き継ぐ宇治橋を訪ねた。

臣 鎌足の協力を得て大化の改新を成し遂げ、26年に渡って権力を一身に集めた天智天皇にも死期が訪れていた。天智10(671)年10月17日、天皇は近江宮1)の病床に弟 大海人皇子(おおあまのみこ)を呼んで皇位を譲りたいと告げる。が、その誘いは罠だと知った大海人は、天皇の実子 大友皇子(おおとものみこ)に皇位を継がせることを進言し、自らは天皇の病気回復を祈るため出家すると申し出た。そして直ちに髪を切り落とし、所持する武器を天皇に差し出して、吉野に向かった。近江宮から宇治橋まで大海人を見送った人たちは、「虎に翼をつけて放てり」と噂したという。天智は12月3日に崩御。
 近江朝廷は、大海人の従者が食料を運ぼうとするのを宇治橋の橋守に命じて阻止させるなどの圧迫を加えていたようだが、大海人は密かに準備を進めて、ついに翌年6月24日、吉野を脱出する。菟田(うだ)で当時の東海道に入り、隠(なばり)を経て積殖(つむえ、現在の柘植)で近江宮から駆けつけた長男 高市皇子(たけちのみこ)と合流し、さらに東進して桑名を拠点に東国の兵を募った。一方、飛鳥では大伴 吹負(おおとものふけい)が蜂起して、駐在する朝廷軍の指揮権を奪取した。上ツ道・中ツ道・下ツ道に布陣して近江宮からの進撃を防ぎ、さらに、朝廷が西国の武士を動員してくるのを竜田道・大阪道・石手道で退けるなど奮闘はめざましかった。
図1壬申の乱に関連して日本書紀に名が見られる道路(武部 健一「物語日本道路史F」(「道路」1997年7月(日本道路協会)所収)
大海人は軍を倭(やまと)と近江の2方面に進め、倭に向かった軍は吹負を助け、不破から近江に入った軍は東山道を瀬田川畔まで勝ち進んだ。7月22日、大海人の本隊は川を挟んで大友の軍と対陣した。大友側はあらかじめ瀬多橋に仕掛けを施しておいたが、大海人軍がそれを覆して突入したため大友軍は瓦解し、大友は自刃した。23日のことであった。
 この史伝に宇治橋と瀬多橋が出てくるが、瀬多橋が文献に見えるのは本件が初出とされ、おそらく近江京の建設に伴って架橋されたと思われる。というのは、当時の東山道は、現在の国道307号と京都府道・滋賀県道 宇治田原大石東線のように、青谷から岩山・大石を経て近江国府に向かっていたからである。これに対して、
図2 「宇治橋断碑」の全景(左)と碑文の一部(右、橋寺放生院提供)、道登の名がくっきりと刻まれている
宇治橋は大化2(646)年に元興寺の僧 道登により架けられたことが、橋寺放生院にある「宇治橋断碑」から知られる2)
 これは、宇治橋の架橋の経緯を六朝風の格調高い文字で刻んだ石碑で、原碑は天平時代(729〜749年)のものと思われるが、いつか土中に埋もれて不明になっていたのを寛永3(1791)年に上部の1/3ほどが境内から発見され、鎌倉時代の歴史書「帝王編年記」に記録されていた銘文をもとに下部を復元した。重要文化財に指定されている。
 橋寺放生院は、推古12(604)年に聖徳太子の発願で秦 河勝(はたのかわかつ)が創建したと伝えられ、宇治橋が架けられた以降は橋寺と呼ばれた。鎌倉時代に洪水で流失した宇治橋が、西大寺の僧 叡尊によって再興された時(弘安4(1281)年)、塔の島に十三重石塔を建立し、盛大な放生会を営んだことから放生院と名付けられた。通行料を徴して3)これでもって橋の維持を行う役割が寺に課せられていたともいう。
 壬申の乱の場合に限らず、橋は、単に交通・運輸の便のために架けられたものではなく、極めて軍事的意味合いの強いものであったことが、その後の宇治橋の歴史から伺える。弘仁元(810)年の「薬子の乱」では山崎橋・与渡津(現在の淀)とともに宇治橋が警護されているし、康和4(1102)年には白川上皇が興福寺の宗徒の強訴を阻むために宇治橋の橋桁を引くということがあった。平家物語では、治承4(1180)年に挙兵した源 頼政の軍が橋板をはずして戦う場面があるが、その時は浄妙房と一来法師のアクロバティックな活躍や、足利 忠綱が馬を川に引き入れ兵を見事に指揮して対岸まで渡りきったエピソードが語られる。また、源 義経軍と木曾 義仲軍が合戦した場面では、梶原 景季と佐々木 高綱の先陣争いが有名だ。応仁元(1467)年に勃発した「応仁の乱」では、東軍が西軍の入京に備えて宇治橋ほか洛南の橋を引かせたという記録もある。その後、織田 信長による架橋工事や豊臣 秀吉による撤去など、部将たちと宇治橋との関係も枚挙にいとまがない。
図3 三の間から宇治川の上流方向を望む、正面に見えるのは橘島
治橋は流失や戦火により何度も架け替えられたが、現在のものは平成8(1996)年の完成で、橋長155.4m、幅員26.5m。
 宇治橋の外観上の特徴は、左岸から第3径間目にある「三の間」と呼ばれるテラス。もとは橋姫を祀ったとも言われているが、豊臣 秀吉がここから汲ませた水で茶会を開いたことで有名だ。今も10月第1日曜に開かれる「宇治茶祭り」では、三の間で「名水汲み上げの儀」が行われる。また、高欄の擬宝珠(ぎぼし)は、宇治橋のものとして保管されている中では最古の寛永13(1636)年の銘のあるものを復元している。擬宝珠が取り付けられている宝珠柱(ほうじゅばしら)には、
図4 格調の高い橋に設けられる擬宝珠 図5 杭頭を横梁で固定したパイルベント形式の橋脚、たしかに渦流は起こりやすそうだ
特に良質のヒノキが使われた。橋脚もコンクリート製ながら、木橋を模した鳥居型のパイルベント形式。河川管理上の規定を緩和して、6基の橋脚を河川に配置した。このタイプは洪水時に渦が発生して河床を洗掘するおそれがあるため、水理実験で状況を確認した。さらに、橋から8mほど上流にある「流木よけ」は、橋の強度的には必要なかったが、洗掘防止の効果もあるとして引き続き設置されている。宇治川の伝統的な漁法であった網代(あじろ)をつなぎ止める「網代木」をイメージしてデザインされた。橋を側面から見るとヒノキ製の「桁隠し」が目を引く。本来は桁を腐食から守るものであった。コンクリート桁になって機能としては不要となったが、従来のデザインを尊重するために設置された。
 宇治橋の景観を特徴づけてきたこれらの構造や部材が、機能的には必要がなくなっても承継されているのは、橋そのものが文化資源であるとの認識に基づくのであろう。
図6 宇治橋周辺の現状
宇治橋の長い歴史の中では珍しく途絶えることなく架替えられた。
治橋は、西詰めが 橋からまっすぐ南西に延びる宇治橋通に4)、東詰めが六地蔵まで続く市道宇治五ヶ庄線(古代の北陸道に比定されている)につながるという絶妙の位置に架かっているため、当初からこの位置にあったと思いがちだ。しかし、最近の発掘調査の結果を見ると、宇治橋通付近からは主に鎌倉時代以降の遺跡が確認されるのに対し、それよりやや上流の本町通付近からは弥生から奈良時代にかけての遺跡も見られ、特に本町通の延長線上(平等院の南端付近)ではこの間 連続して集落が営まれていたことが確認されており、その要因としてここが宇治川の渡河地点であったためと考えられている(宇治市歴史資料館「宇治橋−その歴史と美と−」p12)5)のである。
 筆者は、宇治橋と前後して架けられた瀬多橋との類似性から、この見解を支持する。現在の瀬田唐橋の約80m下流から古代の瀬多橋と思われる遺構が発見されているが、
図7 現在の瀬田唐橋と古代の瀬多橋
これが図7のように川の中の島を利用して2連の橋で渡河していることと宇治川に塔の島や橘島があることは単なる偶然であろうか。川の中に島を築くことにより水流を整えたり橋長を短くすることを期待するという技術思想がこの時代にあったと推測するならば、古代の宇治橋は本町通の延長線上にあるのがふさわしい。宇治橋通と本町通は宇治壱番で合流するが、その交差点形状を見ても、本町通がメインの動線であった時期が存したとことが伺われる。
(2011.10.31) (2012.09.24)  
                

1) 天智天皇6(667)年に飛鳥から大津市錦織に遷都したもの。しかしながら、条坊制が存在した訳でもなく、「京」と呼ぶほどの整備がなされたかは疑問である。なお、近江への遷都の理由はいろいろ論じられているが、当時の国際情勢を踏まえたとする見解が有力だ。すなわち、天智天皇2年、百済を助けて白村江(はくすきのえ)の戦いに臨んだ天皇軍は唐・新羅連合軍に惨敗し、百済の有力者が何人もわが国に逃れてきた。彼らを追って敵軍がさらに侵攻してくることを懸念した時の政権は、大宰府に水城(みずき)を築いて防衛を固めたほか、九州から瀬戸内海の沿岸にかけて多くの山城を設けた。このような動きと併せて、唐・新羅軍が錦江を約50kmも遡航して百済の首都 扶余を攻略したことを他山の石として、国都の位置を再検討したとの説である。壬申の乱に勝利した大海人皇子が都を飛鳥に戻したため、近江京の存在したのは5年間に過ぎなかった。

2) 宇治橋断碑の記述については有力な異説が存在する。日本書紀に次ぐ国史として延暦16(797)年に編纂された「続日本紀」では、文武4(700)年の元興寺の僧 道昭についての記述の中で、彼の業績を異例に詳しく紹介し、その中に「乃ち山背国宇治橋は和尚の創造するところ」と記している(架橋の年は明示せず)のである。架橋者が2とおりに伝えられていることについて、史家らは @続日本紀の編者は道昭と同じ氏族であって、その記述に潤色が加わっているかまたは一般に知られていないことを記している、A企画を道登、現場を道昭というように両人が共同して架橋した、B道登のあと道昭が再架橋した、C実質的な架橋者は道昭であったが彼はその栄誉を長老であった道登に託した、などさまざまに論じている。また、架橋を大化2年とすることについても、これだけの事業を行うのに大化の改新 からあまりにも性急であるとの疑問も呈されており、真には天智4(665)年に唐の 劉 徳高らを天智天皇が「大いに菟道に閲」した頃と推定して、何らかの理由で架橋時期に作為を加えたために、架橋者を道登として時代的つじつまを合わせた、という考えも成立する。続日本紀を支持する立場からは、架橋者を巡る混乱を引き起こしたことこそが、原碑が断たれ埋められた理由であるとの見解も呈されている(宇治市歴史資料館「宇治をめぐる人々」、「宇治橋−歴史と地理のかけはし−」ほかによる)。筆者は、道登による架橋は民衆の浄財を集めて行ったものであり、それが洪水などで失われた後、国家事業としては(それは唐の使節を閲するためであったかも知れない)始めて道昭による架橋が行われこれが国の公式の歴史書たる「続日本紀」に記録されたと想像し、国が道昭を顕彰しようとするのに異を唱えるため、道登の徳を慕う人たちが碑を建てたと考える。

3) 「大乗院寺社雑事記」の明応4(1495)年の条に、「およそ関料の事、下行用意すべきなり。人別五銭(中略)宇治橋・木津渡の事は相違なく仰せ遣わせし了んぬ」とあって、一般の通行者は通行料が徴されていたことがわかる(宇治市歴史資料館「宇治橋−その歴史と美と−」による)。

4) 今回の架替えにより、宇治橋西詰交差点は、府道京都宇治線から市道宇治橋若森線に直進でつながるように改良されている。これに伴い、宇治橋通は一方通行化され、歩車共存道路としての整備が進められている。

5) 同書では、架橋位置の変更理由を藤原道長の別荘(後に平等院になる)の建設に挙げている。道長にとって、別荘の周辺や対岸の絶え間ない人の動きは著しく興趣を損なうものであったため、宇治橋を下流に移したと言う。ただし、平安時代の宇治は小規模ながら平安京のように東西南北に碁盤目状に区画されていて、現在の県(あがた)通により本町通から宇治橋にアプローチしていた。