姫路市営モノレール

新しい交通システムの早すぎた登場と撤退


ビルの中層に設けられていた姫路市営モノレール大将軍駅(平成23(2011)年8月撮影)
 新幹線が姫路駅を出た直後、左手に古ぼけたコンクリート製の橋脚と桁が見える。姫路市政最大の失敗といわれる「姫路市営モノレール」の残骸だ。今回は、姫路市営モノレールの遺構と保存・復元された当時の姿を探訪して、この計画に見える先進性と後進性の混在を検証する。

図1 姫路市営モノレールの位置
和41(1966)年5月17日、姫路城の修復を記念して開かれている「姫路大博覧会」の会場 手柄山に向かって、青と白のツートンカラーの車体が姫路駅前を出発した。姫路市営モノレールだ。延長1.6kmをおよそ5分で結んだ。100円という高額(並行するバスは40円)な運賃だったにもかかわらず、会期中 モノレールは2時間待ちになるほどの盛況で、博覧会も成功裏に終えた。
 その頃、わが国の諸都市は自動車の爆発的な増加による道路渋滞と光化学スモッグに代表される公害問題に悩まされていた。当時、「100万広域行政都市」を目指していた姫路市もその例外ではなく、国鉄により分断されている市街地を連絡するための公共交通機関を必要としていた。路面電車は道路の混雑を助長するとされ、もはや公共交通の主役ではなかった。さりとて地下鉄は事業費がかかりすぎる。そこで注目されたのが、建設費が割安で、高速運転と大量輸送が可能であり、走 行性能に優れたモノレールだった。市の戦後復興を指導した石見 元秀市長は、海外視察で乗車したモノレールの快適さに強く魅せられ、モノレールこそ最も優れた都市交通機関だと考え、都心と臨海部の飾磨・広畑などの工業地、北部の野里・白国などの住宅地、観光地である名古山・書写方面を結ぶネットワークを構想していた(図2)。しかし、これを
図2 昭和41(1966)年頃のモノレール拡張計画(手柄山交流ステーションの展示による)
公表すると採算性が問題となるおそれがあると考え、とりあえず博覧会場への足としてモノレールを建設し、これを既成事実として順次 建設を進めていこうという作戦だったらしい。
 ところが博覧会が終わった後の営業は散々たるものだった。市の開業前の計画では、手柄山は「姫路市内は言うに及ばず播磨地域の住民にとって最適な憩いの場所となり、わが国でも稀に見る一大観光施設が具現」して、モノレールには年間126万人が乗るはずであった。が、現実はそれとは遥かに遠く、博覧会のあった初年度ですら乗客数は40.3万人で、その後は21〜24万人の輸送実績であった。開業翌年の統一地方選で、モノレール問題を問われて石見は落選。市はただちに「モノレール対策審議会」を設置して、職員の大幅な削減、ダイヤの見直し、種々の乗客誘致策等1)の経営努力を重ねたが、はかばかしい改善は見られず、審議会は、「モノレール施設を公営企業として運営できる可能性は全くないものと考えられ、思い切ってこの事業を廃止することが望ましい」と結論づけた。起債の償還や撤去に要する費用の問題から、昭和49年4月にとりあえず休止という措置がとられ、5年後には公式に廃止された。運行したのはわずか8年間に過ぎなかった。
路市営モノレールが短命に終わった理由には、ひとつは科学的な根拠を欠いた過大な需要予測があったが、もうひとつはわが国のモノレールの開発事情があった。当時、モノレールが都市交通機関として有望視されていたことから、国内の車両メーカーはそれぞれ外国の企業とのタイアップも含め独自の方式と規格のモノレールシステムを売り込んでいた。姫路市が採用したのは、ロッキード社が開発した跨座式のタイプで、軌道桁に設置された1本の鉄製レールの上を鉄車輪で走行する方式だった。輪径が小さくてすむ鉄車輪を用いることで当時のゴムタイヤ式では不可能だったフラットな客室を可能にするものであり、鉄道並みの高速走行も可能で、都市交通機関としての発展性が期待されていた。その一方で騒音は大きく、特に国鉄を越える鋼トラス橋の部分では大きな反響音が発生したという。
 建設省は、モノレールの整備を促進するため、昭和49年度から、モノレールの下部構造(支柱及び桁等のい
わゆるインフラストラクチャー部分)を道路の構造の一部として道路整備予算で補助するという画期的な制度を創設した(表1で北九州高速鉄道(小倉モノレール)以降のものに適用されている)。そして、補助に当たりその構造基準を制定するため日本道路協会に調査を委託したが、そこではモノレールは公害の少ない中量輸送システムとしての位置づけが与えられ、懸垂式ではサフェージュ式、跨座式ではアルヴェーグ式を基本としてこれに改良を加えた方式(日本跨座式と呼ばれる)が採用された。これを見たロッキード社は、今後は受注の機会はないと判断し、モノレール事業から撤退してしまった。そのため、姫路市営モノレールは部品の補充に支障をきたすこととなり、これが廃止に至った大きな要因となったのである。
止されたモノレールは、桁の撤去にも費用がかかることから、鉄道や幹線道路との交差部等を除いてそのまま放置されている。高架橋が撤去されたのは全体の半分にも満たない。残された構造物は無惨な姿をさらしているが、現地を見ると斬新な工夫が凝らされていたことがわかる。

図3 モノレールの2タイプ、跨座式(左、東京モノレール)と懸垂式(右、千葉都市モノレール)(両社のHPによる)

表1 わが国のモノレール(遊園地などの特定施設内の移動に係るものを除く2))
開業年 名 称 ( 通 称 ) 方  式 備考
昭和37
(1962)年
ラインパークモノレール線 跨座式
(アルヴェーグ式)
廃止
東京モノレール羽田線 跨座式
(アルヴェーグ式)
 
昭和41
(1966)年
向ヶ丘遊園モノレール線 跨座式
(ロッキード式)
廃止
モノレール大船線(ドリームランドモノレール) 跨座式
(東芝式)
廃止
姫路市営モノレール 跨座式
(ロッキード式)
廃止
昭和45
(1970)年
湘南モノレール江の島線 懸垂式
(サフェージュ式)
 
昭和60
(1985)年
北九州高速鉄道(小倉モノレール) 跨座式
(日本跨座式)
 
昭和63
(1988)年
千葉都市モノレール 懸垂式
(サフェージュ式)
 
平成 2
(1990)年
大阪高速鉄道(大阪モノレール) 跨座式
(日本跨座式)
 
平成10
(1998)年
多摩都市モノレール 跨座式
(日本跨座式)
 
平成15
(2003)年
沖縄都市モノレール(ゆいレール) 跨座式
(日本跨座式)
 
図4 建物の屋上に残る姫路市営モノレールの遺構
 JR姫路駅の北口から山陽電鉄との間の道を西に進むと、まもなく屋上に橋脚をのせた建物が見える(図4)。さらに西進すると、モノレールの桁は建物の中層に吸い込まれるように入っていく(標題の写真)。大将軍駅の跡だ。駅の下には商業施設が、上には住宅が配置されていたが、商業施設の方は現在は使用されていないようだ。昭和49年度にモノレールが道路の一部と認められるまでは、道路を縦断的に占用することも許されなかった。そのため、事業費を縮減する工夫として、姫路市営モノレールは建物との一体整備という手法を採用したのだ。この手法は今も斬新さを失っていない。
 大将軍駅を出て大きく左に転じたモノレールの遺構は、船場川に沿って南下する。船場川は、江戸時代までは飾磨港から城下まで舟が行き来した。姫路市営モノレールは河川
図5 船場川に沿って南下する姫路市営モノレールの遺構、JR山陽本線を横断する箇所は山陽本線の高架化の際に支障物件として撤去された
敷内のわずかな土地を占用して橋脚を建てている。モノレールは下部工がスレンダーなので事業費縮減の発想としては合理的だが、今 同じことをしようとすれば河川管理者との協議にかなりの困難を伴うだろう。山陽本線を越えた姫路市営モノレールは、しばらく船場川に沿って走ったあと進路をやや西に振って手柄山に向かう。このあたりは、以前、老朽化した施設が落下する事故があったので、遺構はきれいに撤去されている。
 そして、終点の手柄山駅。ここは、長い間、車両が出入りする部分が閉じられただけで、内部はそのまま放置されていた。また、検修線には車両も存置されたままであった。ところが、石見 元秀の三男 利勝が市長になった平成15(2003)
図6 桁の上面に設置された1本のレールを走行するロッキード式の台車、桁の側面には安定用のレールと車輪がある
年以降、市ではモノレールの駅と車両の公開に向けて検討が進められた。そして20年には駅の耐震補強が、翌年には検修線からホームに車両を移す作業が行われ、23年からは水族館の一部を検修線部分に移設し、旧手柄山駅と併せて「手柄山交流ステーション」としてオープン。モノレールの駅と車両が公開されている。ロッキード式の特徴が分かりやすく展示されているのがよい。
 筆者が訪れたのは休日といいうこともあって、手柄山交流ステーションは家族づれでにぎわっていた。手柄山には、交流ステーションのほか陸上競技場、 武道館、体育館、野球場、水族館、植物園、遊園地、平和資料館、文化センターなどが集積し、多くの来場者を集めている。モノレールの計画と時期を合わせてこれらの施設が整備されていたら、姫路市営モノレールの採算性と存在意義はもう少し違ったものになっていたかもしれない。
流ステーションに掲出されていた姫路市営モノレールの拡張計画図(図2)を見て、筆者の感じた疑問をいくつか。まず思うのは、モノレールの路線計画にあたって既存の鉄道との連携が考慮されていないのではないかということ。姫路駅から姫路城を経て書写山に向かう路線は新たな観光客を誘致する効果があろうが、他の路線は既存の鉄道との競合が強すぎるのではないか。特に、市域の南部には都市交通施設として機能しうる山陽電車が走っているのに、あえてこれと並行して路線を計画する意図は理解できない。もうひとつは、需要見込みと実際の整備状況との乖離だ。これほどのネットワークを整備すればそれなりの旅客輸送量があるであろうに、すでに現地で確認した通り、姫路モノレールは全線が単線で建設されている。とりわけ、姫路〜大将軍間はすべての路線が運行する区間であるはずなのになぜ単線で建設されているのか。当該区間は建物と一体で建設されており、将来の複線化は極めて困難であるに違いない。石見 元秀市長は姫路モノレールの採算性の悪さを当初から認識しており、低コストでの建設を最優先にしたのだろうが、筆者には、この「拡張計画」なるものがどれほど真剣に検討されたものなのか想像できない。
 とはいえ、現時点で考えれば、全国の都市モノレールの整備状況から見て、姫路くらいの規模の都市において、都市交通施設としてモノレールを計画するのはおかしなことではない。播磨都市圏でパーソントリップ調査3)が実施されたのは昭和53(1978)年。もし、姫路市営モノレールが交通調査の結果を踏まえて科学的に計画され道路整備予算の補助を受けて建設されていたら、どのような姿になっていたであろうか。その意味では姫路モノレールの登場は時代を先取りしすぎたと言えなくもない。

(参考文献)
麗しの姫路モノレール(http://himejimonorail.web.fc2.com/index.htm)
モノレールのしおり(http://www5b.biglobe.ne.jp/~ktnh/mono/index.html)                          
 (2011.09.26)

1) 姫路市の観光PR活動、姫路城などとの回遊クーポン発売などの増客策のほか、市の文化施設の手柄山への集積、プロ野球を手柄山公園にある姫路球場に誘致などの部課を越えた施策が案出された。また、観光バスを手柄山公園の駐車場に留めてモノレールで市内に入って観光する「観光バス&ライド」も行った。当時としては窮余の策だったかもしれないが今の目から見るとなかなか先進的な施策である。

2) 遊園地内での施設であるが、上野動物園内のモノレールは遊戯施設ではなく、東京都交通局が地方鉄道法に基づく認可を受けて営業している。都電に替わる交通機関の試験線と考えられたらしい。また、東山公園内のモノレールも同様の趣旨で名古屋市交通局協力会(名古屋市交通局の外郭団体)が運営していた。なお、ディズニーリゾートラインも鉄道事業法に基づく交通機関としてオリエンタルランドが経営している。

3) 人の動きから都市における交通を分析していく調査で、「どのような人が」「どのような目的で」「どんな交通手段で」「どこからどこへ」移動したかなどを調べるもの。鉄道や自動車、徒歩といった各交通手段の利用割合や交通量などを求め、将来の交通量などの予測に結びつける。