ま ん だ の つつみ
茨 田 堤
大阪平野の成立期における治水事業 |
堤根神社の北東に保存されている茨田堤、大阪府の史跡に指定されている |
日本書紀や古事記の記述はどの程度 正確なものかにわかには判じがたいが、そこにはかなり大規模な土木事業が記録されている。今回ご紹介する「茨田堤」もそのひとつ。淀川の支流に10kmあまりに渡って堤防を築いたようだ。その痕跡が今日まで残っているのも驚きだが、それを門真市と寝屋川市に訪ねた。 |
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図1 現在の堤根神社、社殿の背後に茨田堤に生えるクスノキの巨木が見える |
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図2 茨田堤は古川に沿って延々と連なっていたというが現在では見られない |
阪電車の大和田駅から北へ300mほどのところに堤根神社がある。祭神は彦八井耳命(ひこやいみみのみこと)で、創建時期などは社伝が明治18年の洪水で流出したため不明だが、10世紀初頭に記された延喜式にはすでに載っているという。社殿の裏に約100mにわたって高さ1〜2mの土堤が残っており、これが「茨田堤」と伝えられている。昭和の初め頃まではこの土堤が神社の西から南方に延々と連なっていたが、住宅開発により破壊されていくのを憂えた宮司の奔走により、神社の東北の部分が昭和48年に、西の部分が58年に大阪府史跡に指定された。境内には、直木
孝次郎博士が賛する顕彰碑も建っている。
茨田堤とは、古代天皇家が渡来人の技術を用いて建設したとされる淀川の堤防だ。日本書紀の仁徳11年の条に「北の河のこみを防がんとして茨田堤(まむたのつつみ)を築きき」の記述があり、古事記にも「秦人を役(えた)ちて茨田堤また茨田屯倉を造り」とあり、5世紀頃に渡来人の技術を用いて淀川の河道を安定させて農地を開墾したことが伺われる。
「茨田」を「まむた」とは読みにくい地名だが、これは湿地を意味する「牟田」に由来するものらしい。このあたりが湿地になったのはおおむね縄文時代後期以降のことである。 |
からおよそ200万年前、地球の気候変動が激しくなり、4回の氷期とその間の3回の間氷期が繰り返された。以下に、最後の氷期(ウルム氷期)が去った後の、過去2万年の大阪の地形を考究した梶山1)らの研究を中心に、大阪平野が形成された歴史を概観してみよう。
今からら2万年前には、海面は現在より120m余り低く、大阪湾はもとより瀬戸内海や紀伊水道も陸地になっていた。大阪の気温は今より7゚C以上も低く、山地にはマツ・トウヒ・モミなどの樹林が広がり草原にはナウマンゾウが徘徊していたと思われるが、この頃にも大阪に人が住んでいたのは確実で、二上山のサヌカイトで作った石器が各地で見つかっている。ところが1万年前頃から急激な海面上昇が起こり(これを「縄文海進」と呼ぶ)、6,000年前(BC4,000年頃、縄文時代前期)には現在よりも2mほど高くなって、上町台地を除いて大阪平野のほとんどは「河内湾」とよぶべき海に没してしまった(図4(1))。その後、淀川・大和川2)により運ばれる土砂が形成する三角州により河内湾は次第に浅くなり、周辺部は陸地化していった。一方、上町台地の先端では偏西風を受けた大阪湾の潮流によって砂州が発達し、河内湾の湾口が狭まった((2))。これらの影響により、河内湾は海水よりも河川から供給される淡水の影響が大きくなり、3,000〜2,000年前(BC1,000〜0年頃、縄文時代後期〜弥生時代前期)には「河内潟」へと変貌していった((3))。遺跡から発見される貝塚の貝種が海棲のものから淡水棲に変化していることがこれを裏付ける。温暖な気候に適した広葉樹林でカシ・シイ・ヤマモモなどを採取しイノシシ・シカなどを捕獲していたこと、稲作が広まり河内潟周辺の低地に人が多く定住するようになったことも、
数多くの遺跡から判明している。
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(1)7,000〜6,000年前(縄文前期前半)、縄文海進により現在の大阪平野は海に没する |
(2)5,000〜4,000年前(縄文時代前期末〜中期)、河川の土砂により湾は徐々に埋まっていく |
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(3)3,000〜2,000年前(縄文時代晩期〜弥生時代前期)、淡水化して河内潟に変わる |
(4)1,800〜1,600年前(弥生時代後期〜古墳時代前期)、三角州と砂州の発達がさらに進む |
図3 考古学的時代区分と気温の変化(出典:参考文献(抜粋) |
図4 縄文時代から古墳時代に至る間の大阪平野の陸地化の過程(出典:参考文献) |
農耕社会に移行すると、生産力を向上させるために、農業共同体を統率する人たちに政治的支配力が形成されていった。そして、大規模な古墳に見られるような、強大な権力の集積がなされるのである。
上町台地から北に延びる砂州は前時代からさらに増長を続けて潟を閉ざし、そのため河内潟は河内湖というべき状態になってしまった。淀川・大和川の水は大きく北に迂回して現在の神崎川を流れて大阪湾に注ぎ込んでいたが、1,800〜1,600年前(AD200〜400年、弥生時代後期〜古墳時代前期)にはこの箇所が次第に浅くなって排水が困難になっていったようだ((4))。そうなると、農業の適地であった河内潟周辺の低地は、淀川や大和川の洪水の危険に絶えずさらされる不安定な生産地にならざるを得なかった。これに対処するため、古墳の築造などに動員された技術力と労働力を、河川の修築に投入したのが、本稿で取り上げた茨田堤であった。
なお、仁徳天皇は茨田堤を築くのに併せて河内湖から大阪湾に直結する水路を拓いており、難波宮の「北の郊原を掘りて南の水を引きて西の海に入れき。因りてその水を名付けて堀江という」との記述が日本書紀に見られる。現在
大阪城の北を流れる寝屋川から大川にかけての川筋がこれに当たるとされている。
本書紀は、茨田堤の工事について、おもしろい逸話を伝えている。その大意は、堤防を築いてもすぐに壊れるところが2箇所あって困っていたところ、天皇は「武蔵の人
強頸(こわくび)と河内の人 茨田連衫子(まむたのむらじころもこ)の2人を河伯(かわのかみ)に奉れば塞げるであろう」とのお告げを夢に見た。さっそく2人を探し出して人身御供とした。強頸は嘆き悲しみながらも命ぜられるままに川に入り、その部分は完成した。一方、衫子は瓢を川に投げ込み、「神が本当に我を得ようとするならこの瓢を沈めてみよ。沈めることができなかったらそれは偽りの神だ」と宣した。すると旋風が起こって瓢を水中に引き込もうとしたが、瓢は沈まずに流れ去った。こうして衫子は死を免れたが堤防は無事に完成した3)。人々はこの2カ所を「強頸の絶間(たえま)」、「衫子の絶間」と呼んだ、いうもの。衫子は朝廷から氏姓(うじかばね)を賜っている身であったが高度な技術力を背景に必ずしも政治的に服従していたわけではないこと、朝廷もそれを容認するしかなかったことを示していて興味深い。なお、堤根神社の由緒記は、衫子が「工事をなしえたことは自らの才如によらず祖神の助けによるもの」と祖神
彦八井耳命を祀ったのが起源と伝える。 |
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図5 太間地区の淀川堤防天端にある「茨田堤」の碑 |
屋川市内の淀川沿いに「太間(たいま)」というところがある。ここが衫子の絶間であったといわれ、昭和49年に「茨田堤」と記した石碑が建てられた。その解説にも触れられているとおり、文禄5(1596)年に豊臣
秀吉が文禄堤を設けるまでは、淀川には太間付近から南流する派流が存在し、これは柏原から北流してくる大和川と大東市住道(すみのどう)付近で合流して、大阪市の天満橋付近で淀川本流(現在の大川)に再び合流していた。現在の古川の川筋はその南流していた支流の名残である。文禄堤とそれに続く淀川の改修により古川は淀川と切り離され、現在は鋼矢板護岸とパラペットを有する、
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図6 秦 河勝の墓とも言う五輪塔、元は豪壮な塔であったが文禄堤の築造に持ち去られたため現存するのは慶安2(1649)年に再建されたもの |
内水を処理する河川として機能しているようだ。それとともに茨田堤もその役割を終えた。
寝屋川市の地名で、もうひとつ本稿と関係していそうなのは、京阪寝屋川市駅から1〜2kmほど東にある「秦」や「太秦」。仁徳期には各地に秦氏が進出したと見られることから、茨田堤の工事に参画したとされている秦氏の本拠がここであったことは十分に想像の範囲内にある。ただし、寝屋川を見下ろす高台にある秦
河勝の墓とも伝えられる五輪塔については、
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図7 茨田堤に関連する門真市・寝屋川市の遺構など |
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河勝は7世紀初頭に葛野(かどの)で活躍した人物で、4世紀末に比定されている仁徳天皇の治水事業への関与はつじつまが合わない。後年になって彼を供養するために建てたものであろう。
最後に、本稿でご紹介した事跡の位置を図7に示しておく。
(2011.06.27) |
(参考文献) 山内 篤ほか「変貌する大阪」(東京法令出版)
1) 梶山彦太郎・市原 実「大阪平野の発達史−−14C年代データからみた−−」(「地質学論集」(1972)所収)による。20地点に及ぶ14C(炭素の同位体)から割り出した年代データと土質工学会などが作成した土質柱状図から見いだした不整合面をもとに、大阪平野の発達史を説明した労作。梶原氏は、郵便局長をつとめる傍ら余暇に工事現場を訪れ、現地で露頭を観察して回ったという。
2) 現在の大和川は柏原から東流して堺に至っているが、これは宝永元(1704)年に付け替えられたもので、それまでは柏原から幾筋にも別れて流れていた。恩智川・玉串川・楠根川・長瀬川などがその名残である。本稿では付け替え前の大和川を指している。
3) 弘仁6(815)年に嵯峨天皇の命により編纂された「新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)」には、茨田宿禰(まむたのすくね)の説明として、「仁徳天皇の御世、茨田堤を造る」とある。 |
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