今も明治時代の面影を保つ水道施設(蹴上浄水場)


外観を残して再生された蹴上(けあげ)浄水場の第一高区配水池
 明治34年の文学同好会の帰り、歌人 与謝野 晶子は、旅館「辻野」で鉄幹と落ち合い2泊3日を過ごした。その時に詠んだ「御目ざめの 鐘は知恩院(ちおいん)聖護院 いでて見たまへ 紫の水」の歌碑が蹴上浄水場にある。「辻野」が45年に完成した浄水場の敷地になっているからだ。今回は、ツツジの一般公開を機に蹴上浄水場を訪れ、明治の面影を探ってみた。

京奠都によって寂れた京都を救ったのは明治23(1890)年に完成した琵琶湖疏水。発電や舟運に用いられ、これにより人口や産業の流出が止まり京都の衰退が救われた。さらに、水道用水の需要と市電の拡張などによる発電の増強に対応するため、41年から第二疏水の建設に着手され、45年3月に完成した(「第二疏水の建設」、「水道事業の開始」、「道路拡張と市電敷設」を京都の三大事業と呼ぶ)。第二疏水は第一疏水の北に並行して建設され、蹴上で第一疏水と合流する。汚染を防ぐため延長7,423mのほぼ全部がトンネルとなっている。取水量は15.3m3/秒で
図1 琵琶湖疏水とそれに関連する施設の現況
これにより琵琶湖から京都にもたらされる水は3倍近くに増えた。
 「山紫水明」と言われる京都だが、江戸時代を通じて商工業都市としての発展を遂げるにつれ、地下水は水質・水量とも需要に適合しづらくなっていた。そのため、先に第一疏水が計画された際にもその目的の6番目に水道事業が挙げられたが、その時には実現せず、第二疏水を待たなくてはならなかったのだ(第二疏水では1番目の目的が水道事業)。
表1 蹴上浄水場とそれに関連する事業の沿革
明治23(1890)年 第一疏水竣工
明治45(1912)年 第二疏水及び蹴上浄水場竣工(給水能力68,100m3/日)
昭和37(1962)年 増補改良工事竣工(給水能力198,000m3/日)
昭和60(1985)年 近代水道百選に選定
平成 8(1996)年 第一疏水トンネル出入口、蹴上インクライン、南禅寺水路閣などが国の史跡に指定
平成 9(1997)年 第1系統を休止して改良工事に着手(給水能力99,000m3/日)
平成11(1999)年 第二疏水連絡トンネル竣工
平成15(2003)年 第1系統竣工、第2系統と切替え(給水能力99,000m3/日)
平成19(2007)年 蹴上浄水場が経済産業省近代産業遺産に認定
平成24(2012)年 新施設完成(給水能力198,000m3/日))
二疏水が第一疏水に合流する地点から三条通(府道四ノ宮四ツ塚線)を挟んで対面したところに蹴上浄水場はある。明治45年3月に完成した時の規模は、給水能力68,100m3/日、給水人口約4万人であった。蹴上浄水場の特徴は、わが国で最初に急速濾過式を採用したこと。
 「急速濾過」の説明をするには、まず従前から行われていた「緩速濾過」から始めなくてはなるまい。これは1829年にイギリスの水道技師シンプソン(James Simpson,1799〜1869年)が開発した方式で、細かい砂の層を3〜6m/日というごくゆっくりとした速度で水を通して濾過するもの。砂の表面に膜のように張り付いた微生物により、濁り、細菌、藻類、油、有機物、鉄・マンガン等が除去される。
 これに対して「急速濾過」は、1872年にアメリカで始められたとされる、5m/時くらいの非常に早い速度で濾過する方式である。この方式は設備面積が少なくて済む利点があるが、反面、微生物の作用は期待できず、物理的濾過にとどまるため、塩素処理による消毒が必要となるほか、味や臭いの点で緩速濾過に劣る。濾過を効果的に行うため、硫酸アルミニウムやポリ塩化アルミニウムなどの凝集剤を加えて濁質をフロック1)化し、あらかじめできる限り沈殿除去しておくのが一般的だ。 
 図2 急速濾過式の浄水場における浄化の例、施設により多少 異なる

図3 開設当時の濾過場内部(出典:「京都市三大事業写真帖」(明治45年)) 図4 現在の急速濾過池、130m2の池が14池ありそれぞれ20cmの砂利と70cmの濾過砂を有する
 蹴上浄水場で急速濾過式が採用されたのは、華頂山の麓という狭隘な敷地に計画されたから。導入された濾過機はジエウレル式2)20槽(1槽の濾過面積32.17m2、濾過速度5m/時)であった。当時の浄水技術を知る上で貴重なものと認められ、昭和60(1985)年に「近代水道百選」に選定されている。ところが平成9(1997)年から、施設の老朽化と原水の水質悪化に対応するために抜本的な改築が進められ、創設時の濾過場やポンプ棟等が撤去された。市は新築した建物や敷地の外塀にレンガ調タイルを用いることで雰囲気を残したと言っているが、そんなことではなくてせめて濾過機の1槽だけでも本物が保存されればよかったと思う。
地内のスロープを上っていくと第一高区配水池に行き着く(標題の写真)。現在の蹴上浄水場で当初の面影を残す施設はこれだけになった。疏水に関連する施設を多数手がけた田辺 朔郎(当時は京都帝国大学教授)が同僚の日比 忠彦3)の協力を得て設計したといわれ、大きさ36.58m×25.62mで深さ5m、有効容量4,500m3の池が2池で構成されていた。
図5 レールに載って移動中の流入弁室(平成27年7月、京都市上下水道局提供)
写真に見える流入弁室は、見るからに無骨な造形だが、ヨーロッパの古城を思わせる双塔の頂部の装飾が目を引く。
 ただし、配水池は明治時代のものがそのまま使われているのではない。老朽化に対応するために、京都市では平成25年12月からほぼ2年半をかけて改良工事を行っている。外周のレンガ壁を保存するため、改修した池はこれまでよりひとまわり小さくその代わり少し深くなっている。これに伴い流入弁室の地下にある弁の改修も必要になったが、そのために流入弁室を除却するのではなく、一時的に違う場所に移す工法を取った。具体的には、@建物を内側から補強した後、A建物の下にコンクリートの基礎を構築し、B全体をジャッキアップしてレールに載せ、横に移動させる(「曳家(ひきや)工法」という)のである。弁の工事を終えたら同じ方法で元の位置に戻す。これはかなり面倒な作業であったが、
図6 第一疏水と第二疏水の合流点に建つ大日山水源池喞筒室、建物が面するのが第一疏水で左のトンネルから出るのが第二疏水
そのおかげで由緒あるファサードを保つことができた。
こで、疏水に関連する水道施設でもうひとつ残っているのをご紹介しておこう。新旧の疏水が合流して日向大神宮の参道と交差する付近にある「大日山水源池喞筒(そくとう)室」だ。疏水の水を背後の山にくみ上げるポンプ室であって、そこから御所に消火用水を送った。円山公園の噴水、東本願寺の掘割、枳穀邸の印月池などにも送っているらしい。第二疏水と同じ明治45年の完成。宮廷建築家の片山 東熊(とうくま)4)と山本 直三郎5)の設計で、疏水に面してバルコニーを配したネオルネッサンス風の瀟洒な造りである。大正天皇が皇太子の頃、疏水を船で大津から京都に抜ける計画があったらしく、それを出迎えるためにポンプ室とは思えない豪華な意匠を施したのだそうだ。
(2011.05.09) (2011.06.17) (2018.06.26)

1) 水中に懸濁するコロイドなどの微粒子が凝集してふわふわの固まりになった状態をいう。

2) 米国ロードアイランド州プロビデンス市にあった同社が販売していたもの。その特徴は、濾過砂の洗浄に当たって浄水を砂層の「下部ヨリ騰出セシメ其有スル壓力ヲ利用シ且特ニ取付クル攪拌機ニヨリ器械的ニ其洗滌作用ヲ助ケシメ一切人體ノ之レニ触レサル」(京都市「京都市三大事業誌巻5」による)点にあった。濾過速度は濾過砂の材質や粒度によりコントロールされるが、目詰まりを起こすとこれに大きな影響を与えるので濾過砂の洗浄が重要なのである。。

3) 明治6(1873)年に福井県に生まれ、帝国大学工科大学土木工学科を卒業後、京都帝国大学助教授になってフランスやアメリカに渡って建築学を研究し、39年に教授に昇格して建築学を担当。建築学教室(旧館)を武田 五一とともに設計している。建築材料学を専門とし、鉄骨構造に明るく鉄筋コンクリートの権威とも言われた。大正10(1921)年没。

4) 嘉永6(1854)年に山口県の萩で生まれ、辰野 金吾らとともに工部大学校建築学科の1期生として卒業し、工部省・宮内省を歴任して各地の国立博物館や赤坂離宮・明治天皇葬祭場など36件の設計に関与した。大正6(1917)年 没。代表作である東宮御所(現在の迎賓館)は明治以降の建築として初めて国宝に指定されている(平成21(2009)年)。

5) 明治2(1869)年生まれ。25 年に宮内省技師として任用され34 年に片山に随行して渡欧している。大正10(1921)年に退官。武庫離宮、大山参道などを担当。