洛西用水

秦氏に遡る潅漑技術の知恵と工夫を探る

渡月橋のやや上流にある一の井堰
 わが国では水稲を育てるために多くの用水路を引いた。その延長は約40万km、地球10周分に相当するとも言われる。先人が築いた水路は今も脈々と我々の身近なところを流れているが、そのうち、京都府からは「琵琶湖疏水」とともに「疏水百選」に選ばれた「洛西用水」を、今回はご紹介しよう。

条通を西に突き当たったところ、ちょうど祇園 八坂神社と対面する位置に松尾(まつのお)大社がある。神泉「亀の井」は長寿の水として知られ、酒造家はこれを元水に混ぜて醸造するという。
図1 洛西用水竣工記念碑
この神社、境内に水路が2本通っている。楼門の内側を南北に貫く「一の井川」と、参道を横切って流れる「東一の井川」で、いずれも現在は「洛西用水」と呼ばれる農業用水路としての位置づけだ。松尾大社は、筑紫国宗像(むなかた)郡にあった神を、勅命により大宝元(701)年に秦忌寸都里(はたのいみきとり)が勧請して社殿を造営したと言うが、実際にはさらに古く、背後の山にある磐座(いわくら)に降臨する神を祀ったことに始まる。この神、丹波国が湖であった大昔に保津峡を開かれ、そのおかげで丹波国では沃野ができ山城国では荒野が潤ったと伝えられている。両国の農耕地としての開発に際して信仰された神なのであろう。
 東一の井川の傍らに洛西土地改良区が建てた「洛西用水竣工記念碑」がある。高さ4mほどもある大きな碑だ。曰く、「上古、秦(はた)氏葛野(かどの)に来居し、松尾大神の霊験を蒙り保津峡を拓き大堰(おおい)を築きて一の井・二の井を通す。
表1 文献に見える秦氏の事跡                     
応神14年(4世紀末) 弓月君が百済から来日して27県の民の救援を求める
仁徳期 127県の秦氏を諸郡に分かち置き、養蚕に従事させる
5世紀初頭から 西京区山田から大原野にかけて古墳が数多く築造される
雄略15年(5世紀末) 秦酒公(はたのさけのきみ)、絹を朝廷に献じて禹都万佐(うずまさ)の称号を得る
5〜6世紀 秦氏が葛野大堰を築き開発を進める
欽明1年(6世紀末) 天皇が、夢に従い深草の人 秦大津父(はたのおおつち)を登用する
推古11(603)年 秦造河勝(はたのみやつこかわかつ)が聖徳太子から仏像を譲り受け、蜂岡寺を建立する
推古31(623)年 新羅・任那の使者が持参した仏像を葛野の秦寺に安置する
皇極3(644)年 河勝が「常世神」騒動を解決する
大宝1(701)年 秦忌寸都里(はたのいみきとり)、松尾社を創建する
和銅4(711)年 秦中家(はたのなかいえ)ら、稲荷社を創建する
天平12(740)年 「広嗣の乱」に際して秦忌寸が騎兵の徴発に応じる
天平14(742)年 秦下嶋麻呂(はたしたのしままろ)、恭仁京に大宮垣を築いた功績により従四位下を授けられ、大秦公(うずまさのきみ)の姓などを賜る
天平17(745)年 嶋麻呂に恭仁京をかたづけさせる
延暦3(783)年 葛野郡の秦忌寸足長(たりなが)、長岡京の宮城を築いた功績により従五位上を授かる
延暦4(784)年 大秦公秦忌寸宅守(やかもり)、長岡京の太政官院垣を築いた功績により従五位下を授かる
是れ則ち洛西用水の始まりと為す・・・」。なんと、本稿でご紹介する洛西用水の発祥は秦氏に遡ると言うのだ。
氏とは山城盆地を開拓した渡来人の集団で、古代史に登場する最大の氏族である。「新撰姓氏録」では、応神14年に  来日した弓月君(ゆつきのきみ)を祖とし、遠くは秦の始皇帝につながるとしている。文献に現れる秦氏の事跡を表1に挙げてみた。実際にはすべてが同族ではないかもしれないが、秦氏として把握されている集団には少なくとも蜂岡寺を信奉するグループ、松尾社を信奉するグループ、稲荷社を信奉するグループがあることがわかる。中でも葛野郡の秦氏は忌寸の姓(かばね)1)を与えられ特に有力であったようだ。
 寛弘5(1008)年に著された「政事要略」には「秦氏本系帳に云わく。葛野の大堰を造りしは天下に於いて誰ぞ比検すること有らん。これ秦氏の種類を率いて催し、之を造り構えしところなり。昔、秦の昭王、洪河を塞ぎ堰め(中略)田を開くこと万頃(まんけい)なり。秦の富、数倍となる。謂うところは、鄭伯の沃は衣食の源といえるなり。今 大井の堰の様、即ち彼に習いて造れり。」とあって、葛野の秦氏が中国の技術を導入して大堰を築いたことが
図2 葛野郡の位置、長岡京・平安京及び現在の行政界を併せて示した
伺われる記述である。
 国家権力による水利の掌握が弱かったため、中世に入ると桂川には多くの井堰が作られ、それぞれの利水者による共同体が管理するようになった。桂川はしばしば氾濫を繰り返し、流路もたびたび変遷した。その都度 潅漑施設は修築されたが、それが水争いを引き起こした。桂川右岸の上野・上久世・下久世庄が東寺の荘園となっていたことから、本用水についても「東寺百合文書(ひゃくごうもんじょ)2)」でその様子を知ることができる。そのひとつ、「山城国桂川用水差図(明応5(1496)年)」には井堰の位置や潅漑系統が克明に記録されている。 左岸側との25年に及ぶ紛争に際して作成された本図が東寺に保管されていたのだ。こんなこともあって、洛西用水はわが国でも最も詳しい履歴を有する潅漑用水のひとつになっている。
 今見る洛西用水は、昭和23(1948)年から40年にかけて行われた「府営洛西農業水利改良事業」により整備されたもの。それまで桂川右岸地域では、10箇所余りの井堰で桂川から取水していたが、いずれも木工沈床3)、蛇篭、杭柵などの簡単なもので、老朽化しやすく洪水にも弱かった。これを一の井堰と下流の久我井堰に統合し、約20kmに及ぶ用排水路をでもって約200haを潅漑するという事業だった。これにより秦氏の時代から続いた、村落共同体による水利管理に終止符を打つことができた。
朝以来のさまざまな物語の舞台であり、名所史跡の宝庫である嵐山と嵯峨。両地区を隔てるのが大堰川である。大堰川とは、京都市左京区広河原を水源とし大きく西に流れて亀岡盆地から保津峡を経て淀川に注ぐ桂川
 図3 洛西用水の一の井堰と取水口の関係
の、嵐山付近での別称で、秦氏の築いた大堰がこのあたりにあったとされることに由来する名だ。ここに架かる渡月橋は、承和年間(834〜847)に弘法大師の弟子で法輪寺を興した道昌によってかけられたのが始まりと伝える。
 その渡月橋から上流を見ると、大堰川の本流に長大な堰が設置されている。一の井堰だ。並んだ木杭が大堰川の景観に趣を添えているが、実態は高さ1.8m、長さ151.6mのコンクリート製重力式固定堰。ここで堰き上げられた水は中ノ島によって隔てられた支流に流れ込む。支流を少し下ると、観光地にはいささかそぐわない無骨な水門が見えてくるが、これが農業用水を洛西の地へと流すための洛西用水の取水口なのである。
 1,500年前に秦氏がどのように取水していたのかを知る手がかりは、洛西用水の取水口付近の地形図に
図4 本流に設けた堰で水位を上げて手前の支流に導く 図5 洛西用水は正面の暗渠から取水している
見ることができる。図3に示すように渡月橋のある中ノ島付近の大堰川は全幅が不自然に広がっており、中ノ島の北岸が前後の右岸になだらかにすりついている。中ノ島によって隔てられている支流は人工の水路だったのではなかろうか。本流の堰でもって水位を高めて支流に導きそこから取水する工夫こそが、秦氏の優位技術であったと思われる。これにより、本流の洪水で耕地が荒れることを免れつつ安定的な水利を得ることが可能になったのだ。同様の例は四川省の「都江堰4)」にあって、規模は違ってもよく似た光景を見ることができるという。
円形分水工
久我井堰
大下津排水機場
図7 桂川右岸を潤す洛西用水の概要
 取水口を通った水はすぐに一の井川と東一の井川の二手に分かれ、ともに住宅の間を東南に流れて松尾大社に向かう。大社の南で両者はいったん合流し、西芳寺川をサイホンで横断して円形分水工で二手に分かれて向日市・長岡京市に延びている。それぞれの流路は幾本にも枝分かれし、流末は西羽束師川などと交錯して素人目には判別しにくい。
 都市化の進展により、洛西用水でも水質汚濁やゴミの投棄が深刻となっている。また、現在の洛西用水は都市の雨水排水路としての機能も果たしており、降雨時には水路に水を導かないようにするなど、本来の農業用水としての管理の範囲を超えた苦労が多いそうだ。

図6 住宅の間を流れる東一の井川、大切な 水を漏らさないため3面をコンクリート張りにしたという
(2011.04.08) 

1) 大和朝廷が全国を支配する上で採った仕組みが「氏姓の制」である。氏というのは本来は血縁集団の名称であるが、大和朝廷は自らに従属した既存の血縁集団が固有の氏を称するのを追認するとともに、新たに従属するようになった渡来人や職能集団にも氏を与えた。秦氏の場合、半島の百済地域出身の人たちが渡来する都度 同じ氏を与えたものと見られる。また、それぞれの氏の家柄や朝廷への貢献の仕方に応じて姓を与えた。主な姓には次のようなものがある。
・臣(おみ): 葛城(かつらぎ)氏、平群(へぐり)氏、蘇我(そが)氏のように、大和盆地を本拠地として、もとは天皇家と並ぶ立場にあった氏に与えられた最高格の姓。
・連(むらじ): 物部(もののべ)氏、大伴(おおとも)氏、中臣(なかとみ)氏など、天皇家が政権を獲得する過程で重要な役割を果たした氏に与えられた姓。
・直(あたい)・史(ふひと)・造(みやつこ): 主に職能でもって朝廷に仕える氏に与えられた姓で、これには秦氏、東漢(やまとのあや)氏、西文(かわちのあや)氏などの渡来氏族のほか、弓削(ゆげ)氏、矢集(やずめ)氏、服部(はとり)氏、犬養(いぬかい)氏などがある。また、部(べ)(天皇家の生活を支えるために抱えている職能手段で、馬飼(うまかい)部、錦織(にしごり)部、陶(すえつくり)部などの品部(ともべ)と屯倉(みやけの)耕作に従事する田部(たべ)に大別される)を監督する家臣にも与えられた。
・君(きみ)・公(きみ)・首(おびと)・村主(すぐり): 朝廷に服属する地方豪族に与えられた姓。このうち、君・公は天皇家と婚姻関係を結んだ氏に、村主は渡来系の氏に与えられるケースが多かった。
・真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸: 天武13(684)年の「八色(やくさ)の姓」により制定された上位の姓で、真人は皇親氏族に限られ、残りの3姓は諸臣貴族に与えられた。
 なお、上記の説明はあくまで原則であって、大きな功績を挙げれば連(むらじ)に取り立てられる等の考課があった。

2) 加賀藩主 前田綱紀が貞享2(1685)年に東寺が所蔵する古文書を調査した際に寄贈した100箱の桐箱に封入された図書のこと。奈良時代から江戸時代に至る約4万点が保存されている。うち24,067点が国宝、その他は重要文化財。

3) 比較的急流部の水制、根固め工に用いられる工法で、長さ2m程度、末口12〜15cm程度の方格材を用いて2m間隔のます形状に木材を並べ、鉄線で緊結して石を詰める。

4) 成都の郊外を流れる岷江にある都江堰は、紀元前256年に建設された水利施設で、約3kmの「金剛堤」で岷江を内江と外江に分け、内江から取水して成都に導くもの。2000年に世界文化遺産に登録されている(右図、出典:京都府農林水産部「嵯峨嵐山一の井堰」)