くらがり

伊勢本街道 暗 峠

観光交通の回遊性を高める手法を体感

石畳が残る暗峠付近の伊勢本街道
 関西の強みは“観光”。行政界を越えた広域観光の取り組みが進められようとしているが、このような動きは今に始まったものではない。今回は、伊勢神宮への参拝路である伊勢本街道の最初の難所 暗峠を訪れて、観光客を回遊させるソフト・ハード両面にわたる手法を体験した。

禄7(1694)年9月8日、芭蕉は支考、惟然らを伴って郷里 伊賀上野を発って大阪に向かった。大阪にいる2人の高弟の不仲を仲裁するためである。体調を気遣う兄と別れて、一行は笠置から木津川を舟で下り、
図1 暗越えにある2つの芭蕉句碑、左は寛政11(1794)年に暗峠に建てられその後の土砂崩れで不明になっていたが大正2(1913)年の大雨で露出し麓の勧成院に移されたもの、右は左の句碑が見つからないため明治22(1889)年に俳句結社により建てられたもの
その日のうちに奈良に着いて猿沢池畔に宿をとった。翌9日、奈良を出て暗峠に至り、峠からは駕籠に乗って大阪に向かっている。芭蕉がこの日にこだわったのは、重陽の節句に山に登って菊酒を飲む「登高」という中国古来の風習があったから。「菊の香にくらがり登る節句かな」の句を残している。大阪では、芭蕉は2人の高弟の宅に公平に泊まりつつ、住吉大社に出かけるなどして作句を続けたが、発熱下痢をおこし花屋 仁右衛門方離れ座敷に病臥、10月12日の夕刻に没した。51歳。花屋のあったところは御堂筋の拡幅により道路区域に編入され、今ではいちょう並木の中に「此付近芭蕉終焉ノ地」と記した碑が建つ。
回は、芭蕉が通った「暗越え奈良街道」を芭蕉とは逆に大阪側から奈良側に越えてみよう。暗越えの入口は東高野街道との交差点にある道標。「東すく なら いせ道」とある。
図2 街道の交差点に建つ暗越えの道標
大阪と奈良を最短距離で結ぶこの道は、遠く伊勢まで通ずる街道の一部としても認識されていた。
 江戸時代、「おかげ参り」と呼ぶ伊勢参宮ブームが周期的に起こった。慶安3(1650)、宝永2(1705)、明和8(1771)、文政13(1830)年のものが知られている。伊勢を目指す人は全国から集まったが、西国からの参宮者はまず奈良に向かいそこから三輪、初瀬、榛原、菅野、奥津、多気を経て伊勢に行くのが一般的だった。これを伊勢本街道と呼んでいる。巡礼道としての性格もあったのであろうが、伊勢本街道は険しい山道が多かった。近代の鉄道や道路の整備から取り残されて、沿道には過疎に苦しむところも少なくないが、逆に往時のありさまがよく保たれ、本格的なウォーキングコースとして人気を集めている区間も多い。
 さて、道標から東に向かい、近鉄のガードをくぐる。両側に民家が並んでいるが、道はかなりの急勾配で登っていく。滑り止めのコンクリート舗装が施され幅員は2m余り。勧成院で
図3 暗越え奈良街道の主要区間、周辺に寺社が点在する
図4 暗越えの登り始め、車が1台かろうじて通れる幅しかない 図5 暗越えの中腹にある弘法水、旅人にはありがたい存在だったのだろう
芭蕉句碑を見せていただいて、100mほど進むと民家が途切れ、もうひとつの句碑が路傍にある。この先、周辺は枚岡公園や「府民の森」になっており、整備された園路が接続しているが、暗越えの道は谷川に沿ってひたすら登る。川には滝があって修験道の行場になっているようだ。40゚ほどの勾配のヘアピンカーブを過ぎてなおも登ると「弘法水」という湧水がある。やがて道はやや緩やかになり眼前には棚田が現れる。こんな高いところを開墾する人があるのだと驚くうちに、暗峠(標高455m)に着く。所要時間は1時間を若干下回る程度。峠には石畳が敷かれ茶店も出ている。東大阪市が設置した案内によれば、江戸時代には峠に20軒ほどの旅籠があったことが「河内名所図会(享和元(1801)年)」から知れるという。
図6 峠から奈良側を見下ろす、行く手がはるかに展望できる景観デザインとなっている
峠の奈良側には大和郡山藩の本陣もあった。棚田は、街道を守る人たちのものだったのだ。
息入れて下り始めると、前方には奈良盆地の景観が広がる。中央に見える矢田丘陵も遠くに眺望できる若草山などの奈良奥山も、疲れた旅人をいざなっているようだ。奈良の東大寺や興福寺などは今も多くの人が訪れるが、矢田丘陵にも名刹がある。とりわけ矢田山金剛山寺(こんごうせんじ)1)は地蔵信仰の中心とされ、今回のウォーキングで筆者が気づいただけでも図3のAからFにかけて矢田山への道標が設置されていた(図8)。そう言えば、峠の手前にあった「迎地蔵」(A)は、矢田山のお地蔵さまがここまで迎えにおいでになっているという設定。旅人の足を進める工夫が凝らされている。
 伊勢に行くことを目的とするならば暗峠を越えるよりも
図8 矢田丘陵の寺院群を指す道標
図7 峠の手前で矢田山のお地蔵さまが旅人を迎えるという「迎地蔵」
柏原を経由するのがはるかに合理的だ。そこをあえて暗越えを選ぶのは、観光交通は速達性よりも回遊性を重視するからなのだろう。本日のコース上にも、この先、利き酒、足湯、観梅、窯元見学などの体験型イベントが配置されている。お楽しみはこれからだ。


(2011.03.14) 

1)天武天皇の命により白鳳8(679)年に創建され七堂伽藍四八坊を造営したのが開基と伝えられ、戦乱により多くの堂坊を失っていたのを、宝永・正徳年間(1704〜1716)に行海満空上人が中興し栄えた。現在は北僧坊、大門坊、念仏院、南僧坊の4つを総称して矢田寺という。大門坊は、弘法大師が25才の時に国家安穏・万民豊楽の誓願を立てたとも伝える。わが国最古の延命地蔵菩薩(弘仁年間(810〜824))を安置する。