旧逢坂山トンネル

開業後40年で放棄された鉄道ルートを行く

日本人の手で最初に掘った旧逢坂山トンネルの東坑口
 社会の要求は技術者と構造物に対して非情だ。わが国の鉄道史上 最初の山岳トンネルであり、日本人だけによる最初のトンネルであった旧逢坂山トンネルは、東海道本線の輸送力増強の要請の前に、わずか40年で放棄される。本稿では、廃された東海道本線を訪ね、十全に役割を果たすことのなかった遺構たちの現況をレポートする。





「こ
れやこの 行くも帰るも 分かれつつ 知るも知らぬも 逢坂の関」−−盲目の琵琶法師 蝉丸1)
図1 関蝉丸神社に建つ蝉丸の歌碑
詠んだ歌で有名な逢坂山は、平安時代から交通の要衝であった。ここに鉄道が通じたのは明治13(1880)年。11年8月に着工し、翌年8月に京都から稲荷を経て大谷までを開業、13年7月に逢坂山トンネルから馬場(現在の膳所)でスイッチバックして大津(現在のびわ湖浜大津)までが開通したのである。逢坂山トンネルは延長644.8m、高さ4.7m、幅4.2mのわが国の鉄道で最初の山岳トンネル2)であると同時に、日本人だけによるトンネルとしても最初のものであった。「工技生養成所」で技術者の育成に当たっていた飯田 俊徳3)を総監督に起用し、生野銀山の坑夫らが手掘りで掘削したという。「工技生養成所」とは、当時 大阪駅構内に設けられていた教育施設で、鉄道建設における日本人の技術的自立を目指して開設していたものだ。 

図2 東海道線 京都〜大津間の当初のルート、京都駅から大きく南に迂回し山科盆地南東部を北上して逢坂山から馬場駅に至る(明治42年・大正2年測図)

 東海道線のうちでも京都〜馬場間は、SLの限界とされる25‰の急勾配が連続し極端にスピードが落ちることから輸送上のネックとなっており、優先して複線化する必要性は当初から想定されていた。30年3月に京都〜大谷間に下り線が、31年4月に大谷〜馬場間に上り線が増設され、この時、逢坂山トンネルも新たにもう1本掘られた。このような改良が加えられても、鉄道輸送が本格化するにつれやはり急勾配の克服が課題となり、京都からまっすぐ東山トンネル(1,865m)と新逢坂山トンネル(2,325m)により馬場に達するルートが計画されて、大正10(1921)年8月に開通した。これにより当該区間は4km短縮するとともに最大勾配が10‰に緩和され、輸送力強化に大いに役立った。同時に、もとの逢坂山トンネルは約40年で鉄道としての使命を終える。総監督だった飯田は時に74才。その2年後に亡くなった。
図4 長手積みが採用された上半部、天井には煤煙が付着したまま
図3 坑口の上に掲げられた扁額
逢坂山トンネルの東坑口は、京阪大津線の上栄町駅から国道161号を京都方向に5分ほど歩いたところにある。2本のトンネルのうち左側のが当初のもので、右側のトンネルが上り線用として建設されて以降は下り線に使われた。花こう岩を組み合わせた坑門は苔むしており、上部には時の太政大臣 三条実美が揮毫したという「楽成頼功」の扁額がかかっている。工事関係者の功により落成したという意味らしいが、「落」の字を忌んで
図5 側壁部にはイギリス積みが採用されている、図のA−Aは側壁部と上半部の境界で起拱線と呼ぶ
「楽」の字を用いた。
 坑内は煉瓦で覆工され、見上げるとその表面は煤煙で黒ずんでいる。上半部は、曲面でも奥まで密に煉瓦を配置でき地質の変化に応じて巻き厚を変えやすい長手積み4)、側壁部は強度的に優れているとされるイギリス積み4)を採用している。
 この旧逢坂山トンネルは鉄道記念物に指定されており、JR西日本が設置した説明板もある。坑口付近に「京大防災研究所付属地震予知研究センター逢坂山観測所」があり、ここではトンネルの中に伸縮計や傾斜計等をおいて地殻変動の観測を続けている5)。そのためもあって、トンネルは10mほど先で塞がれ施錠されている。また、付近には大津市の「大谷加圧ポンプ場」があり、逢坂山からの湧水を水道に利用している。戦時中、航空機の部品を作る軍需工場がトンネル内に移転し女学生が勤労奉仕にかり出されたことがあったそうだが、その時の記録によれば、天井から絶え間なく水が流れ落ち作業環境が著しく悪かった6)ようであるから、かなりの湧水があるのであろう。
 
 一方の西坑口は京阪大津線の大谷駅から北へ5分ほど行ったところにあった。昭和38年に開通した名神高速道路により埋められ、その跡には「逢坂山とんねる跡」碑がある。
図6 道路公団が設置した西坑口の記念碑
日本道路公団が「時代の推移を思い碑を建てて記念する」として設置したもの。名神道は逢坂山トンネル西坑口から追分付近まで旧東海道線の跡地に最大18mの盛土をして縦断線形を高くして建設されたのだ。なお、旧東海道線の逢坂山トンネルの坑口には、当時の鉄道局長 井上 勝7)がトンネルの完成に当たって工事概要を誌した扁額が掲げられていたが、これは交通博物館に移されている。
逢坂山トンネルを含む当初の京都〜大津間の線路敷は大部分が他に転用されているが、鉄道遺構が今も所々に残っている。まず、旧逢坂山トンネル東坑口から膳所を経て浜大津までの間で図7に示す3カ所ご紹介しよう。1つ目は坑口から国道161号を挟んで向かい合う位置(@)にある煉瓦積みの橋台である。もちろんイギリス積みである。複線の幅員があるのでかなり大きく感じられる。現在は建物敷地の擁壁となっているようだ。ここから大津駅の東にかけては、
線路敷は国道1号に転用されているが、盛土の下にある音羽台1号橋(A)は みごとなねじりまんぽであり、おそらく鉄道建設時に遡る構造物であろう。
 また、京阪石坂線の島が関駅の東方にある小舟入川橋(B)のうち北側の橋桁には鉄道省8)と記した銘板が認められる。浜大津〜膳所間は、標準軌の「大津電車軌道9)」(複線)と狭軌の国鉄(単線)が共用していたことが伝わっているが、
複線のうちこの桁に乗っている石山行きの軌条が共用されていたと推測できる。
 西坑口から西の軌道敷は基本的には名神高速道路に転用されているが、
@国道161号に面する橋台
追分から京都東インターにかけての区間(C)は、鉄道の曲線半径が高速道路のそれとは異なっていたため名神のルートとはならず、市道として残されている。沿道利用の少ない抜け道的道路だ。さらに大塚から大宅にかけての区間(D)は、鉄道が廃された後 いちはやく幹線道路として使われたため、
A音羽台1号橋 B小舟入川橋の橋桁(北側)
図7 大津市に残る旧東海道本線の遺構
名神道は山麓を直線で通るルートとなっている。当該市道(小山大宅線)は周辺地盤よりやや高めにセットされているようであり、鉄道の頃の縦断を保っていると想像される。
 大宅付近でやや西に向きを変えた後、旧東海道本線は高い築堤でもって山科盆地を横断していた。府道外環状線と交差するあたり(E)に旧山科駅があり、名神道の法尻にその跡を示す碑が建っている。この付近は、用地取得の必要がなかったので名神高速道路が真っ先に起工されたところでもあり、
遮音壁ごしに公団が建てた記念碑が見える。
 また、いわゆる大岩越えと称される東山・桃山丘陵横断部では、
C市道小山四ノ宮線
D市道小山大宅線
勧修寺から来た府道大津淀線がいったん鉄道の北に渡って並行していたが、廃線後は跡地が府道に転用された(F)。
 やがて旧東海道本線は大きく南に回り込んでから北西に転じていた。谷口町交差点で廃線敷きは大津淀線から別れて、北西に向かう市道(G)になっている。また、名神道以北では、民家の敷地形状に痕跡を残すほか
E「山科駅跡」の碑
図8 山科区に残る旧東海道本線の遺構
集会所や児童公園に転用されている(H)。その先はJR奈良線に転用されており、稲荷駅構内のランプ小屋が往時の遺構として鉄道記念物に指定されているが、土木構造物としては、疏水と師団街道を隔てる石積みに旧賀茂川橋梁の橋脚が埋もれるように残っているばかりである(JR奈良線が複線化されるまでは疏水の中に石積みや煉瓦積みの橋脚
が残されていたが現存しない)。
F府道大津淀線 G市道深草経151号線 H瓦町会館及び児童公園

図9 伏見区に残る旧東海道本線の遺構
図10 JR奈良線の橋桁の下に残る旧東海道本線の橋脚
(2011.02.04) (2011.08.08) 


1) 「今昔物語集」や「平家物語」にも登場する琵琶法師で、逢坂山に庵を結んだとされる。能「蝉丸」では醍醐天皇の第4皇子として生まれたが盲目のため逢坂山に捨てられたこととなっているが、人物像は不明。小倉百人一首では上記の和歌は「分かれては」として採録されている。

2) 神戸〜大阪間の鉄道が建設された際に、石屋川等の天井川をくぐるトンネルが施工されたが、これらは、いったん川をつけかえて明かりでトンネルを構築した後、川をその上に戻すという手順で施工された。

3) 弘化4(1847)年、山口に生まれ、松下村塾で学んだ後、オランダ留学を経て明治7年に「鉄道権助」となって大阪〜神戸間の鉄道建設に従事。10年に工技生養成所の教師となる。11年から京都〜大津間の鉄道建設に従事し、鉄道では初めての山岳トンネルである逢坂山隧道を完成させた。その後、敦賀線・関ヶ原線・尾張線・武豊線等、天竜川以西の工事を分担した。大正12(1923)年没。

4) レンガの積み方のうち主なものは次のとおり。
イギリス積み・・・小口のみの段と長手のみの段を交互に積層させる手法で、強度が優れているとして推奨された。
フランス積み・・・同じ段に小口と長手が交互に現れる手法で、美観に優れているとされるが、土木構造物への適用は少ない。
長手積み・・・断面方向に目地がそろうため強度が劣るとして一般には採用されないが、トンネルやアーチ橋の曲面部にはよく用いられる。
小口積み・・・長手積みと同様、断面方向に目地がそろうためほとんど用いられない。美観に優れるとされ、一部で装飾的に用いられるようだ。


5) 詳しくはhttp://www.dpri.kyoto-u.ac.jp/~dptech/tusin/99/
no84/info84.html#yamaを参照されたい。


6) 大津市歴史博物館の企画展「戦争と市民〜湖国から平和のメッセージ〜」(2009) の図録に紹介されている。

7) 井上 勝は天保14(1843)年に長州藩士の家に生まれたが、脱藩して伊藤博文らとともにイギリスに密航。ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)にて鉱山技術と鉄道技術を学ぶ。帰国後は新橋〜横浜間、神戸〜大阪間の鉄道をはじめ東海道線や日本鉄道(現在の東北本線)などを手がけ、わが国の鉄道事業の発展に尽くした。勲一等旭日大綬章を受章。明治43(1910)年、視察中のロンドンで客死。

8) 大正9(1920)年に内閣鉄道院が昇格して鉄道省となり、昭和18(1943)年に戦時体制に伴う官庁統廃合の一環として逓信省と合併して運輸通信省に改組されるまで存在した。

9) 大正2(1913)年に大津(現在のびわ湖浜大津)〜膳所(現在の京阪膳所)間で国鉄線を電化及び三線軌条化して開業したのを皮切りに順次 路線を伸ばし、昭和2(1927)年に石山〜坂本間が全通した。併せて湖上輸送を行っていた太湖汽船と合併し琵琶湖鉄道汽船と改称している。しかし、期待に反して坂本への延長線は乗客がきわめて少なく投資が回収できなかったことから、4年に京阪電気鉄道の傘下に入り同社の石山坂本線となった。