京街道 枚方宿・守口宿

宿場の遺構をまちのアイデンティティに活かす

鉤型に折れている枚方宿の京街道
 安藤 広重や十返舎一九が東海道を江戸から京までの53次と紹介したことから、一般には「東海道53次」とされているようだが、江戸幕府が道中奉行の管理のもとに制定していたのは大坂までの57次であった。56次の枚方宿と57次の守口宿はいずれも市街の中心部にありながら、往時の面影をよく残している。本稿ではその現状をレポートしよう。


戸時代、幕府は五街道を定めそれぞれの街道に「宿」をおいた。幕府が宿を定めていたのは、公用旅行者を無償で旅行させ公用輸送を無償で行う「伝馬の義務」を宿に課していたためである。これは馬や人員を無償で提供する制度で、正保3(1646)年の通達で東海道では宿ごとに原則として百人百疋をおくことと定められた。また、公文書を次の宿まで逓送する「継飛脚」の役割も課された。このような義務の代償として、一般旅客を対象に営業することが特許されていたのである。義務を負わない者が一般旅客を有料で宿泊させたり人馬で輸送することは禁止されていたが、実際には宿の外で不法に営業する事例があとを絶たず、正規の宿との間でしばしば紛争を生じたようだ。
 東海道は、江戸日本橋から大坂高麗橋の137里4町1間(寛政7(1795)年発行の「五駅便覧」による)1)であり、品川宿から守口宿までの57次がおかれた。大坂への東海道のルートは、大津宿から髭茶屋追分を経て「大津街道」で伏見宿へ、そこから「京街道」で淀宿、枚方宿、守口宿と進む。京都に入らないのは、
表1 京街道4宿の比較(道中奉行所編「東海道宿村大概帳」(天保4(1843)年)を鍵屋資料館がまとめたもの)、枚方宿に大規模な旅籠と女性が多いのが目立つ
伏見宿 淀 宿 枚方宿 守口宿
人口 11,996人 1,451人 630人 370人
12,231人 1,396人 919人 394人
24,227人 2,847人 1,549人 764人
家  数 6,245軒 836軒 378軒 177軒
本  陣 4軒 0軒 1軒 1軒
脇 本 陣 2軒 0軒 0軒 0軒
旅籠 6軒 0軒 31軒 5軒
21軒 0軒 21軒 9軒
12軒 16軒 17軒 13軒
39軒 16軒 69軒 27軒
宿建人馬 百人百疋 百人百疋 百人百疋 百人
参勤交代の大名が皇族や公家と接触するのを避けたという説もある。
 ここで京街道というのは、豊臣 秀吉が伏見・淀・大坂に築いた城郭を連絡するための道路。かなりの区間で、淀川の水運のために改築した堤防(文禄6(1596)年に完成したので「文禄堤」と呼ばれる)と兼用していた。家康により全国が平定されると、秀吉が軍事上 重要視したこの道路が京と大坂の間の幹線となり、人や物資の輸送に活躍したのである(ただし、京から大坂に下る交通は淀川の三十石舟や二十石舟を利用するのが一般的であり、京街道はもっぱら大坂から京に上る交通に使われた)。もとは淀川の沿川は低湿地で陸上交通には適さなかったのだが、京街道が整備されて周辺の発達には著しいものがあった。
りわけ枚方宿は、京阪間のほぼ中間に位置し、三十石舟の船着場でもあったので、天領として幕府が直轄支配しており、賑わいもひとしおであった。伏見宿から淀宿を経た京街道は、印象深い建物の残る橋本や三栗(めぐり)を過ぎてやがて天野川にさしかかる。今も京街道には天野川に橋が架かっていないが、江戸時代にも橋はなかった。軍事的理由によるものである。大名行列などの時には臨時に仮橋をかけた。それを淀川から見るとカササギが羽根を広げたようであったので「鵲(かささぎ)橋」と呼んだという。今では府道京都守口線にかささぎ橋が架かっている。この左岸から堤防沿いに入ったところに枚方宿の東見付(図1@)があった。「見付」とは、交通の要所におかれた見張り所のこと。切石を積んで樹木を植え、ここに番所をおいて宿に出入りする人々を監視したのだ。市の計らいで京街道はベージュ色に舗装されている。まもなく旧枚方宿問屋役人2)小野 平右衛門家住宅(A)を過ぎる。
@枚方宿東見付 A小野 平右衛門住宅 B枚方橋跡
駅前通を越えて道が左に曲がるところにある「安居川枚方橋跡」(B)の碑を見て、次の交差点が京街道と磐船街道(私市(きさいち)・磐船神社を経て生駒に通じる道路で現在の国道168号に相当する)の分岐点で、「宗左の辻」と呼んでいる。
C宗左の辻の道標 D常夜燈
E小南 喜右衛門住宅 F鍵屋資料館
図1 枚方宿に係る京街道の遺構など
製油業を営んでいた角野(すみの)宗左の屋敷があった。文政9(1826)年に建てられた道標(C)があり、前面に「右 大坂みち」、側面に「右 くらじたき是四十三丁 左 京六り やわた二り」とある。「くらじたき(倉治滝)」とは、磐船街道の村野から東に入ったところにある「源氏の滝」のこと。裏面には「願主 大阪 和泉屋 近江屋 錦屋 小豆嶋屋」とあり、大坂と大阪が併用されているのがおもしろい。ここから京街道はビオルネという再開発ビルの間を通り古い町屋が混在する町並みに続く。やがて文政12年に建てられた常夜燈(D)を右手に見て、「高札場跡」の碑が建つ札の辻を過ぎると、池尻 善兵衛が営んでいた枚方宿本陣の跡に至る。215坪の広大な屋敷で、原則として一般の旅客は泊めず専ら大名・旗本を泊めた。今は三矢公園になっている。街道は浄念寺の前で鉤の手に曲がる。このようにわざと道路を屈曲させるのを「枡形道」と呼ぶが、その意図は戦乱が起こってもたやすく攻め込まれないようにすることにあったと言う。その先に枚方宿問屋役人小南 喜右衛門住宅(E)がある。駒寄せ、出格子、
図2 鍵屋資料館に残る往時の店構え、街道に面した土間にかまどがあるのは道行く人に湯茶を供したのか
虫籠窓のある大きな町家で、広い敷地内に4棟の土蔵を配している。邸宅の裏は淀川に面していて、そのあたりに枚方船番所、船高札場があり淀川を往復する舟の検閲を行っていた。さらに進むと船宿「鍵屋」の建物が「市立枚方宿鍵屋資料館」(F)として保存されている。文化8(1811)年の創建時の姿を復元した主屋には、鍵屋で使われた道具のほか参勤交代で使われた大名籠などが保管され興味深かった。当時、建物の通り庭を突き抜けた裏口は「鍵屋の浦」という船着場になっており、三十石舟の船頭たちに「鍵屋浦には碇は要らぬ 三味や太鼓で船止める」と歌われたほど繁栄したと伝える。鍵屋を出てそのひとつ西の交差点が枚方宿の西見付であった。ここで枚方宿は終わる。 枚方市は京街道をまちのアイデンティティにしているようで、カラー舗装のほか丁寧な案内板が掲げられているなど、遺構の保存に熱心である。また、本稿では京街道に係るものを中心にご紹介したが、枚方には、開花天皇の時代に淀川の鎮守を願って創建されたという意賀美(おがみ)神社、秀吉が文禄堤を作ったあと乙御前を住まわせるために建てた御茶屋御殿の跡、浄土真宗本願寺派で蓮如の子 実従の本拠として「枚方御坊」とも呼ばれた願生坊、鳥羽伏見の戦いの際に戦火にあったという専光寺、淀川右岸に鉄道が走ったあと当地の郵便を対岸に運んだ「郵便屋の渡し」の碑、淀川の歴史や自然を展示する淀川資料館など、見所が多い。半日くらいかけて散策されることをお勧めする。
て、枚方宿を西に出ると、京街道は枚方大橋南詰交差点で国道170号を渡って光善寺に立ち寄った後、おおむね淀川堤防を行き、現在の大庭町あたりで堤防から分かれて守口宿に向かう。
 京阪北本通の北斗町交差点から東南に入った道がゆるく右に曲がるあたり、「守口宿一里塚跡」の碑(図3@)がある。併せてここには、
@守口宿一里塚跡
宿の境であることを示す「上の見付」があった。ここから京街道は 国道1号の浜町交差点を斜めに横断する。最初の交差点の手前に「瓶橋(かめはし)」の石柱(A)が残されている。やがて竜田通に出る。交差点を渡ったところは難宗寺。 塀に沿って4基の石標(B)が並んでおり、
かつてはここが重要な交差点であったことが伺える。1基には「すく守口街道」、1基には「すく 京」、「左 京、右 大」とある。この交差点を右折してすぐのところに、吉田 八郎兵衛が営んでいた守口宿本陣の跡がある。現在は市の駐輪場になってしまっている。その向かいには問屋場があったそうだ。八島交差点で再び国道1号に出会うが、このあたりが高札場であったらしい。街道は交差点に入らずに左折する。道は上り坂。枚方と同じカラー舗装になる。左手に文禄堤の説明板がある。 「先ほど淀川と別れたはずなのになぜここに文禄堤が?」といぶかしく
A瓶橋の石柱 B難宗寺にある石標 C奈良街道の道標
D本町橋 E守居橋 F「官道第一の駅」の表示
図3 守口宿に係る京街道の遺構など
思われる読者もあろうが、明治43(1910)年に新淀川が開削されるまで、淀川は守口付近で大きく湾曲して流れていたのだ(図6)。市役所のあたりは「船頭ケ浜」と呼ばれる船着場で、米、菜種、綿花などが荷揚げされ、これらを扱う商家が並んだという。まもなく道標(C)があって「右 なら・のさき道」とある。「のさき(野崎)」とは、大東市野崎にある野崎観音こと慈眼寺のこと。さらに清滝峠を越えて奈良に行くのだ(現在の府道158号守口門真線及び国道163号に相当)。奈良へ行く道は来迎坂を階段で下っていくが、京街道は本町橋(D)と守居橋(E)という横断橋で
図4 京阪守口市駅前の繁華街の中にある本町橋、上を京街道が通っている 図5 文禄堤の上に残る京街道、虫籠窓・連子格子の民家が風情を醸す
一般道路を越えつつこのまま文禄堤の上を700mほど進む。両側には商家だったことを伺わせる卯建(うだつ)のあがった民家が散見さ
れ、
図6 伊能大図彩色図と現在の地形図を比較すると江戸時代の淀川は守口付近で大きく湾曲していたことがわかる(国土地理院のHPによる、地形図には京街道を赤で阪神高速を緑で着色した)
一瞬 タイムスリップしたような感覚に襲われるが、高層マンションが大阪市近郊都市の現実を教えている。仏立宗の開祖 日扇上人の事跡により建立された義天寺の先を折れた所から下り坂になる。ここは守口宿の西の境にあたり、「下の見付」と呼ばれた。この先、京街道は日吉公園の付近を経て国道1号の守口車庫前付近に向かっていたはずだが、今では消えている。途中に見える「陸路官道第一の駅守口」の表示(F)は、明治期に京街道が国道1号に指定された時のものを復元しているのかも知れない。
 文禄堤の延長は約27kmに及んだとされるが、大部分はその後の河川改修で原形をとどめず、天端を利用した京街道とともに往時の面影を伺わせるのは守口宿の区間だけだ。市街地を分断する要因と思われがちな旧堤が現在まで残されているのはきわめて重要だと思う。市はこれを「時空の道」と名付けて丁寧な案内を設置している。なお、守口では、延喜18(918)年の洪水の折りに土を盛って神を祀ったという守居神社(「土居」の地名の由来でもある)、明治天皇がいったんは大阪遷都を企意して当地までおいでになったときに宿泊された難宗寺と賢所をおかれた盛泉寺、江戸川 乱歩の住居跡、三洋やパナソニックの企業ミュージアムなども一見の価値がある。
 守口宿を出た京街道は、国道1号の今市交差点付近から「関目の七曲がり」、「野江の七曲がり」と呼ばれる屈曲した道路で京橋に向かう。この屈曲は、敵軍の侵攻を困難にするために秀吉が仕組んだものと言われているが、筆者には、既存の道路をつなぎ合わせて街道としたたためだと思えてならない。ここでも「京かいどう」と記したプレートが舗道に埋め込まれ、訪れた者を案内してくれている。
(2011.01.11)

1)武部 健一氏が雑誌「道路」に連載していた「物語日本道路史」のうち2001年5月号所収の記事より引用した。

2) 「問屋(といや)」とは宿の運営に携わる宿役人の最高責任者。宿の中央に「問屋場」という事務所を設け、伝馬に係る人馬の措置や通行人の救護などの業務を行っていた。一度に多くの人馬を要する場合は近隣の「助郷」に指定された村から臨時に調達する場合もあった。なお、島崎 藤村の「夜明け前」では中山道馬籠宿の問屋の苦労を描いている。