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い立って依網池の跡を訪ねたのは、冷たい雨の降りそぼる冬の日だった。
地下鉄あびこ駅の南出口から信号交差点を東へ。「よさみ神社前」バス停を右折するとすぐに道が細くなるが、前方に見える森を目指すと、阪南高校の東に大依羅(おおよさみ)神社がある。神社と池の名が1字違うのは、地名を社名にするときには文字を変えるのが神への礼儀であったからだという。大依羅神社を創祀したのは依網之阿毘古(あびこ)で、神功皇后の新羅征伐の時
に、自らの祖先である建豊波豆羅和気王(たけとよはづらわけのきみ)と住吉三神である底筒之男(そこつつのお)、中筒之男、表(うわ)筒之男を合祀したと伝えられる。確かに由緒ある神社であることは神域の古木からも理解できるが、今は衰えているようで、高校に敷地を侵されまくっている感じが、哀しくもなんだかおかしい。社殿の前を通り抜けて、グランドとテニスコートに挟まれた参道を突き当たると、空き地のような小さな公園に依網池の跡を示す石碑はあった。
依網池は、もとは図1のように大阪市の苅田、庭井地区から堺市の常磐、北花田地区及び松原市の天美西地区に |
かけて広がっていた。歴史は古い。今から約,500年前、崇神天皇62年に「冬十月、依網池を造る」と日本書紀に記録があり、以後、仁徳天皇、推古天皇の時にも築造の記述が見える。さらに、古事記の仁徳天皇の条にも、「丸邇池、依網池を作り、また難波の堀江を堀りて海に通し、また小椅(おばし)江を掘り、また墨江の津を定めたまひき」とあって、この時期に河内平野の治水・利水が進み農地が開墾されたことがわかる。応神天皇(あるいは仁徳天皇)の作という「水たまる
依網の池の堰杙(ゐぐい))打ちが さしける知らに 蓴(ぬなわ)繰り延(は)へけく知らに我が心しぞいや愚(をこ)にして
今ぞ悔しき」2)の歌からは、清浄な水をたたえた堅固な池の姿が想像される。
また、日本書紀の仁徳天皇43年の条に「依網屯倉(みやけ)の阿弭古(あびこ)が珍しい鳥を捕らえて天皇に献上したところ、天皇はこれが鷹であることを知られ、彼に飼育を命じた」という話があるそうだ。屯倉とは天皇家が経営する所領のことで、おそらく阿弭古は屯倉の管理人であり、依網池は屯倉の潅漑のために設けられた施設であると考えられる。 |
表1 文献に表れる依網池(阪南高校のHPをもとに作成) |
古 代 |
崇神天皇 |
依網池を造る |
仁徳天皇 |
丸邇池、依網池を作る |
推古天皇 |
戸苅池、依網池を作る |
応神(仁徳)天皇の歌 |
中 世 |
記録なし |
近 世 (大和川付替え前) |
慶長3(1598)年 |
池にはえる「まこも1)」の刈取りについて苅田村と我孫子村が取決めを結ぶ |
寛文6(1667)年 |
年々池が埋まるので池浚えの普請を関係の村々で行う |
延宝5(1677)年 |
「まこも」の刈取権を巡って紛争がある(庭井村が割込む) |
貞亨4(1687)年 |
池堤の高さを巡る紛争が起き、代官所の命令で近隣の庄屋が調停を試みたが不調(翌年4月に解決し、堤の上に定石を置いた) |
貞亨5(1688)年 |
依網池が、庭井、苅田、我孫子、杉本、北花田、奥、前堀の7村の共有であることがわかる記述 |
元禄5(1692)年 |
定石を苅田村の者が掘出したかどうかで紛争 |
近 世 (大和川付替え後) |
宝永元(1704)年 |
大和川の付け替えに伴い依網池は南側の2/3を失い、残った池(31,700坪)は庭井、苅田、前堀、我孫子、杉本の5村の共有となる。狭山池の分水を受けることができなくなり、大和川の川床も1丈(約3m)余りも低いので川水を引くこともできず、水不足はいっそう著しくなる |
享保8(1723)年 |
我孫子村は池の用水権を放棄し、代わりに池床を村高に応じて分割し自村分2町1反代を新畑に開発 |
享保14(1729)年 |
苅田村と前堀村の水争い |
享保15(1730)年 |
共有する4村は村高に応じて池床を分割。各村の持分の利用は自由とした |
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んといっても、河内平野の潅漑に係る最大のエポックは狭山池の修築であろう。狭山池は、大阪狭山市に現存する湛水面積36万m2、貯水量280万m3のため池である。「古事記」の垂仁天皇記や「日本書紀」の崇神天皇記に記述が見られるほどの古い池であるが、昭和63(1988)年から13年間にわたる「平成の大改修」に際して行われた大規模な発掘調査で、堤体の底に築造当初のものと考えられる樋管が見つかった。これは檜材をU型にくり抜いた樋に蓋をかけたもので、材を「年輪年代測定法」により測定したところ、伐採されたのは推古天皇24年に当たる616年という結果が出た。これが樋管に加工され現地に敷設されたのはその数年後と見てよいであろう。 |
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図2 もとは豊かな水源を持っていた西除川(左)の長野付近より上流が石川に争奪された(右)、参考として現在の主な地名と高速道路等を表示している |
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国家の支配体制が確立したこの時期にいち早くこの地にため池が建設されたのは、西除川上流に生起したとされる「河川争奪」と無関係ではない。これを具体的に示したのが図2だ。もともと西除川は岩湧山をはじめとする和泉山系の水を集める水量豊かな川だった。そして盛んに山地を浸食して、その土砂で狭山付近から金岡・天美・恵我方面に至る広大な扇状地3)を形成した。ところが、金剛・葛城山系に源を発する石川が長野方面に源流を遡及させてきて、今から10〜15万年前、ついに西除川に辿りついてしまうという現象が起こった。西除川より石川の方が河床が低かったため、和泉山系から流れ出る水は
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図3 堺市南花田付近の西除川、扇状地面を走る南海高野線の橋梁と水面の差に注目 |
すべて石川に注ぐことになり、西除川は天野山にしか源流を持たない小さな川になってしまった。そして、もはや大量の土砂を運ぶことのなくなった西除川は、自らが形成した扇状地を刻んで川谷を形成していった。後に耕地を求めてこの地を視察に来た大和朝廷の官吏の目には、開拓可能な扇状地の広大さに比して河川の水量があまりにも少ないと映ったのに違いない。また、河川水面が地表よりはるかに下にあるため、この扇状地を潅漑するにはかなり上流から引水しなければならないことにも気づいたはずだ。かくして、扇頂にあたる狭山の地に大きなため池を作ることが決断されるに至ったと思われる。
潅漑範囲を最大限に広くするため、狭山池の下流には西除川と東除川に加えていくつかの人口の水路が設けられ、堰や樋を介して広範囲に引水が図られた。また、狭山池を親池としそこから流下する用水を再度貯留する子池がたくさん作られた。かくして河内平野にはたくさんのため池が並ぶことになったのである。 |
和39(1964)年、航空写真を観察していた秋山 日出男氏(神戸大学)は、古市付近のため池の形が細長くかつ相互に連なっていることに気づき、かつてこれらを結ぶ水路が存在したのではなかったかと考えた(http://www.city.habikino.lg.jp/10kakuka/34shakaikyoiku/03bunkazai/04isekishokai/05kouki/
t_k_oomizo.html)。その後の調査で、幅約8m以上、深さ約5mの規模を持つものであることが確認され、また、5世紀末に築造された古墳を削って建設されたこともわかった。全長が富田林市西条町の石川左岸から羽曳野市軽里、同市高鷲を経て松原市一津屋町で東除川に合するまでの12kmに及ぶと想定されるのに対し、調査規模が小さいため不明なことが多いが、7世紀初頭に水運と潅漑を目的に建設された可能性が高い。日本書紀の仁徳天皇14年の条にある「大溝(おおうなで)を感玖(こむく)4)に掘る」という記事に相当するものと考えられ、古市大溝と呼ばれている。書紀によれば、大溝は、石川の水を引いて河内国と和泉国の4村で4万頃(しろ)5)余りの田を開いたという。
近鉄河内松原駅前に「ゆめニティまつばら」を開設するに当たって、平成3(1991)年に市の教育委員会が発掘調査をし
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図4 狭山池を中心とする古代河内平野の潅漑施設 |
たところ、東除川から西除川に至る巨大な人工運河が掘られていたことが判明し、地名をとって丹比(たじひ)大溝と名付けられた(http://www.city.
matsubara.osaka.jp/10,128,51,258.html)。出土した遺物から、大溝は7世紀後半ごろにはすでに掘られており、8世紀代には一度溝ざらえが行われ、中世後半以降は人為的に埋め立てられていったことがわかった。この大溝により、自然灌漑の困難な段丘面に水源が確保され水田開発が容易となったのだが、同時に規模の壮大さを考えると、灌漑用水路だけではなく、当初は舟運にも利用されていたのではないかと推測されている。 それぞれの大溝は沿川の開墾に寄与したであろうが、これらを図4のように総合すると、河内平野における壮大な潅漑体系が見えてくるのではなかろうか。すなわち、丹比大溝で東除川から西除川に水を送り、東除川には石川の水を古市大溝を通じて補うことにより、河内平野の丘陵部を広範囲に潅漑しようとする計画である。古市大溝により和泉国でも水田を得ることができたのは、上記のような体系がすでにあったと想定しなければ考えがたい。この潅漑体系において、依網池は西除川を通じて狭山池と結ばれ、比較的高燥な上町台地上の地域を潅漑する役割を負ったと想定できる。推古天皇の時代の記録はこの改築事業を指しているのではなかろうか。
山池の「平成の大改修」において、底幅62m、高さ15.4mに及ぶ堤体が切り出され、大阪府立狭山池博物館に保存・展示されている。狭山池はしばしば改修が加えられたことが記録に残るが、堤体の断面からそれぞれの時
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(1)狭山池誕生の頃
(2)天平宝字の改修(762年)など奈良時代の改修
(3)重源の改修(1202年)など鎌倉・室町時代の改修
(4)慶長の改修(1608年)など江戸時代の改修
(5)明治以降の改修
図5 狭山池の堤体断面に見る改修の歴史 |
代の工事の規模や工法が読みとれる。始めて狭山池が作られたときは底幅27m、高さ5.4mであって、湛水面積26万m2、貯水量80万m3であったと推定されている。それが天平宝字6(762)年の改修で、堤体は底幅54m、高さ9.5mに拡張され、湛水面積35万m2、貯水量170万m3と、大幅に機能が増強した。これらの工事には、小枝を敷き並べては土を積んで踏み固める「敷葉工法」が採用されている。
その後も、狭山池は決壊や崩壊の都度 修復されるとともに、利水者の要請により機能強化が繰り返された。東大寺の大和尚
重源が建仁2(1202)年に行った改修では、古墳時代の石棺が樋に使われており、豊臣
秀頼の家臣 片桐 且元(かつもと)が慶長13(1608)年に行った改修では木製枠工で斜面を抑える工法が採用されるなど、池の耐久性を高めるためのさまざまな工夫がなされた。江戸時代には、狭山池の湛水面積は51万m2、貯水量は250万m3に達し、80村42万km2を潅漑したと推定されている6)。潅漑範囲の先端は現在の平野区をカバーするまでに至った。
このように、狭山池が継続的に増強されているのと、丹比大溝などが廃絶していったのとは無関係ではあるまい。狭山池の潅漑範囲が広がっているということは、依網池での貯留を経ずに直接に狭山池から取水する村が増えていったということであり、これはとりもなおさず依網池の管理力の弱体化を意味する。 |
代には何度も記録に登場する依網池も、中世には文献から消え、再び現れるのは江戸時代になってからである。特に、大和川の付替えが検討され始めた1690年代後半には記録が多い。川内
眷三氏が調査した森村家所蔵の「我孫子村絵図(http://www.shitennoji.ac.jp/ibu/images/tosho
kan/kiyo2005s-03kawauti.pdf)」は、1690〜95年
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図6 我孫子村に伝わる絵図(一部)、川内氏がトレースしたものに記号等を加えた |
頃に描かれたとされるが、そこには依網池の状況がなまなましく表現されている。氏がトレースしたものを図6に示す。池の大部分に芦や蓮の絵が描かれていることが目につくが、注目すべきは、池の中に2本の水路と小池が設けられているという、極めて特異な光景である。池には南から2本の川(A、B)も注ぎ込んでいるようだが、主要な水源であったはずの天道川(西除川の天美以北での呼び方)に繋がるCは池の外周を迂回してDに続いているように読める。必要なときには臨時にCから水をくみ上げていたのだろうか。
大和川の開削に際して、幕府は依網池の利水機能をほとんど評価していなかったようで、依網池周辺の村からの今後とも池を使用できるようにしてほしいとの訴願はことごとく却下されている7)。その結果、依網池の大部分は大和川の用地として使用され、北側に残ったわずかな池も新たな水源が確保されることはなかったのである。
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図7 大阪市によって埋め立てられてできたグランド、あいにくの天候のせいで人の姿は見られなかった |
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これにより依網池はいっそう水不足が著しくなり、ついには周辺の村々により分割所有されてしまう。池の土地の利用は村の自由とされたため、一部は小さな池として残り、一部は田畑に改変された。やがて都市化の波が押し寄せると、農地は住宅に転用され池の必要性は急速に薄れていった。そして昭和50年頃には最後まで残った部分も埋め立てられてグランドと化し、依網池は完全に姿を消す。
は、定期的に浚渫するなどの維持管理を行わないと、動植物が堆積して浅くなってくる。石原 園子氏が長野県の深見池で行った調査では(http://www.geocities.co.jp/Nature Land-Sky/2832/master_thesis4.html)、池底の160cmの堆積物が146〜167年の間に生成されたそうである。年間1cmほどの堆積が起こっていることになる。これを大和川付替え以前の依網池にあてはめると、毎年3,000m3以上の堆積物を除却し続けないと、長年の間に池が埋まってしまうことになる。
先に述べた狭山池では、室町時代の享徳元(1452)年の広隆寺領松原荘(現在の松原市岡、新堂、上田付近)の年貢目
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図8 適切に管理されてきた狭山池は現在は洪水を防ぐ治水ダムとして機能している |
録に狭山池の改修に係る費用負担の記事が存するといい、利水する村々が費用を負担して池を維持する仕組みが存在していたようである。慶長の改修では、下奉行として派遣された田中氏が工事完了後は池守に任命され、樋守を指揮して池の管理、池水の分配を行い、その経費をぞれの利水する村々からぞれの徴収した。池守の職は近世を通じて世襲され、狭山池は今日なお千数百年の澄潭を持続する。
本例は、社会資本の絶えざる維持管理のむつかしさを説いているように思われる。
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(2008.06.12) (2008.08.07) (2009.07.16) (2013.05.13)
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1) 各地の湖沼、川の水辺に自生するイネ科の多年草で、背丈は2〜3m。原産地は中国・台湾。黒穂菌が寄生して茎が肥大し、根はマコモタケと称して食用にする。最近、ヘルシー野菜として注目され始め、水稲のように水田で栽培される。また、東京の上田神社をはじめ、千葉の香取神社、大分の宇佐神宮、埼玉の氷川神社、島根の出雲大社など数多くの神社の神事に使用されている。
2) 天皇が日向国の髪長比売を召そうとしたが、息子がすでに姫に深く心を寄せていることを知って、やむなく姫を息子に与えることを許した時の歌。「水をたたえる依網池が杭を打って堰を設けているように目印の杭がささっているのを知らず、あるいは蓴菜をたぐる時のように縄を張って囲ってあるのも知らずに、私の心は愚かだったとわかって今は悔しい」。
3) 河川が山地から平野や盆地に移る所では、流速が低下するので、流れてきた土砂などが堆積する。その堆積地の形状が山側を頂点とした扇形を呈するので、この地形を扇状地と呼ぶ。扇状地の頂点を扇頂、末端を扇端、中央部を扇央という。
4) 河内国石川郡紺口に比定されている。現在の河南町付近にあたる。
5) 頃は中国の地積単位。「代」と同じで、稲1束が収穫できる田圃の広さという。50代で1段とされる。
6) その後の大和川が付け替えや費用負担に耐えかねた村の利水共同体からの離脱などから、38村15万km2に縮小している。
7) この事実は、幕府が農民の要望を受け入れず強引に大和川の付替えを行ったことを示すものと理解されることが多いが、一方、太田村・長原村などは大和川のつけ替えにより大乗川・玉水井路から利水できなくなるため、新たに大和川に樋を設置して水を引くことを許可されている(宝永元年7月「待井樋・榎木樋出来候節仲間堅証文」(八尾市立歴史民俗資料館蔵))。筆者としては、幕府は、回復させるべき機能が依網池に残っていないと判断したと考える。
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