新 世 界

土地に染みついた記憶は覆せるか

庶民の歓楽街 新世界の夜景
 串カツ・どて焼・もつ鍋などのお店が並ぶ庶民的な歓楽街、新世界。将棋センターやスマートボール遊技場など、よそでは廃れたレジャー施設も健在だ。レトロな魅力を醸し出している新世界だが、もともとはパリやドイツの町並みやアメリカのアミューズメントパークを模した、文字どおりの「新世界」だったのだ。新世界が現在の姿になるまでの足取りを探ってみよう。

戸時代、日本橋以南の堺筋は「長町」と呼ばれ、紀州街道を行く旅人のための旅館が軒を連ねていた。が、一歩 奥に入ると長屋を仕切った「グレ宿」という貧民宿になっていた。明暦3(1657)年、大阪町奉行が、無宿のものが雨露をしのげるようにと、木賃宿の認可をしたことに端を発している。安政6(1859)年には長町以外で無宿の貧民を泊めることを禁止し、この地区に盗人・故買者等の貧民を集結させる政策がとられた。そして、貧民街の背後に
図1 「南の5階」と呼ばれた「眺望閣」(大阪市立図書館蔵)
は人跡まばらな原野が広がるばかりだった。
 明治に入ってこの荒れ地に着目したのは府知事 建野 郷三。人口の急増する大阪にあって、彼はここに都市公園の建設を夢見る。建野はまもなく更迭されて大阪を去るのだが、その構想を引き継いだ有志は、明治21(1888)年に「有宝地」を開設し「眺望閣」という5階建ての展望台を建設した。22年には「今宮商業倶楽部」という、博覧会の前身のようなものが作られる。内外の商業者の出品を陳列するとともに、蒸気力を誇示する展示やさまざまな機械類の説明をする館もあった。「偕楽園」という娯楽施設を併設し、池を巡る庭園には温泉・舞台・玉突き場・料理屋などが並んでいた。「官民一致倶楽部」も「玉水園」という同趣旨の施設を開園している。23年には「今宮臥龍館」という遊戯施設も開館した。上下に湾曲した100mほどの坂道をローラーコースターで下るのがメインの施設であった。
 このような華やかな一面とは裏腹に、長町はスラム街の様相を強めていたようで、29年に長町に潜入した日本新聞記者 桜田 文吾は、「日本橋4丁目を過ぎて今宮村というに至り、500余坪もあらんかと思うばかりの一大塵芥場の前に出でたり。目に余る塵芥堆積して一丘山を為せるに、初秋の烈日熱を送りて?醸(うんじょう、?は「温」のサンズイを酉に置き換えた文字)せしむるものからに、汚毒の蒸発気は得もいわれぬ悪臭を放ち烟の如く立上る。七八人の男女その塵芥山に登り、坑夫の金を掘るかの如く熊手をもてその中を掘鑿し、藁屑、瀬戸屑等掘出すに随い撰り分け居るその様、真にこの世ながらの餓鬼道なり1)」と描写している。
の地が一変するのは、明治33年、「第5回内国勧業博覧会を明治36年3月1日より7月31日まで大阪市南区天王寺今宮に開設す」と決定されてからである。さっそく、会場までの幹線道路の整備が図られた。紀州街道の拡幅に支障となる不良住宅を取り壊し、住民は大阪鉄道(現在の関西本線)より南の釜ケ崎に強制移転させられた。今宮商業倶楽部もわずか12年で役割を終え、博覧会用地として大阪市に売り渡された。博覧会場は95,000坪以上の広さ。威風堂々とした正門の左手には金の鯱鉾を模した愛知県売店、右手には高塔を備える東京都売店が並び立ち、工業館・農業館・林業館・水産館・機械館・通運館など10の部門に区分された陳列館と、教育館・美術館・台湾館・参考館などの
図2 勧業博で人気を博した「飛艇戯」、海軍服を着た艇長が乗り込むなど演出も豊かであった(大阪市立図書館蔵)
パビリオンがあり、「内国」の名にかかわらずイギリス・ドイツ・アメリカ・フランスなど19カ国からも出品された。展示総数276,000点。中でも人気を博したのは、茶臼山の中腹から河底池に向かって滑り降りるウォーターシュート「飛艇戯」である。また、「不思議館」で上演される「電気光線応用大舞踏」(光学のトリックと女優の実演を織り交ぜたショー)、建物全体を冷却して食品の保存を展示する本邦初の「冷蔵庫」も話題となった。さらに、夜を飾るイルミネーションも博覧会の重要な見せ場であった。期間中の入場者数は530万人に及び、明治期を通じて最大の博覧会として大成功のうちにその幕を閉じたのだった。
図3 大正期の絵はがきに見る通天閣とロープウェイ、手前にあるのはルナパークの奏楽堂(出典: :なにわ物語研究会編「大阪まち物語」(創元社))
 博覧会場の跡地は公園になるはずだった。しかし、資金不足からその実現は遅れ、市は、跡地のうち51,000坪を不用地として民間への売却を試みる。ようやく42年になって会場跡地のうち東側に「天王寺公園」が開設され、残りは「大阪土地建物」に払い下げられた。同社は一帯を時代の最先端を行く歓楽街「新世界」として開発することとした。
 眺望閣が人気を博していたのに目をつけ、中央に「通天閣」という高さ75m(一説には64m)の展望等を建設した(45年)。パリの凱旋門の上にエッフェル塔をのせたデザインであった。通天閣より北のブロックはパリをイメージした放射状の道路を配した街区とし、それぞれに飲食店・洋装店・道具屋街が立地した。連続する店舗群は近世ドイツ式の建築様式で統一された。通天閣より南は、アメリカ・ニューヨークのコニーアイランドをモデルにした都市型遊園地とされ、「ルナパーク」と名付けられた。ルナパークでは、勧業博覧会で得た技術にさらに磨きをかけた多様なアトラクションが設けられ、円盤が上下動しながら回転する絶叫マシーン「サークリングウェーブ」、
ローラースケートを楽しむ「スケーチングホール」、ブラスバンドの演奏を行う八角屋根の「奏楽堂」、百匹あまりの猿を飼育する「モンキーホール」、「不思議館」などが並んだ。ルナパークの象徴が「ホワイトタワー」。40mほどの塔から人工の滝が前面の池に流れ落ち、その内部にはアメリカ渡来の福神「ビリケン」を祀った。ホワイトタワーと通天閣の間を飛行機型のロープウェイが行き来した。当時の絵はがきには「凧のごとく楽園を横断して相互間を来往す。これに搭じて空中飛行の快をむさぼる、またすこぶる妙ならずや」とある。通天閣の周辺には演劇場や映画館が軒を連
図4 ホワイトタワーの全景、2階から落ちる滝の裏にビリケンが祀られていた(橋爪 伸也著「大阪モダン-通天閣と新世界」(NTT出版)
ねた。第2期工事として大正2(1913)年にルナパークの東南に開設された噴泉浴場は「ラヂューム」を使った湯で人気を集め、周辺においても4年には天王寺動物園が、さらに8年には大阪国技館2)が開設された。
かし、新世界の繁栄は短かった。7年に勃発した米騒動3)に見られるような世情不安を受けて、次第に客足が遠のき始める。大阪土地建物は当座の収入を得るため、ライオン本舗と契約して通天閣に大きな広告を掲出することにした。その後も廃業する施設が相次ぎ、12年にはルナパークも閉園する(跡地は市電車庫に転用)。さらに昭和に入ると、2(1927)年に発生した昭和金融恐慌4)や1929年のウォール街での株価大暴落に端を発する世界金融恐慌5)は新世界にも大きな影響を及ぼし、「カフエ」や「新世界ブラリー」と呼ぶ露天が現れるなど、低価格で集客力のある業種・業態の店舗に置き換わっていった。当初 パリやニューヨークをモデルとしたハイカラな新世界は、大衆娯楽産業の集積地になってしまったのである。
 ある意味 役割を終えた大阪土地建物は、昭和13年、通天閣を吉本興行に売却する。吉本は、展望台に上がるエレベーターを地上まで直通させるなどの改築を行って利便を図ったが、客足の回復はままならなかった。そんな中、16年12月に勃発した太平洋戦争の戦況が厳しくなるにつれ、軍の金属回収の要求が強まっていった。折しも18年1月、通天閣脚下の「大橋座」から出火。通天閣も火炎に包まれて、鋼材が飴のように曲がってきわめて危険な状態になり、ただちに解体されて300tのくず鉄として供出された。さらに20年3月の大阪大空襲で、新世界は壊滅状態となってしまう。
後、最も早く復活したのはジャンジャン横丁と呼ばれる一角だった。戦災復興事業や民間の建築ブームにのって大量の日雇い作業者が釜ケ崎に集まり、彼らの疲れをいやすのに安くて気さくな庶民の町として親しまれた。映画が国民の人気を集めるようになると各社の封切館が立ち並び、新世界は第2の繁栄期を迎えようとしていた6)。そしていつしか通天閣の再建が語られ始める。名古屋のテレビ塔に刺激された地域の連合会長らが出資して「通天閣観
図5 大正期(左)と現在(右)の新世界(出典:原島 広至「大阪今昔散歩」)
光」を設立て、建設に着手。名古屋より高くすることにこだわったため資金が不足したが、日立製作所がスポンサーとなって31年に完成させた。高さ100mと、初代を越える偉容に入場客は長蛇の列をなしたという。市内観光バスのルートや学校の社会見学にも選ばれた。増客を見越して店舗や興業館も次々と改装し、1日5万人もが集まる繁華街に発展した。
 しかし、家庭にテレビが普及し映画が衰退するに従い、新世界の繁栄は再び翳っていく。興行街が成人映画館やストリップ劇場に変わり物販店がアダルトショップに変わるなど、一般人には立ち入りがたい町ができてしまった。この沈滞を打開すべく昭和62(1987)年には天王寺博覧会が開かれたが、新世界に足を向ける人は少なく、結果は思わしいものではなかった。平成9(1997)年には市電車庫跡地に「フェスティバルゲート」と「スパワールド」という都市型遊園地が開設され、ルナパークやラヂューム温泉の再来かと期待されたが、フェスティバルゲートはわずか7年で経営破綻。ここでも歴史は繰り返された。
 
世界が開設されて約100年。思うに、新世界がこれほど時代に翻弄された要因のひとつには交通計画とのミスマッチがあった。明治41(1908)年に市電南北線が大阪駅前から難波駅前を経て恵美須町まで通じたことを見ても、新世界は市内交通の観点からは他の繁華街と交通条件に大差はなかったが、近年まで一貫して人口の郊外化が
図6 昭和5年にオープンした演舞場の系譜を継ぐ「国際劇場」、建物は当時のままでかつての新世界を伝える数少ない施設のひとつ
進んできた中で、千日前や道頓堀の最寄りである南海鉄道(明治31年に和歌山まで開通)が早くから郊外に足を伸ばしていたのに対し、新世界の最寄り駅は阪堺電車(チンチン電車)の恵美須町。北千里・高槻市まで直通する地下鉄堺筋線が通じたのは昭和44年と、大きく出遅れた(41年に南海新今宮駅、47年に関西本線新今宮駅が開設されたが新世界からはやや離れている)。ベースとなる寄りつき人口が乏しいから、施設が陳腐化したり景気が後退するとたちまち客足に響くのだ。
 また、関西では私鉄のターミナルに大規模商業施設を設けて客の流れを作るのが常套手段であった。しかし、梅田が大資本によってメッセージ性豊かな整備が息長く進められたのとは全く逆に、ルナパークなきあとの新世界は零細な
図7 「ジャンジャン横丁」にある将棋センターは手軽な娯楽として健在
商業者によって近視眼的に開発され、これが町の無秩序さをもたらしていることも、全体としての集客力を弱めてきたのではなかろうか。
 一方、NHKの連続ドラマ「ふたりっ子」の舞台となったことで、新世界には「人情味のあるレトロな町」のイメージが生まれ、あか抜けないことがかえって観光資源となって集客するという皮肉な光景を呈している。歌謡劇場の派手な看板の前で写真を撮り串カツ店に行列を作っている観光客を見ていると、新世界がいつまで現在の姿を保っていくのか楽しみでもあり不安でもある。
 
図8 せまい道路をはさんで小さな店が立ち並ぶ「ジャンジャン横丁」 図9 通天閣の下に立つ王将碑は阪田三吉を顕彰したもの 図10 新世界では串カツ屋の店頭などいたるところにビリケンが祀られている
 新世界は、門前町から発達した千日前や太融寺とは異なり、全く人工的に作られた繁華街である。だからこそパリやニューヨークを模した開発も可能だったのだが、そんなハイカラさはこの地には定着しなかった。土地にはそれぞれ深くしみこんだ“記憶”があるのではないかというのも、にわかには否定しがたい気持ちに陥るのである。
                            
 (2010.12.03)

(参考文献) なにわ物語研究会「大阪まち物語」(創元社)

1) 「合本おおさか漫歩(大阪商業大学商業史博物館)」に紹介されている記事を引用した。

2) 大阪相撲協会が建てた施設であるが、興業が振るわず協会は昭和2(1927)年に大日本相撲協会に併合し、施設は翌年に映画館に改装された。20年の大阪大空襲で焼失し、「スパワールド」(後述)の北側に記念碑が残る。

3) 流通業者らの投機により米価が高騰したため、富山県魚津町の女性らが住民に米を売るよう荷積み業者に嘆願したことをきっかけとして全国に広まった混乱。安売りの強要や、米屋の打壊しが横行した。この鎮圧の過程で、内閣の言論弾圧、被差別部落出身者の大量検挙などの事案も発生した。

3) かねてから経営が悪化していた東京渡辺銀行の頭取が大蔵次官に面会したのを休業の報告と理解した片岡大蔵大臣が、同行が破綻したと国会で発言し、これを伝え聞いた預金者が殺到して取付け(預貯金の引出し)騒ぎを起こしたもの。経営基盤が弱いと目された銀行が次々と取付けに会い、休業を余儀なくされた。

4) かねてから経営が悪化していた東京渡辺銀行の頭取が大蔵次官に面会したのを休業の報告と誤解した片岡大蔵大臣が、同行が破綻したと国会で発言し、これを伝え聞いた預金者が殺到して取付け(預貯金の引出し)騒ぎを起こしたもの。経営基盤が弱いと目された銀行が次々と取付けに会い、休業を余儀なくされた。

5) わが国でも株の暴落により多くの企業が倒産して失業者があふれ、主にアメリカへの輸出に頼っていた生糸の生産も打撃を受けて農村では娘を身売りするなどの社会問題が生じた。政府は主要産業を統制して生産・流通を安定させるとともに大規模プロジェクトを起こして経済成長を図る政策をとった(この結果、財閥が力を強め、利権を求めて政府や軍に影響力を行使するようになった)。

6) このころ、小説家 林 芙美子が朝日新聞に連載した「めし」でジャンジャン横丁をとりあげたことから、大阪の名所のひとつと認識されるようになった。林が連載中に急逝したため作品は未完に終わったが、成瀬 巳喜男監督により映画化され大きな成功を収めた。