旧明石フェリー

有料道路として生まれたフェリーのその後の苦悩

明石海峡大橋の下を航行する明石淡路フェリー、「たこフェリー」の愛称で集客に努めた(平成22(2010)年9月撮影)
 長野新幹線が碓氷峠を越えたとき、並行する在来線をどうするかで議論を呼んだことがあった。全国的視点から建設される幹線交通と、住民の足とも言うべき地域交通が、経営的に共存しうるかという問題である。同じような問題を、関西では明石海峡に見た。

後、急速な自動車交通の発展とともに、陸路で結ばれていない四国・北海道や離島との間で自動車を航送する需要が大きくなった。淡路島でも同様だった。岩屋と明石の間にはすでに明治4(1871)年に渡船が通っていたが、これでは自動車交通の普及に対応できないとして、昭和29(1954)年4月に兵庫県が道路整備特別措置法に基づく一般有料道路「明石フェリー」としてフェリーを運航させた。そして31年の日本道路公団の設立に伴い、同年7月1日より公団が営業を引き継いだ。
 フェリーが道路とは変な感じがするが、道路法において、道路と一体となってその効用をまっとうする渡船施設も道路に含まれていることから、本件は、国道28号の海上部を渡船により通じさせているとの位置づけだったのである。桟橋などのほか船舶も道路区域に決定している。
図1 明石港に着岸する公団時代の明石フェリー(出典:「日本道路公団三十年史」)
当初は200t級1隻での運航であったが、36年には3隻にまで増船。さらに急速に進展するモータリゼーションに応じて、公団は、45年から47年にかけてこれら3隻をを600t級に置き換えたほか、1隻を新造して4隻体制とした。また、明石側に4,154m2、岩屋側に6,780m2の駐車場を設けて多客時の車両を捌いた。総事業費は1,804百万円となった。航送車両数で見れば、当初は215台/日(昭和32年度)だったのが、最後には2,038台/日(昭和60年度)に増加している。
もそも道路整備特別措置法は、急速な道路整備を図るために民間資金を投じて道路を建設しその費用を償還するのに必要な一定の期間だけ料金をとることを許すものであった。明石フェリーも有料道路としての料金徴収期間が定められおり、それが昭和61(1986)年11月19日をもって満了するため、その後のフェリーのあり方について公団は建設省・運輸省・
表1 明石フェリーに投入されていた新旧船舶の規模
船   名 あさかぜ丸 第2あさかぜ丸
就航年月    36年11月    47年 4月
総トン数     295t     617t
全長    43.1m    55.72m
航海速力   10.0ノット   13.0ノット
乗船定員     81人     250人
乗船車両 大型      8台     14台
小型      4台      9台
兵庫県等と調整した結果、民間が設立した「明岩海峡フェリー」に事業継承することとされた。
 折しも この年は明石海峡大橋の建設が始まった年でもあった。着々と進む明石海峡大橋の建設を横目に、フェリーは好調な経営を続けたものの、平成10(1998)年の明石海峡大橋の供用後には利用者が激減。一時は廃航も検討されたが、「本州四国連絡橋の建設に伴う一般旅客定期航路事業等に関する特別措置法1)(昭和56年法律第72号、以下「旅客船対策法」という)」による救済が切れる12年に、第3セクター「明石淡路フェリー」として再出発した。
 明岩海峡フェリーの時代までは、並行して旅客船を運航する播淡聯絡汽船・淡路連絡汽船との関係で、両社が運航しない深夜を除いて旅客のみでの乗船を扱っていなかった。しかし、明石海峡大橋の供用に伴う利用者の減少を受けてこの棲み分けは破棄。明石淡路フェリーは旅客のみでの乗船も認めるとともに、派手な船体やテーマソングで宣伝を行うという、
表2 明石淡路フェリーに投入されている船舶の概要
船  名 あさしお丸 あさかぜ丸
(のりたい号)
就航年月    元年11月    元年10月
総トン数    1,324t    1,296t
全長   65.02m   66.00m
航海能力   15.0ノット   15.0ノット
乗船定員    467人    467人
乗船車両 大型     18台     18台
小型     2台     2台
第3セクターとは思えない積極経営にのりだした。旅客船両社も、旅客船対策法の支援を受けて、明石淡路フェリーと同じ12年に、共同して「明淡高速船」を設立していたが、明石海峡大橋を渡る高速バスが好調であったこととフェリーの積極策のあおりを受けて経営は困難だったようで、18年には「不採算と原油高を理由に5月中にも運航を休止」と表明した。このときは、明石市・淡路市が航路存続のための調査費の補助という名目で同社を援助するとともに、明石市が期間限定の観光クルージング事業を提案したためとりあえず年末までは運航を継続するとととなった。こんな一時しのぎの方策で恒久的な運航の維持はむつかしいと案じられていたところ、11月30日に、明石〜富島間で高速船を経営する「淡路ジェノバライン」が継承することが決まり、ひとまず落着した。
 一方の明石淡路フェリーも、20年にはETC割引の影響で利用者が減少したとして早朝・深夜便を廃止しているし、翌年には希望退職者を募ってさらに減便している。そして、ついに22年8月に新しい局面に入った。明石淡路フェリーの最大の出資者である民間のフェリー会社が、事業からの撤退を明石市などに申し出たのだ。「利用者が1年で半減して、このままではとてもやっていけない」ということのようだ。同社を共同経営する明石市と淡路市は、ジェノバラインとの合併の方向を模索しつつ、当面の生き残りとして、たこが描かれた船舶をタイに売却して1隻だけの運行を続けることとした。
石海峡大橋ができて航路利用者が激減しているにもかかわらず、地元市が支援して旅客船とフェリーを存続させねばならないのはなぜだろう。まず言えるのは、明石海峡大橋は自動車専用道路なので、これを通行できない軽車両・原付・小型自動二輪車のためのフェリーは廃止できないということ、もうひとつは、明石と対岸を結ぶ交通にとって明石海峡大橋が利用しづらいことである。
図2 明石市・淡路市(岩屋)の市街地と明石海峡大橋・航路の位置関係
図2を見てもわかるように、明石市街から明石海峡大橋にアクセスしようとすれば、国道175号を北上して玉津インターから第2神明道路・北神戸線・第2神明北線を経由するという、たいへんな大回りをしなければならない。高額な料金ともあいまって、明石海峡大橋はフェリーに替わる地域の足にはなり得ないのである。
 それでは車も人も利用できるフェリーだけを残せばいいかとなると、そうもいかないところに悩みがある。もともとフェリーは人の利用を予定していなかったため、桟橋は市街からやや離れたところにある。一方、旅客船の桟橋は駅やバスターミナルに近い。かなり減ったとはいえ、商店街も旅客船の桟橋付近に集まっている。旅客の利便や商業の振興を考えれば旅客船を捨てるわけにもいかない、ということのようだ。
 かくして、高速道路料金に係る施策が次々に打ち出されて明石海峡大橋が値下げに向かう中、フェリーと旅客船は、ますます先細りのパイを奪い合うしかないということになる。明石海峡の波は高いのだ。
 ついにフェリーは22年11月15日を最後に運航を休止。これにより自動車専用道路を通行できない原付などは明石海峡を横断できなくなった。会社は従業員を解雇し、残る1隻の売却益を負債に充当するという。明石市と淡路市は、売却益の残余でもってジェノバラインが小型フェリーを購入し旅客船桟橋から発着させることなどを検討したが、法的に問題があるとして断念。24年5月に会社は解散し、航路の廃止を届け出た。明石フェリーの開業から58年の歴史に幕を閉じたのである。
 (2010.09.21) (2013.06.30)

1) 本州四国連絡橋の建設に伴い影響を受ける旅客船定期航路の再編、規模を縮小する事業者に対する助成、船員などの離職者対策について定めた法。