あま  ほう
尼 宝 線

阪急と阪神のしのぎあいの歴史のひとこま

尼崎に向けて頻発する阪神バス、背後の建物は阪急宝塚駅
 国道176号を挟んで阪急宝塚駅とむきあうJR宝塚駅。ここから阪神バスがひっきりなしに発着している。どうして宝塚に阪神バスが? と 思ってしまうが、これには阪神と阪急が何年にもわたりしのぎを削りあってきた歴史があるのだ。阪神バスが走る県道尼崎宝塚線の経緯と現状をご紹介する。

上ファンドの影響で経営統合された阪神電鉄と阪急電鉄だが、戦前はすさまじい競争を繰り返していた。その発端は、梅田から宝塚に行っていた箕面有馬電気鉄道が、社名を阪神急行電鉄(以下「阪急」という)と改め神戸に進出したこと。大正9(1920)年に神戸本線として十三〜上筒井(現存せず、当時の駅名は「神戸」)が開通、併せて伊丹線も開通した。
 ところで、当時は鉄道事業は有望な投資先と考えられており、各地の有力者による鉄道構想が盛んであった1)。そのひとつに大正11(1922)年に出願された宝塚尼崎電鉄(以下「尼宝(あまほう)線」と呼ぶ)があった。
図1 大正10年頃の阪神間の鉄軌道網と特許申された構想
申請の概要は、阪神電鉄の出屋敷駅から分かれ、武庫川の東岸を北上して宝塚大劇場付近に達するというもの。武庫川の廃川敷に住宅や遊園地を開設することも予定していた。これに目をつけた阪神は、尼宝線に出資して自社の社長を相談役に送り込む。神戸を侵した阪急に対抗して、阪急の聖地である宝塚に乗り込もうという考えである。そのため、尼崎市庄下に新設する尼崎駅から分岐し伊丹市街地を通って宝塚に向かうルートに変更し、梅田から宝塚までの直通運転を企画した。運賃、所要時間とも阪急を凌駕する内容であった。さらに、尼崎では別途 計画していた第二阪神線2)と連絡することとし、宝塚では宝塚有馬線3)と連絡することをそれぞれの発起人が確認していた。
 一方の阪急は、これに対抗するため伊丹線を延伸する形で宝塚〜伊丹間を申請するとともに、尼崎市・西宮市の臨海部に進出すべく塚口〜尼崎〜西宮海岸〜今津間の特許を申請。対する阪神は、自らの地盤を守ろうと出屋敷〜高洲〜東浜〜今津間の特許を申請した。どこまでが本気でどこまでが牽制かわからない虚々実々の路線獲得合戦である。結局、阪急には宝塚〜伊丹間、塚口〜尼崎間が、阪神には申請どおりの特許が認められた4)
 この騒動のあおりを受けて尼宝線の建設は滞っていたが、これが落着すると、尼宝線は伊丹市街地を通るとしたルートを撤回し、尼崎駅から3kmほど西進し西大島付近で北転して宝塚に向かうルートで施工認可を申請した。13年6月のことであった。阪急神戸線との交差協議に時間を要する中、15年5月には宝塚大劇場付近に設定していた終点を国鉄宝塚駅に変更し(おそらく宝塚有馬線との連絡構想が破綻したためであろう)、これに伴って阪急とは宝塚線との交差協議も発生するなどして認可は延び延びになり、9月になって、国道2号と阪急神戸線は上越し、東海道線、福知山線、阪急宝塚線は下越しで交差するという内容で、認可を得ることができた。
 会社は直ちに測量と用地買収に着手。また、国鉄東海道線の複々線化工事のための線路切り替えに合わせて、いち早く交差部の開鑿工事を国鉄に委託した。西大島から小浜の間の工事は早かった。しかし、宝塚駅付近は2箇所の交差部の工事が難航すると見込まれること、国道2号の南を並行して走る区間は高架で建設することを尼崎市から要求されたことから、なかなか着手に至らなかった。とりわけ、尼崎市の要求は深刻だった。工費が増大する上、阪神との直通運転ができなくなってしまうからである(阪神尼崎付近の高架化が行われるのは平成6(1994)年のこと)。これでは尼宝線が阪急に勝つことはできない。
 昭和4(1929)年になって、会社は鉄道事業を断念。当時は深刻な恐慌に陥っていたこともあって投下した資本を早期に回収するのが得策と判断し、すでに完成している路盤を使ってバス事業を行う方針に転換して道路運送法の一般自動車道事業を申請。西大島〜小浜間を自動車の専用道に改築する工事を行った。しかし、車両を購入する資金が調達できず、7年に阪神の子会社である阪神国道自動車に吸収合併され、神戸〜宝塚間と大阪福島〜宝塚間でバスの運行を開始した。同時に会社は鉄道起業廃止を申請し、各社の競願の末に獲得した尼崎〜宝塚間の鉄道免許は、正式に失効した。
こで一般自動車道について触れておくと、これは道路運送法第2条第8項に基づく自動車のみの交通の用に供する道であって、従って、道路法による道路とは異なり、大臣の許可を受ければ民間による経営も可能である。自動車道には設置者のみが通行する専用自動車道と一般に開放する一般自動車道があり5)、通常、一般自動車道は経営上の観点から有料で運用される。昭和5(1930)年に鎌倉市大船〜藤沢市片瀬間に開通した 通称「京浜急行有料道路」6)がわが国で最初で、尼宝線は関西で最初の例であった。
 尼宝線も、一般の車両からは通行量を徴していたが、戦時体制への移行の過程で軍から無料化の要請が出され、
図3 尼宝線のうち阪急交差部は前後が4車線に拡幅されている中でここだけ2車線で勾配も非常にゆるい、鉄道の名残りである
図2 「尼宝線」の通称で知られる県道尼崎宝塚線
昭和17(1942)年に兵庫県が買い上げて県道尼崎宝塚線となって現在に至っている。県道になってもやはり通称は「尼宝線」だ。
気鉄道の建設が頓挫してから80年。阪急に対抗する高速運転を目指していただけに、ゆったりしたカーブや緩やかな勾配が鉄道未成線の雰囲気を漂わせる。当初は農村地帯を走る2車線の車道のみだった尼宝線も、沿道の市街化により、県道は歩道の付いた4車線化の工事が各所で進められている。しかも、鉄道網から離れているためバス事業は健在であり、伊丹市営バスも加わって、尼宝線を走るバスは便数・利用者数とも多い。
                              
(2010.0907)

1) 本稿でご紹介する尼宝線以外にも、この周辺では大正9年に宝怐`伊丹間の宝丹鉄道、10年に大阪天神橋〜伊丹〜宝怩結ぶ大阪宝恣S道、大阪豊崎町〜尼崎〜伊丹〜宝怺ヤの大宝電気軌道、11年には三木〜淡河〜有馬山口〜宝怐`伊丹〜大阪西野田を結ぶ阪播電気鉄道、12年には宝怐`大阪天満橋間の有馬電気軌道など、泡沫的な計画が粗製濫造されていた。このような中で、10年9月には阪急が宝塚〜西宮北口間に西宝線(現在の今津線に相当)を開通させている。なお、尼宝線自身も、西宮から時友・石橋を経て新京阪線(現在の阪急京都線)の富田までの路線を申請していた。

2) 高速運転が可能な路線として阪神が計画していたもので、梅田から千鳥橋、伝法を経て尼崎に達し、そこから直線で岩屋に向かうルートを想定していた。この構想の一部は現在の阪神なんば線になっている。

3) 坪田 十郎(?〜大正14(1925))らが構想していた鉄道らしいが詳細は不明。なお、坪田は明治法律学校(現在の明治大学)卒業後、伊藤長次郎家商業部の取締役となって神戸山手通の開発に従事した。その後、兵庫県会議員、衆議院議員に当選。

4) このとき特許が与えられた路線のうち開業までこぎ着けたのは阪神の出屋敷〜東浜間1.7kmのみ。昭和4(1929)年に開業したが、26年に高洲〜東浜間0.7kmが運転休止、37年に全廃。

5) 関西にある主な自動車道として、一般自動車道には芦有道路(芦屋市〜神戸市北区)、信貴生駒スカイライン(三郷町〜四条畷市)、伊吹山ドライブウェイ(関ヶ原町〜米原市)などが、専用自動車道としてかつての五新線(五條市)などが挙げられる。

6) その後の沿道の市街化のために自動車専用道としての運用が困難となり、昭和59(1984)年に鎌倉市区間を同市に有償譲渡、平成元(1989)年に藤沢市区間を同市に無償譲渡している。