須磨ルトコンベヤ

神戸市の開発事業を支えた陰の立て役者

地底に保存されているベルトコンベヤ
 地底に大きなベルトコンベヤが眠っている。あらかじめ聞いていたとはいえ、実際に見るとその力強さに感銘を受ける。これが、「山、海へ行く」と称された神戸市の開発事業を支えた「須磨ベルトコンベヤ」だ。このたび、市の関係者のご厚意により見学させていただく機会を得たので、報告する。

戸市は、海岸に沿った狭い平野の背後に急峻な六甲山系が連なり、さらにその背後に広大な丘陵地が展開するという地勢であり、人口は狭小な海岸平野に集中していた。昭和40(1965)年に示された「第一次神戸市総合基本計画」において、このような人口の偏在を是正することが謳われ、ひとつは西神ニュータウンに代表される内陸部の開発、もうひとつは港湾地域への都市機能の充実という方向が示された。以来40年間、この方針に基づいて営々と事業が進められた結果、今では内陸部には2,800haの団地が開発され、臨海部には1,700haの土地が新たに生まれ、併せて幹線道路や鉄軌道が整備されるとともに、行政施設・総合病院・教育施設・大規模商業施設などが立地して、地域全体の利便性の向上が図られたことは周知のことである。
 この内陸部と臨海部の2つの市街地開発を同時に実現する方策として採られたのが、内陸部で土砂を採取して平坦な土地を造成しつつその土砂で埋立てを行うという、いわゆる「山、海へ行く」手法であり、この手法を支えたのが本稿でご紹介する「須磨ベルトコンベヤ」である。ダンプトラックで土砂を運んだのでは道路の混雑や騒音・排ガスなどの環境問題が著しい。公害が社会問題化していた当時にあって、専用のベルトコンベヤで土砂を運ぶというのは斬新なアイデアであった。
はこのアイデアには先例があった。昭和28(1953)年に着工した東部工区埋立事業(灘区灘浜東町〜東灘区深江浜町)は、最初 灘区鶴甲(つるかぶと)山から採取した土砂で造成されたが、鶴甲山から海岸までの間には阪急、JR、阪神の各鉄道や国道2号、43号などの幹線道路が走っており、その障害を防ぐために地下式コンベヤを都市計画道路高羽線の路下に設置したのである。延長3.7km、ベルト幅員1.2m、速度150m/分でその運搬能力は1,600t/時。36年から41年まで運用され、1,500万m3の土砂運搬を行った。コンベヤ撤去後は開削トンネル部は共同溝に、山岳トンネル部の一部は神戸大学の実験施設に転用されている。なお、次いで土砂採取が行われた渦森山では、計画採取量が800万m3と少なかったためベルトコンベヤは断念し、常時は水の少ない住吉川の河道断面を改修して高水敷をダンプトラックの通路として活用し、大型車の市街地走行を回避した。これも当時の時代背景の中でしか実現しないユニークな発想と言うべきだろう。

図1 昭和35(1970)年におけるDID1)は海岸平野に偏在しているが、その後の「新都市整備事業」等の開発により内陸部と埋立地に市街地が拡大した

 次いで土砂採取地に選ばれたのは高倉山。多井畑を含めて約140m切り下げ、4,000万m3の土砂を採取する計画が立てられ、このうち3,500万m3はベルトコンベヤで須磨海岸に送りそこから船で埋立地まで運ぶこととされた。高倉山から須磨海岸まで1kmの間には住宅地があり、山陽電鉄、JR、国道2号などの主要幹線も通っている。これらを避けるために、一ノ谷川に沿った高架のベルトコンベヤが計画され、38年1月に着手、翌年1月16日から稼働している。
図2 かつては偉容を誇った須磨海岸の船積み桟橋(神戸市みなと総局提供資料による)
当時としては国内で製造できる最大幅の2.1m、速度は150m/分として、平均運搬能力は4,600t/時。コンベヤの起点である高倉には2万m3のストックパイル(一時貯留施設)を設置してベルトに載せる土砂量を調整し、海岸にはコンベヤ能力の2時間分に相当する6,000m3のホッパーを設置して土運船に積み込んだ。須磨海岸には海水浴場や海苔の養殖場があったため、船積施設は海岸から250m張り出すこととされ、同時に台風時の風波の抵抗を少なくするため桟橋構造とされた。搬出された土砂は、大部分はポートアイランドの造成に使用された。
図3 須磨ベルトコンベヤの標準断面(出典: 神戸市開発局「山、海へ行く−須磨ベルトコンベヤの記録」)
 昭和44(1969)年に至り、造成中のポートアイランドの土砂需要と六甲アイランドの埋立計画の浮上により、第2期の須磨土砂採取計画が立案され、開発地は、40年代後半には高倉団地から横尾団地・名谷団地・総合運動公園・流通業務団地・研究学園都市へと、どんどん内陸に向かっていった。それに伴いベルトコンベヤも地下方式で順次 延伸された(名谷地区で市道と地下鉄を横断する部分は高架で建設された)。開発地が内陸に移るにつれ、土質は、花崗岩が風化したマサ土からシルト分の多い神戸層群・大阪層群へと変化し、ベルトコンベヤ技術にも改良が加えられた。50年に船積施設のホッパーが廃されたのはこの例である。
 さらに、昭和61(1996)年策定の「第3次神戸市総合基本計画」において、西神地域の更なる整備と明石海峡大橋の地域開発効果を発揮させるため、木津・木見(こうみ)地区に複合産業団地が計画され、これをポートアイランド第2期と新たに浮上した神戸空港の土砂源(8,000万m3)とすることとされた。神戸複合産業団地の計画地は神戸流通業務団地から5km以上も離れたところにあり、須磨ベルトコンベヤの延長は一気に倍増され、14.5kmに達した。その間には農振地域、風致地区、兵庫県指定の原生林等があり、全線を地下で建設することとされ、機械室も地下に設けることとなった2)。また、コンベヤに求められる運搬能力は9,000t/時であり、既存コンベヤの速度アップ、高倉ストックパイルへのベルトフィーダー導入による効率化などの能力強化も必要であった。


 表1 須磨ベルトコンベヤに係る採土地と運搬先

のように、まさしく「山、海へ行く」神戸市の開発手法を支えてきた須磨ベルトコンベヤであったが、神戸空港に続く埋立て計画がなければ、土砂運搬施設としての役割はおのずと収束に向かう。平成14(2002)年、「大型開発は空港を最後にその後の予定はなく、ベルトコンベヤの役割は終わった」として、撤去の方針が示された。そして、17年9月12日、ベルトコンベヤは予定量の運搬を達成し、複合産業団地にて最後の土砂投入式、須磨桟橋にて最終船の見送り式、空港島にて最後の揚土式が行われ、41年8ヶ月にわたる稼働を止めた。この間に運搬した土砂量は約5億7,800t(約3億2,000万m3)。当初、高倉団地に係る3,500万m3を搬出する
 図4 須磨海岸に残された跡地の銘板
目的で整備されたベルトコンベヤは、その後の機能強化と入念な維持補修により、よくその任を果たした。
 撤去に当たっては、道路や鉄道の上部を占用している箇所から先行的に実施することとし、地中部は健全度調査を行って老朽箇所については充填、転用可能な箇所については利活用の検討が行われた。結果としては、神戸総合運動公園以北の約7kmが残され、民間からもアイデアを募り、転活用されることとなっている。照明や換気の点で課題もあるが、気温・湿度が一定などの利点を活かして、一部はワインの貯蔵に活用されている。
 図5 大きな地下空間が残されている機械室部分の空洞
戸市では、高度成長期を通じて市が開発事業を手がけたことにより、既成市街地に近い未利用地が無秩序なスプロールに陥ることなく良好な住宅地として適切な価格で大量に提供されるとともに、海運界のコンテナ化にいち早く対応した世界的規模の港湾が形成された。市が受けた利益も大きく、都市経営のお手本とされた。
 須磨ベルトコンベヤが関与した造成地に整備されたまちは、時間の経過とともに、見慣れた光景になりつつある。だが、これだけの事業が行われた事実が、それに携わった技術者の智恵と熱情とともに、時間の中で風化していくのに任せておくのだろうか。

 土木事業と土木技術者が社会から正当な評価を受けていくためにも、このベルトコンベヤが後世に語り継がれることが望まれる。                                                     
(2010.10.25)

(謝辞) 本稿の作成に当たり、神戸市みなと総局技術部計画課からご教示と現場見学の機会を提供いただいた。

1) 昭和35年の国勢調査から、都市的な地域を選定する指標として導入されたもので、人口集中地区(Densely Inhabited District)のこと。人口密度4,000人/km2以上の調査区(平成2年以降は基本単位区)が市区町村の区域内で互いに接して人口が5,000人以上となる地区をいう。

2) 掘削断面196.6m2、延長88mの機械室用大地下空洞を建設したもので、並列・交差トンネルを有する複雑な構造であり、泥岩・灰岩等が互層をなしかつ近傍を走る断層の影響で非常に複雑な地質であるという困難な条件に対処するため、掘削段階毎のFEM逆解析を利用した大地下空洞施工管理システムを活用して地山挙動を的確に予想して施工が行われたことについて、平成元年度土木学会技術賞が贈られた。