さか   せ
逆 瀬 川

「全流域で整合した砂防計画」のあくなき貫徹

「砂防のモニュメント」が整備された「ゆずり葉緑地公園」
 デ・レーケが範示した砂防の技術を、日本人として究めたのは「砂防の父」と呼ばれる赤木 正雄。砂防職は砂防事業、土木職は河川事業という縄張り意識ができつつある中で、彼がその思いをかけて、源流から武庫川合流点まで全流域に渡って取り組んだ、逆瀬川での成果をレポートしよう。

瀬川は、六甲山系東部の社家郷山付近に源を発し、宝塚市末広町で武庫川に合流する、延長約6km、流域面積5.4km2の2級河川である。上流域を構成する基岩は六甲花崗岩で、六甲山の生成に関係の深い衝上断層(五助橋断層)に沿って流れるため風化が激しい。現在の「ゆずり葉緑地公園」から上流は、かつては「千石ズリ」と呼ばれ、一雨降れば千石の土砂が流出したとか。押し出された土砂が武庫川をせき止めて武庫川の水が逆流するために「逆瀬川」の名がついたとも言われる。
図1 広大な河原に土石が堆積した明治期の逆瀬川(「砂防のモ
  ニュメント」の掲示による)
 このような地質的要因に加えて、大阪城の築城に際して六甲山から多くの石材を集めた秀吉が、その見返りとして山麓の農民に「武庫山の樹木伐採勝手たるべし」と布告したため山林の乱伐が進み、明治維新を迎えたとき逆瀬川上流域は全くのはげ山になっていた。そして、逆瀬川が平地に出るあたりでは、200mもある川幅一面に土石が堆積しており、「逆瀬川砂漠」の異名を持つほどであった。大雨が降るたびに濁流が狂奔し、そのたびに住民は避難を余儀なくされたという、全国的にも屈指の荒廃した河川であった。
治25(1892)年7月の大水害を契機に砂防の必要性が認識され、兵庫県は内務省から砂防の専門家を招いて調査を依頼。28年から、特に緊急を要する逆瀬川と夢前川について砂防工事を開始した。29年の河川法、30年の砂防法の公布に先立つものであり、県の単独事業であった。32年から国庫補助が認められ、砂防事業の規模拡大に伴って武庫郡良元(りょうげん)村(現在の宝塚市)小林に良元砂防工営所が設置された。35年には県会で「二十五カ年継続事業ニテ、治水・砂防工事費ヲ可決」され、第1次継続事業(明治36年〜大正3年)、第2次継続事業(大正4年〜昭和7年)によって、逆瀬川の砂防工事は着々と進んだ。
 工事内容は、第1次事業では、荒廃地において山腹石積みや柵止め連束藁工などの山腹工とアカマツを主体とした植林が中心であり、風化浸食による崩壊防止に力点がおかれた。第2次においては渓流部に石積みの床固工や堰堤工が施され、渓岸・渓床の安定を図る工法が主に採られた。これにより上流からの急激な土砂流出は抑えられたが、出水時の武庫川への砂礫の堆積はなお 深刻であった。これらの砂礫を調査した結果、逆瀬川中流部の大阪層郡や下流部の扇状地砂礫層に由来することが示され、中・下流における河床や河岸の浸食防止の必要性が浮かび上がった。ここに、流路工1)という新しい砂防の分野が開けたのである。
 わが国における流路工の最初の例となる逆瀬川流路工は昭和3(1928)年から始まった。これを指導したのは「砂防の父」と呼ばれる赤木 正雄(明治20(1887)〜昭和47(1972)年)だ。赤木は円山川右岸の豊岡市引野に生まれた。生家は軒に舟がつってあるほどの洪水常襲地だった。上京して第一高等学校の入学式で新渡戸稲造の講話を聞いて治水・砂防の道に進むことを決意し、東京帝国大学農学部林学科を卒業後 内務省に入って各地の砂防工事を指導した。私費でオーストリアに留学して砂防を学んだ後、大正15(1926)年から昭和4年まで初代の立山砂防工事事務所長として取り組んだ白岩堰堤等の砂防事業は特に有名である。後に貴族院議員、参議院議員となり、建設政務次官も務めた。
図2 下流域で採用された玉石積み護岸工

 逆瀬川での砂防事業として、白瀬川合流点から上流1kmについては、鉄線ふとん籠による水制や導流堤を設置し、河心を掘削して流路を固定し、下流2kmについては、川幅を18mと定めて両岸に玉石積み護岸工を設け、落差工を備えた床固工を施工した。赤木は「砂礫円すい地上の工法については、流路整理工類により水路幅中障害の岩石砂州を除去し、著しき湾曲を掘削して直流を企図し、水制工類により水路の整定を計り、床固工類により河床を固定せしめ、築堤および護岸工類により氾濫防止ならびに砂礫堆積地の設立を企て、水路工類により砂礫円すい地上に水路を決定する等、それぞれ一定の工法によるべきである」と説き、全流域にわたる整合した砂防計画に基づき施工することが必要との認識を有していたのだが、逆瀬川でもこれを実践したのである。会計検査院が「砂防事業がこのような工事を施工することは従来の山腹工を中心とした砂防工事とはあまりに異なり、砂防法の考え方を逸脱しているのではないか」と指摘した際も、自ら院に出頭して自説を開陳し、流路工も砂防の一環として認めさせた
図3 鎧積みの技法とそれが採用された堰堤
との逸話が伝わっている。
 ここで特徴的なのは、「鎧積み」と呼ばれる石積み工法だ。これは、上段の積み石を下段より15cmほど突出させてうろこ状に積むことにより、目地に水流や砂礫が当たらないようにしたもの。耐久性でもすぐれているが、流水が白く飛び跳ねながら落ちていく様は壮観だという。

図4 砂防事業が進捗した今も上流部の表土はもろい
れらの砂防工事により、逆瀬川の流域には緑が回復し、河況も安定した。昭和13(1938)年の「阪神大水害」2)では、甚大な被害を受けた表六甲側の住吉川や芦屋川に比べ、ここでは全く被害を見なかった。河川幅を規制することによって生まれた両岸の2万坪に及ぶ土地は民間に払い下げられ、現在では宝塚を代表する住宅地へと発展している。平成3(1991)年、砂防事業の100周年を記念してゆずり葉緑地公園が建設され、ドーム型の「砂防のモニュメント」が設けられた。
                            
(2010.08.27) (2012.12.04)

1) 本稿では、水制工・護岸工・床固工など一連の工種を組合せて水流の安定を図る施工を水路工と呼んでいる。狭義には水路を固定する護岸工をさす。

2) 7月3日から降り始めた激しい雨は5日までに六甲山で616mm、神戸海洋気象台でも461.8mmに及び、六甲山南麓から502万m3の土砂が流出して諸河川が決壊。死者616名、倒壊・半壊・流出家屋10,917戸、床上浸水22,940戸、床下浸水56,712戸という大きな被害を出した。これを機に、甲南地域の砂防は国の直轄事業に移された。水害の様子は、谷崎潤一郎「細雪」、妹尾河童「少年H」などの文学作品にも描かれている。甲南地域の阪神大水害の状況と復旧については「石碑が見守る土砂災害への備え」の稿を参照されたい。