ねじりまんぽ

斜橋を可能にした煉瓦構築技術の華麗な到達点

琵琶湖疏水のインクラインにあるねじりまんぽ、壁面が渦を巻いているように見える
 技術というのは一方的に進化・発展するものではない。近代に入って鋼やコンクリートといった優れた土木材料が発明されるにつれ、従来の土木材料に付帯していた設計・建設技術の中には忘失されるものも出てきた。本稿で紹介する「ねじりまんぽ」もそのひとつ。さあ、ねじりまんぽが見せる不思議な空間をご堪能あれ。 




都市営地下鉄東西線の蹴上駅から、琵琶湖疏水に設けられたインクラインの石積みに沿ってわずかに三条側に戻ったところに、ぽっかりと口をあけている煉瓦造りの通路がある。「ねじりまんぽ」だ。壁面が渦を巻くようにねじれて見えるが、子細に見ると、これは煉瓦を水平でなく一定の角度でもって積み上げたためであることがわかる。
 何事にも優れた先達がおられるもので、「わが国における鉄道用煉瓦構造物の技術史的研究」で学位を取られた小野田 滋氏が、土木学会の「土木史研究 第16号(1996年)」に全国の30ほどの「ねじりまんぽ」を紹介しておられる1)。その大部分は、明治初期に建設された関西の東海道本線に集中しているが、鉄道以外に利用された唯一の例が琵琶湖疏水のインクライン下にあるこのアーチ橋だそうである。
図2 傾けて積むことで、煉瓦が断面方向に整列する
図1 盛土に対して斜交する場合、通常のまんぼうでは○の部分でアーチ作用が現れない
瓦によるアーチ橋やトンネルは、断面方向に並んだ煉瓦が上載荷重を圧縮力として橋台に伝達することにより成立するのであるが、盛土に対して斜めに設ける場合には、通常のまんぼうのように水平に煉瓦を積んだのでは、端部ではこのようなアーチ作用が発現しない(図1)。これを克服するために煉瓦を傾けて積むという技法が考えられたのである。煉瓦の傾きは交差角に連動して決まる(交差角をα、アーチ内面の煉瓦の傾きをβとすると、tanβ=2cotα/πの関係が成立するそうだ)。この工法はかなり面倒な工事であり、鉄筋コンクリートの登場とともに新規に採用されることはなくなった。また、後世の改良工事で破壊されたり改造されたりして、
図3 北垣国道の筆になる「雄観奇想」の扁額は、「ねじりまんぽ」の景観の背後にある優れた設計法を讃えているようである
次第に数は減少していき、明治の文化遺産として貴重なものとなっている。
 この技法はルネッサンス時代のイタリアに遡るとされている2)が、外国人技術者によってわが国に伝えられたのはほぼ間違いなく、明治7(1874)年に開通した阪神間の鉄道における「安井橋りょう」(西ノ宮〜さくら夙川間)、「東皿池橋りょう」(さくら夙川〜芦屋間)及び「水仙上谷橋りょう」(現存せず)がわが国における初見である。これが9年に開通した京阪間では「第一寺西橋りょう」、「千本川橋りょう」、「八條川橋りょう」(いずれも現存せず)、「馬場丁川(ばばまちがわ)橋りょう」(西大路〜向日町間)、「三重川橋りょう」(改築)、「円妙寺橋りょう」(長岡京〜山崎間)、「奥田ノ端(おくでんのはた)橋りょう」(島本〜高槻間)、
図4 「蘭均氏土木学」上巻第295章の数ページが「ねじりまんぽ」の説明に充てられている
「門ノ前橋りょう」(摂津富田〜茨木間)と8橋もあるのは、阪神間の鉄道建設現場で学んだ日本人がそれぞれ指導者となって京阪間の「ねじりまんぽ」を建設したとも想像されるし、インクライン(24年に運行開始)の「ねじりまんぽ」にも鉄道建設に従事してこの技法を習得した技術者の参画が想像される。もちろん、16年に工部大学校を卒業して疏水事業を指揮した田辺 朔郎3)も、鉄道での施工実績は見聞していたであろうし、13年に翻訳刊行された「蘭均氏土木学(原題Manual of Civil Engineering)」等を通じてこの技法を学んでいたと思われる。
 蘭均氏ことウィリアム・ランキン(William John Macquorn Rankine、1820〜1872)は、グラスゴー大学にあって、土木工学の分野では「ランキン土圧」に名を残す鉄道技術者であるとともに、エネルギーの用語と概念を導入するなど熱力学の分野で顕著な功績を挙げた物理学者である。また、明治4年の遣欧米使節団の一員だった伊藤 博文の依頼を受けて、いわゆるお雇い外国人教師の派遣に尽力したことでも知られ、
図5 京都市が設置している道標には「ネジリマンポ」とのみ案内されている
わが国にとって忘れられない人でもある。
ころで、インクラインをくぐるねじりまんぽは京都市が制定している「京都一周トレイル」に当たっており、多くの市民が接している土木遺産であるが、周辺には図5のような道標があるのみで、技術史的な価値に気づく機会が提供されていない。残念なことである。
(補遺)京阪間の鉄道におけるねじりまんぽ
 おそらく田辺 朔郎も参考にしたであろう京阪間の鉄道におけるねじりまんぽのうち、現存するものを現地に探見してみた。いずれも上り線側が後に線増されているため、ねじりまんぽは下り線側に残されているが、どれも個性的で、それぞれの目的にあわせて入念に設計されていたことを伺わせる。明治の構造物の上を新快速電車が轟音とともに走り去るさまは、まるで時間軸もねじれてしまったかのような体験だった。
(1) 円妙寺橋りょう(長岡京〜山崎間、N:34゚54'20"、E:135゚41'18")
 阪急長岡天神・JR長岡京・JR山崎・阪急大山崎から阪急バスで「円明寺」下車、すぐ西に入ったところにある(ただし、バスの本数は少ない)。もとは水路が通じていたものを、人が通れるように一部にコンクリートを張ったものらしく、屈んで歩かないといけないくらい小さい。建設時には人に見られることを想定していなかったはずであるが、内部の造作はみごと。
図6 左下においたデイパックと比べてもその小ささがわかろうというもの 図7 水路部分の煉瓦ばりの底はもとの姿を残していると思われる 図8 2段の石積みの上に構えられたねじりまんぽの煉瓦アーチ、ねじれ具合が美しい
明治の技術者の気迫が感じられる。
(2) 奥田ノ畑橋りょう(島本〜高槻間、N:34゚51'48"、E:135゚38'49")
 JR高槻または阪急高槻市から市営バスで「梶原西」で下車し、水路に沿って南に下がるとすぐ。このねじりまんぽも水路に蓋かけして人を通しているようだが、もともと水路幅が大きかったのと、水平に積み上げた煉瓦の上にねじりまんぽを構築しているため、
図10 水平に積み上げた煉瓦の上にかなりの傾きで積んだねじりまんぽ、しっかり渦を巻いたねじれっぷりが良い 図11 このねじりまんぽも水路に蓋かけしたもの
内部空間は比較的大きく、何とか人が通行できる高さを確保できている。

図9 坑口の外観から、斜交していることがよくわかる

(3) 門ノ前橋りょう(摂津富田〜茨木間、N:34゚49'31"、E:135゚34'19")
 阪急茨木市から徒歩または阪急バス「田中」下車。川端通に沿う緑地の東側にある。ここは初めから跨道橋として建設されたようで、高さは充分である。石積みの上に水平に煉瓦を積み、鋸型に成型した迫受石を載せて、そこからねじりまんぽが始まる。開放的ではあるが、それだけに ねじれている感覚はあまりしない。迫受石が用いられているということは、煉瓦の傾きが現地合わせではなくあらかじめ設計されていたことを明らかに示している。
図12 当初から跨道橋として建設されたこのねじりまんぽは高さも十分 図13 ねじれ感は少ないが、この明るさは他のねじりまんぽにないもの 図14 ねじりまんぽの立上り部に用いられている石材
 (2010.07.20) (2010.08.05)




1) 小野田 滋ほか「組積造による斜めアーチ構造物の分布とその技法に関する研究」。なお、一般に入手しやすい氏の著書として、「鉄道構造物探見」(JTB)をお勧めする。

2) 小野田氏によると、ルネッサンス期の美術史家ヴァサリ(Giorugio Vasari,1511〜1574)がトリボロ(Il Toriboro,1500〜1550)の業績について「公爵はボローニャへ通じる幹線道路がサンガッロ門のすぐ外にあるムニョーネ川に橋を架けることをイル・トリボロに要請した。そしてこの橋のアーチは、川が斜めの線で道路と交わっているために、トリボロは同じ方法で橋を架け、そしてこのことはその当時新しい施工法であり、大いに賞賛された」と記述しているそうである。

3) 田辺 朔郎は洋式砲術家である田辺 孫次郎の長男として文久元(1861)年に江戸で生まれた。幼くして父を亡くしたが意欲的に西洋の学問を学び、工部大学校に進む。卒業論文のテーマを求めて京都を訪れ、琵琶湖疏水を構想してこれに取り組む。明治16(1883)年、卒業と同時に北垣 国道知事に請われて京都府に着任し、総予算125万円(現在価格にして約9,000億円)に及ぶ疏水事業を指導した。工事開始後、アメリカを視察して水力発電に成功したとの報に触れ、ただちに疏水事業に取り入れたことも有名。機械・資材が乏しい中、強い信念により難工事を克服し、23年に通水。時に朔郎は弱冠28才であった。工事完成後は東京帝国大学、北海道庁を経て明治33(1900)年から大正7(1918)年まで京都帝国大学教授を務め、退官後も各地の鉄道計画等に関与した。昭和19(1944)年没。