不動川砂防堰堤(デ・レーケ堰堤)

今も人々の記憶に残る明治の外国人技術者の貢献

デ・レーケ堰堤により整えられた渓流で憩う人たち
 京都府木津川市にある不動川砂防堰堤は「デ・レーケ堰堤」の通称で親しまれている。「デ・レーケ」とは、明治時代に日本で河川・港湾・砂防事業を指導したヨハネス デ・レーケ(Johannis de Rijke)のこと。彼の名を冠した施設は全国にいくつもあるが、最初に手がけた不動川砂防堰堤を手がかりに、明治政府のもとで30年間 働いた彼の人となりを調べてみた。

末の混乱を乗り越えた明治政府にとって、最大の課題は、幕府が結んだ不平等条約の改正であった。この条約が不平等といわれるのは2点ある。1つは、貿易に際してわが国が課する関税は相手国と協議して定めなければならないこと(関税自主権の欠如)、もう1つは、外国人居留地内にいる外国人にはわが国の裁判権が及ばないこと(治外法権)である。明治政府は、不平等条約を改正するには、欧米の文化を取り入れ、産業を振興することが必要と考えた。産業の振興のためには、鉄道や港湾及びそれに続く河川の整備が必要であった。というのは、江戸時代にはわが国はかなり小規模な藩に分割して統治されており、各藩はそれぞれ自領の開発や保全は行っていたであろうが、国土を俯瞰するような整備計画というものは存在しなかった。それが国力をそいでいたことに気づいた明治政府は、いち早く中央集権体制を築き公共施設の近代化に乗り出すのである。
 とは言っても、欧米に見るような公共施設を建設できる技術者・技能者はわが国には居ない。政府は外国人を高額の給与をもって招聘して調査・設計・施工監理にあたらせることとした。ただし、公共事業の実施を全面的に外国人に頼ろうとしたのではない。彼らには治外法権があったから、事業の決定権はあくまで日本人官僚が保有することとし、外国人技術者は専門的見地から助言・提案する立場においた。また、大学を設立して技術者を養成し、彼らの役割を早期に日本人が代替することも策した。このようにして来日した外国人の数は127名にのぼる。    表-1 明治初期の外国人教師・技術者らの国別内訳
出身国 主な活動分野 合 計
教 育 鉄 道 河 川
港 湾
砂 防
橋 梁
上下水道
その他
イギリス 9 30 9 9 4 61
アメリカ 9 8 14 9 40
オランダ 12 12
ド イ ツ 1 5 1 7
フランス 4 4
その他 2 1 3
21 44 25 23 14 127
時、政府が頭を痛めていた問題のひとつに大阪港の整備があった。大阪港は安治川をさかのぼった川口にあったが、手狭な上に水深が浅く、吃水の深い外国船は入れなかった。そのため、江戸時代に「天下の台所」とまで呼ばれた大阪の経済力は、急速に失われつつあった。そのころ、多くの公共施設の設計はイギリス人技術者にゆだねられていたが、彼らは煉瓦や鉄を使った構造物は得意でも、水工は不得手のようだった。そこで、明治3(1870)年、民部省土木局はオランダから治水と築港に経験のある技術者を招聘することを決議し、江戸時代から医師として働いていたボードウィン(Antonius Franciscus Bauduin)博士に人選を依頼した。博士がオランダ内務省に照会しても日本に行くことを希望する者はおらず、やむなく知人のつてを頼って北海運河の技官を勤めていたファン・ドールン(Cornelis Johannes van Doorn)1)を推薦した。ファン・ドールンは高学歴で優秀な土木技師ではあったが、建設事業中に限って雇用されて監督官をしていたに過ぎず、事業の計画や設計に携わったことはなかった。その彼が、月給500円(現在価値にして約310万円)という破格の待遇で日本政府から招聘されたのである。
 ファン・ドールンは、5年に来日するや精力的に仕事をこなした。利根川や淀川を視察して量水標を設置するとともに、大阪港の築港計画を策定して政府に提出した。翌年には治水の基礎的な用語を解説した「治水総論」も提出している。これが大久保 利通らの政府高官には好評で、ファン・ドールンは近代土木技術を知悉した上級技術者のように思われた。そして、彼が「大阪築港計画のためにはさらに数人の技術者が必要」と進言すると、政府は直ちにそれを認めるのであった。この時、ファン・ドールンが選んだのは、エッセル(George Arnold Escher)2)、チッセン(A.H.T.K.Thissen)、デ・レーケの3名だった。
こでデ・レーケの経歴に触れておこう。デ・レーケは1842年、オランダ南西部のゼーラント州北ベーフェラント島に生まれた。北ベーフェラントには13世紀頃から人が住み始めたようだが、北海の海面上昇のため14世紀には独立した島となり、その後も徐々に水位が上昇するので、人々は海岸に堤防を築いて土地を守った。堤防で囲まれた陸地にたまった水は風車で排出したが、島の地盤は軟弱なピート(泥炭)であったので、排水により地盤沈下をきたし、堤防をいっそう高くしなければならなかった。こうして輪中のような堤防ができあがった。デ・レーケの父はこの堤防を修築する築堤職人であった。
 デ・レーケが5才の時、一家は堤防工事に従事するため南ベーフェラント島に移る。デ・レーケは家業を手伝いながら青少年期を過ごすのだが、ここで重要なできごとに遭遇する。それはレブレット(J.Lebret)との出会いである。レブレットはデルフト工科大学の前身である王立アカデミーの教授になってファン・ドールンやエッセルにも水理学を教えることになるのだが、この時は内務省土木局の技官をしていた。おそらく監督に来ていたレブレットにデ・レーケは技術のことを尋ねたにちがいない。子供のいないレブレットは向学心に富むデ・レーケをかわいがり、数学や力学や水理学を教えた。飲み込みの早いデ・レーケはすぐに勘所をつかんだという。
 23才の時、デ・レーケは独立してアムステルダム郊外に移った。その翌年、彼はアムステルダム運河会社が施行する アムステルダムと北海を結ぶ運河に設けるオランニエ閘門の現場主任として勤務し、みごと工事を成功に導いた。この時にも彼は自らの人生を決定づける出会いを経験している。彼を日本に呼び寄せてくれたファン・ドールンとは、ここで知り合ったのである。
治6(1873)年10月に神戸港に着いたエッセルとデ・レーケは、ファン・ドールンから引き継ぎを受けて大阪港改修のための調査に着手した。河口の堆砂を見てエッセルらは淀川の上流に大規模な土砂崩壊があるに違いないと考え、11月に宇治川から琵琶湖を訪れ、田上(たなかみ)山に露出している岩肌を見た。7年11月には木津川をさかのぼり、支流の不動川で禿山の土砂が流れ落ちる現象を観察した。そしてその上流の相谷(あいだに)川に、高さ11mのわが国で初めての近代的砂防ダムを設計した。さらに8年2月には大堰川や奈良付近の禿山を視察した3)。これらの調査を通じて彼らは、上流域からの土砂流出を止めない限り大阪港を改修しても堆砂ですぐに使えなくなるのは必定と考え、まず砂防事業を急ぐこととし、舟運のためには、とりあえず大阪〜伏見間の淀川を蒸気船が通れるように改修することを提言した。両事業は8年から着手された。エッセルが主に設計を担当し、デ・レーケが施工を指導した。
 彼らが真っ先に砂防事業に取り組んだ不動川とは、木津川市東部の平尾地区の山中に源を発し、同市綺田(かばた)高島で木津川に右岸から合流する流域面積4.6km2の河川である。上流部の山林が奈良時代に都城や寺院の建設用材として大量に伐採されたことや、肥料としての下草や照明用の松根を採取したことなどが原因で禿山になったと伝えられ、土砂流出のために川底が周辺より15mも高い「天井川」になっている。江戸時代の寛文6(1666)年には幕府が「諸国山川(さんせん)掟」を定めて4)、草木の根株の採掘の禁止、植樹の奨励、河原等での開墾の禁止を達した(山城・大和・伊賀の3国に限定した根株の採掘禁止はその6年前にも発せられていた)が、幕府の衰えとともに統制が弛緩し、災害が多発していた。
図1 わら網工が施された綺田山(エッセル家に保存されていた写真から、出典:参考文献)

図2 不動川を視察した松方(前列中央左の足を組んだ人物)とデ・レーケ(その右の胸を張った人物)(淀川資料館所蔵、前掲書より転載)

図3 昭和28年の水害の模様、両岸の堤防が破れて洪水が村落や田畑に流れ込んだ(出典:安東尚美「南山城・木津川支川天井川の形成と切下げに見られる治水意識の変遷」(http:www.eonet.ne.jp~river-basincivilhis.pdf))

図4 相谷池を形成する不動川で最大の堰堤はデ・レーケの指導を受けた市川 義方が建設した

 山地の荒廃に心を痛めたファン・ドールンは、「治水総論」に続いて「禿山砂防工法説明」を政府に提出し、岩砂の露出したところに若木を植えること、わらを押さえ込んで斜面を覆うこと、砂防堰堤を造ることなどを提言していたが、エッセルやデ・レーケが採用したのもこれらの工法である。デ・レーケは自らも不動川に赴くとともに、京都府の技官 市川 義方らを指導して次々と砂防事業を進めていった。上流の綺田山は全山が「わら網工」で覆われた。わら網工とは、禿山にわら縄を網状に張り巡らした上で植林することにより、確実に土砂流出を防止する工法である。また、不動川から木津川を経て淀川に流れ込む土砂を止めるため、峡谷には石積み堰堤・土堰堤などが数百基も築造された。
 明治13(1880)年、松方正義が内務卿に就任し近畿地方を視察することとなった。この時、デ・レーケは2日にわたり卿に自らの成果を供覧する機会を得た。4月1日、松方卿は伏見から大阪までの11里(約43km)を屋形船で下り、淀川改修工事の模様を視察した。デ・レーケは卿の隣に席を与えられ、自身の行った工事について説明した。7日には、松方卿はデ・レーケと50名あまりの官僚や村長らを伴って、綺田山に登ってわら網工の作業風景を望見し、砂防堰堤や貯水池を見て歩いた。この時の式典でデ・レーケは、山林伐採の禁止と砂防計画が「この国の子孫たちに全面的に受け継がれるならば、私たちをとり囲んでいるこれらの荒廃した山々は、いずれ美しい樹木で覆われ、緑いっぱいになることでしょう」という書簡を朗読して松方の助力を要請し、松方はこれに「とてもいい話だ」と応じたという逸話が伝わっている。この時の信頼関係が、デ・レーケが30年にもわたり日本に滞在する端緒ともなった。
の予言どおり、それから130年を経て綺田山は緑に覆われた。不動川はその後も何度か洪水を繰り返したが、デ・レーケによる砂防堰堤は被害を最小限に食い止めるのに貢献した。例えば昭和28(1953)年の南山城水害5)で、山城町では鳴子川・不動川・天神川・渋川がいっせいに決壊し死者31名、全壊・流失戸数59戸、井手町でも玉川が決壊して死者107名、全壊・流失戸数278戸という大被害を受け、デ・レーケ堰堤も一部 崩れたが、もし堰堤がなければ被害はもっと大きかったろうと予測されている。
 この復興が一段落した57年から62年にかけて、京都府は相谷池の周辺を不動川砂防歴史公園として整備した。子供に水遊びをさせたりバーベキューを楽しむファミリーやグループに利用されている。園内には砂防学習コーナーも設けられ活用されている。平成12(2000)年には日蘭修交400周年を記念し、公園内にデ・レーケの銅像が設置された。
デ・
レーケは、淀川水系のほか、九頭竜川とその河口の三国港の改修、木曽三川の分離や駒ヶ岳などの砂防、筑後川の調査と三池港の浚渫、常願寺川の改修と立山の砂防踏査などにも取り組んでいる。これらを通じた彼の一貫した考えは、水源から河口まで水系を全体として捉え、水と土砂流のエネルギーをコントロールして河道を安定させる6)ことに尽きる。彼は高い教育を受けたことがなく、オランダでの経験がそのまま日本に適用できる訳でもなく、設計の多くをエッセルに頼っていたと思われるが、現場で
図5 公園に置かれたデ・レーケの胸像、彼の謹厳実直な性格を表現している
事象を観察することにより培った鋭い直感で、現在に通じる治水・砂防の原理をわが国の技術者に示したのである。
 明治36(2003)年5月に退官する時、デ・レーケは勅任官7)まで昇進し、あらゆる公共事業に意見を言う立場になっていた。そして、退職に当たって5万円の慰労金と勲二等瑞宝章が授与されている。すでに、内務省では、優秀な成績を収めて海外留学から帰国した古市 公威や沖野 忠雄が、実際にはデ・レーケを超える実力を発揮していた。しかるに、なぜ 彼が30年にもわたって高給をはむことを許され、これほどに厚遇されたのであろうか。
 先に述べたように、イギリス人は鉄を用いた構造物の設計が得意だった。一方、デ・レーケは、エッセルへの手紙の中で告白しているように、最後まで構造力学は理解できなかった。イギリス人は、「そんなデ・レーケになぜ審査されねばならないのか」と、し
ばしば不平を鳴らしている。しかし、近代的な製鉄工場を持たなかった当時の日本にあって、イギリス人の設計を採用することは、ただちにその資材をイギリスから輸入することを意味した8)。文明開化路線を強硬に推し進めるためには、明治政府は「外国人技術者の雇用は国益を損なうのではないか」という想定問答をたえず用意しておかなくてはならなかった。その答えのひとつが、オランダ人による設計照査だったと思えるのである。デ・レーケが離日した36年は、34年に開設された官営八幡製鉄所が、ドイツ人ひとりを残して外国人を解雇し、本格操業に入った年でもあった。
 とは言え、民衆は、国土の荒廃を憂い、現地で調達できる材料を使うことを基本に、純粋に技術支援を続けるオランダ人技術者の姿勢を、デ・レーケに見ていたのではないか。だからこそ彼は日本人に愛され、いつくもの施設に彼の名が残ったのではなかろうか。

(参考文献)  上林(かみばやし)好之「日本の川を甦らせた技師デ・レイケ」 (草思社)
                                                                   
 (2010.05.06) (2010.07.07)(2023.09.30)


1) ファン・ドールン(1837〜1906)は、ユトレヒト工業高校、デルフト王立アカデミーで学び、公務員や教師を経て明治5(1872)年に来日。関西では淀川や木津川を調査し、その後、安積疏水や野蒜築港に従事した。13年に帰国してからは「オランダ鉄筋コンクリート会社」の設立などに関与している

2) エッセル(1843〜1939)は、デルフト王立アカデミー学んだあとオランダ内務省土木局で幹部候補生として勤務した。やがて日本に興味を持つようになり、ファン・ドールンの推挙でデ・レーケとともに一等工師として明治6(1873)年に来日し、淀川改修や三国港改修の設計を指導した。11年に母国に戻りエリート官僚の道を歩んだという。だまし絵で有名なM・C・エッシャーは彼の息子。

3) 彼らの視察の際、山林を伐採していた杣人にやめるよう忠告してもあざ笑われるだけだったという経験をした。その後、デ・レーケは山林伐採の禁止を唱え続け、明治13年になって内務省から「流域保護規則」が京都府に通達された。

4) 欧州で治水の先進国と言われるフランスにおいて山地の伐木が禁止されたのは1718年、砂防工事や造林が法定されたのが1860年であることを考えると、江戸幕府の施策が先進的なものであったことが伺われる。

5) 8月14日から16日にかけて、近畿北部に停滞していた寒冷前線が原因で、京都府南部・滋賀県南部・三重県西部にかけて、雷を伴った激しい豪雨に見舞われた。特に15日未明の降雨が激しく、和束町湯船地域では総雨量428mm、時間雨量100mmに達するなど、正に記録的な大雨となった。

6) 洪水に含まれる土砂流に関する理論は、1950年代になってわが国では佐藤 清一・吉川(きっかわ)秀夫・芦田 和男らが研究したもので、今日 河道設計をする上で不可欠の知見となっている。

7) 辞令に天皇の御名・御璽が記されている官職のことで、現在の事務次官クラスに相当する。

8) 横浜水道を設計したパーマー(関西では既報の御坂サイホンの設計で知られる)が、自ら資材を調達したことで大もうけしたのではないか、という噂が立ったくらいである。