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つて関西の私鉄沿線にはその鉄道会社が経営する遊園地があった。「枚方パーク」(明治43(1910)年 香里園に開園、大正元(1912)年 枚方に移転)や「生駒山上遊園地」(昭和6(1931)年 開園)、「みさき公園」(昭和32年 開園)は今も健在だが、「宝塚ファミリーランド」(明治44年 「宝塚新温泉」として開設、昭和35(1960)年 改称、平成15(2003)年 閉園)、「近鉄あやめ池遊園地」(大正15(1926)年 開園、平成16年 閉園)、「甲子園阪神パーク」(昭和4年 「浜甲子園」として開園、7年 「浜甲子園阪神パーク」と改称、18年 閉園、25年 移転再開、平成9年 「阪神パーク甲子園住宅遊園」と改称、15年 閉園)、「さやま遊園」(昭和13年 開園、平成12年 閉園)は住宅や商業施設に転用されてしまっている。
ところが、私鉄の経営から外れても市営の公園として生き残った遊園地がひとつある。「近鉄玉手山遊園地」だ。この遊園地、なんと明治41年の開設。当時の河南鉄道(明治31年に河陽鉄道として柏原〜富田林間を供用、35年に河内長野まで延伸)が集客のために設置した。浅草の「花やしき」1)に次ぐ、わが国で2番目に古い遊園地である。 |
手山からは石川と大和川の合流点を眼下に望むことができるので、この山は、大和川狭窄部を通って河内と大和を結ぶ交通路を支配する上で、
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図1 玉手山の山頂には調査を終えた古墳の石室が展示されている |
重要な軍事拠点であった。古くは4世紀頃、玉手山ではさかんに古墳が造営されている。現在、14の前方後円墳と若干の円墳が確認されているが、時代が下がるほど簡素になる傾向が見られることから、これらを造営した氏族は5世紀に古市譽田古墳群を造営する氏族に圧迫されて衰えていったと考えられる。近くは大阪夏の陣(慶長20(1615)年)の激戦地になったところでもある。大坂城を目指して集結する徳川勢を分断するため、後藤
又兵衛基次らは玉手山丘陵地の小松山(玉手山第3号墳に相当)から攻撃を仕掛けるべくここに進出しようとしたが、折からの濃霧のため他の部隊の到着が遅れ、又兵衛はやむなく単独で徳川軍に打って出る。はじめは優勢だったものの、徳川方の兵力に押されて6時間に及ぶ激闘の末
又兵衛は討ち死に。「軍兵大勢討死。大坂方は猶もって大勢打死。この三村(円明村、玉手村、片山村のこと、
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図2 山頂近くの広場にある後藤 又兵衛の碑、左は介錯をした吉村 武右衛門の碑 |
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図3 木立の中にある小林 一茶の句碑、自然石に「初蝉や」の句が刻まれている |
筆者注)の地、あき間もなきほど死体ありける(「河内鑑名所記」(延宝7(1679)年、三田
浄久)」というありさまであった。
また、玉手山の風光は江戸時代の文人墨客の愛するところともなり、寛永7(1795)年に葛井寺、道明寺を訪れた俳人
小林 一茶は、玉手山にも登り、「初蝉や 人 松陰を したふ比(ころ)」、「雲折りく
適(まさ)に青菜見ゆ 玉手山」の2句を残している。
の景勝の地に玉手山遊園地が設置されたのである。古墳の石室、後藤 又兵衛の碑等の史跡に混じって、観覧車、音楽堂・野外劇場、ミニ動物園、昆虫館・おもちゃ館、お猿の列車、日本一長いという50mのすべり台等が点在。公園的要素をもつ遊園地として親しまれ、幼稚園や小学校の遠足の場として利用されたが、最寄り駅から徒歩で15〜20分かかる上 駐車場を持たないという交通の便の悪さ、史跡に立地しているため大型遊戯施設の開発が困難であること等から他の遊園地との競争に早々と敗れ、運営主体の近鉄興業は平成10(1998)年に閉園して施設を撤去することとした。
ところがこのニュースを聞いた市民から継続を求める声が上がり、遊園地の敷地の大部分を持つ宗教法人
安福寺から柏原市が借地し、遊戯具等の施設を近鉄からそのまま引き継いで、ほぼ1年の休園期間の後
「柏原市立玉手山公園ふれあいぱーく」として再開された2)。
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図4 宗教法人から借地しており、園内には公園施設と宗教施設が混在している |
図5 玉手山公園は今も幼稚園の遠足のメッカ |
近鉄時代との主な変更点は、観覧車・メリーゴーランド等の大型遊戯具を撤去、庭園列車に替えて市内の鉄道マニアから提供されたミニSLを導入、南入口を新設し小規模ながら駐車場を設置したことなど。
の玉手橋は、昭和3(1928)年に道明寺駅から玉手山遊園地へのアクセスのために当時の大阪鉄道(河南鉄道が名称変更)が設置したもの。長さ151.3m、幅員3.3mの5径間連続吊り橋で、右岸側から18.05m+38.1m+37.85m+38.45m+18.85mという径間割りである。遊園地へのアプローチにふさわしく、
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図7 補強のために新たなケーブルが追加されたが、もとの吊り橋の雰囲気を保つように工夫されている |
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図6 橋脚や橋台にも丹念に装飾的なデザインが施されている |
主塔を開腹アーチで結び橋台もアーチ形とし、コンクリートを部分的に煉瓦で補強する等、装飾的な仕上げになっている。設計者は不明。おそらくインハウスの技術者であったと思われる。現在は柏原市が管理する自転車・歩行者専用橋になっている。補剛桁に相当する部材がなくやや揺れやすいが、ケーブルは新しく2本が張られ
合計4本(片側)になった。平成13(2001)年、吊り橋としては初めて国の登録有形文化財に指定された。
橋の下は、大和川の支流である石川。河内長野市蔵王峠付近に発し、南河内地域を北流して柏原市石川町と藤井寺市船橋町の境で大和川左岸に合流する。平野に出てからはほぼ全川にわたって高水敷に自転車道(南河内サイクルライン)と河川公園が展開しており、玉手橋付近では橋を挟んで北側が「玉手橋であいの岸辺」、南側が「玉手橋つどいの広場」になっている。遊園地に向かう人を渡した玉手橋のメルヘンチックな姿は、架けられてから80年を経て、今では河原で憩う人たちの絶好のランドマークともなっている。 |
図8 5径間連続吊り橋である玉手橋 |
(参考文献) 重田 堅一「かしわらの史跡」(柏原市総務部広報広聴課)
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1) 牡丹や菊を中心とする庭園として嘉永6(1853)年に開設。当時はぶらんこが唯一の遊具だったが、明治に入って遊戯機器を増やすとともに、動物園・劇場なども設けられた。昭和17(1942)年に強制疎開により取り壊され、22年に再開。ローラーコースターやBeeタワーなどのアトラクションを順次 設置している。
2) リニューアルしたとは言え基本的には近鉄時代の遊園地を継承していることから、宗教法人との借地契約の是非、有料の施設の必要性、保安のために夜間閉鎖することなど、市営の公園としての問題も指摘されている。
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