天 保 山

遊園地が開発を先導する手法は今も変わらず

天保山大橋を望む天保山公園
 桜の季節には花見客でにぎわう天保山公園。昭和33(1958)年に開設された 面積2万m2余りの近隣公園で、観覧車や海遊館を望む行楽地として親しまれている。文字どおり天保年間に築かれた天保山が、今日の姿になるまでの紆余曲折に満ちた180年を辿ってみよう。





「天
保山」の名は、天保2(1831)年から始まった安治川・木津川の浚渫工事の土砂を積み上げたことに始まる。このころ、大坂では新田開発のための埋め立てが盛んで、陸地がどんどん沖に進出しており、ために、瀬戸内海から入る船は河村 瑞賢が貞享元(1684)年に開削した安治川を5kmも遡航して川口にあった港に達していた。その河口の突端に船の目印になるようにと、人口の山を造成(当初は「目標(めじるし)山」と名付けられていた)したのであった。「摂津名所図会大成」には「山の高さおよそ十間(約18m)ばかり(中略)、 高燈炉を建てて夜走(よばしり)の舟の目あてとす」とある。山には松や桜の木が植えられた。
 天保山は沖の船からもよく見えたろうが、天保山からの眺望もすばらしかった。特に西麓には酒や魚介類を供する磯辺茶屋が立ち並び、春は花見、夏は納涼、秋は紅葉、冬は雪見と四季折々の風情を愛でて、商人らの遊興や和歌・俳諧の会などが盛んに催されたという。
図1 大坂に入港するには安治川を5km遡航しなければならなかった(「新撰増補大坂大絵図(貞享4(1687)年)」、原図は東を上に描かれている) 図2 初代 歌川 貞升による「浪花天保山風景」、花見や船遊びに興ずる人々の姿が描かれている(大阪府中之島図書館所蔵)
 このような天保山のにぎわいも、幕末の混乱の中で突然に幕を閉じる。安政元(1854)年、ロシアの軍艦が天保山沖に現れ示威行為を繰り返す事件が起こった。これに対応して幕府は要所に砲台を設置することを各藩に命じたが、大坂では天保山が選ばれて、山を切り崩して海に向かって砲台が築かれた。実際には大砲は火を噴くことなく明治維新を迎え、砲台は廃棄される。
保山が再び開発されるのは明治21(1888)年のこと。時の知事 建野 郷三の意向を受けた地元有力者らにより、軍から土地を借り受け、潮湯「海浜院」を中核として魚釣り・海水浴・蛤拾いなどが楽しめる「天保山遊園」が開業された。
 しかし、この遊園の寿命は短かった。この地に新しい港湾を建設する計画が具体化したのだ。当時の大阪港の中心でった川口へは大型船はそこまで行くことができず、沖合で小型船に積み替える必要があった。この不便を解消すべく、政府はオランダから招聘したヨハネス・デレーケに港湾整備計画の策定を依頼する。これに応えて彼がまとめた案は、天保山付近での新たな築港、西からの風波を遮るための防波堤の構築、新淀川の開削と既存の河川の浚渫などを含むものであった1)。このうち築港事業が30年から着手されたのである。
図3 当時の絵はがきに見る築港大桟橋、船舶よりも遊客が目立つ(交通科学博物館のHPより転載)
 このとき、大阪市が策定した「大阪港第1次修築計画」は総工費2,250万円。市の年間予算の20倍という額であった。国からの補助と市債で資金を賄いつつ事業を進め、計画の一環として大型船が8隻も着岸できるという幅22m、長さ455mに及ぶ築港大桟橋(現在の大阪港中央突堤にあたる) が竣工したのは36年。ところが他の整備が遅れていたこともあって港湾施設としてはあまり使われず(築港事業そのものが市の財政難のため大正5年に中断)、釣り・夕涼み・観月などに集まる遊客をねらったビアホールが桟橋で営業するなど、海浜リゾートの趣であった。同年 花園橋2)−築港間に開業した市電は、30
図4 滝が流れ落ちる築港大潮湯の男性用水泳場(大阪市立図書館所蔵)
分おきに発車する電車が全長5kmの路線を所要時間26分で結ぶという、今からすればのんびりしたものだったが、大桟橋に出かける遊客に大好評であったという。
 天保山ではさらなる施設整備も進んだ。仕事から出てくる廃材を活用すべく、これからの発展が見込める阿倍野などで浴場を営業していた大工 森口 留吉は、自らの仕事の集大成として大正3(1914)年、「築港大潮湯」を建設する。10年には隣接地に新館「築港花壇」も増設。30馬力のモーターで1日2,000m3にも及ぶ海水を毎日くみ上げて人工滝としておとす水泳場や、清水・塩水・温水の3種の浴槽があり、活動写真や演芸を見せる余興場、1,000人が集会できる380畳敷きの大広間もあった。なお、森口は旺盛な事業意欲もさることながら、関東大震災の被災者を無料で築港大潮湯に収容するなど、公共のためには私財を投ずることを厭わない人でもあった。
図5 市岡パラダイスの中心にあった築山と人工瀑布、昭和5年の閉園後もしばらくは住宅地の中に存続して遊園地の名残りを伝えたという(出典:橋爪紳也「大阪新名所」(東方出版))
図6 電気大博覧会の会場夜景、博覧会には水力発電所・家庭電化館・電気温泉・電化農園なども設けられ閑院宮殿下らも巡覧された(大阪市立図書館所蔵)
正7(1918)年に第1次世界大戦が終結した。荒廃したヨーロッパを尻目に日本は空前の好景気に見舞われる。さて、当時、大阪の人口増加に対応して郊外の田圃の所有者たちは協力して土地会社を設立して市街地を造成する動きが活発であった。天保山からはやや離れるが、市岡に15万坪の土地を有していた市岡土地株式会社は、にぎわいのある地域イメージを先行的に形成してその後の住宅地の販売を優位に進めようとの判断から、14年に「市岡パラダイス」という遊園地を開設している。定員1,000人の大劇場、ロシアのプロスケーターを招聘して開設したアイススケート場、飛行塔、映画館・演芸館・野外劇場・農園・小鳥園、千人風呂やトルコ風呂の設備があり、その斬新な趣向は人気を呼んで大阪の名所となった。
 八幡屋の土地造成を目的に大正6年に設立された安治川土地も、安治川と三十間堀川を結ぶ安治川運河を開削しこれに面して「安治川遊園地」を開設した。園内には迎賓館、奏楽堂、野外劇場、猿舎、児童向き運動器機を設置した。大正12年の第6回極東選手権大会に際して東洋一の規模を誇る「市立運動場」の建設に協力、15年の「電気博覧会」に際しては5万坪の土地と1万坪の水面を提供し、ラジオ塔・摩天閣(高さ約90m)・港温泉・港劇場・子供電車等の遊覧施設を開場した。電気自動車の展示もあった。この博覧会のために会社は多大の犠牲を払ったが、この地区を一般に印象づけるには寄与したのである。温泉と劇場は閉会後も存続し、充実した設備で講評を博した。
方、この時期の好景気により大阪港に入港する船舶が増加し、築港計画の完成を望む声が高まった。中断されていた「大阪港第1次修築事業」は民間企業の資金協力・工事代行により再開さた。天保山運河を開削して航通を増進したほか、住友家の手による天保山桟橋が内海航路の発着点となって、大阪港は著しい躍進を示した。今宮から延びてきていた臨港鉄道が築港埋立地の外周を巡って天保山に達したのもこのときである。天保山は海軍の糧秣廠になった。第1次修築事業は昭和4(1929)年に完成、天保山周辺の繁栄の礎になる。
 続いて、南港などの埋立てを構想した「大阪港第2次修築計画」が事業着手される。9年の室戸台風で港湾施設もリゾート施設も大打撃を受けたものの、復興修築工事により港湾機能の立ち直りは早く、14年には大阪港の貨物取扱量は3,000万tと日本一を記録するに至る。このような大阪港の繁栄のもとで、港区一帯は港湾施設や倉庫や工場に囲まれた地域に変貌したが、第2次世界大戦の激化で第2次修築事業も中断してしまう。
図7 盛土工事中の港区内、左手に計画地盤高に合わせて作られたマンホールが、遠景にいち早く復興した港湾施設が見える(出典:「写真集 昭和の大阪」(アーカイブス出版))
和20年の大阪大空襲で天保山をはじめとする大阪港一帯は壊滅的な打撃を受けた。終戦直後にも枕崎台風が襲い、高潮が発生して著しい浸水被害があった。永年にわたる地下水のくみ上げで地盤が沈下していたためである。市は、22年から大阪港復興計画が事業化されるのに併せて、地盤沈下対策としての盛土を行うことを決めた。港区について言えば、安治川下流約2kmの区間の川幅を500mに広げるとともに川底を浚渫して弁天埠頭などの内港を整備する3)とともに、発生した土砂でもって区のほぼ全域の地盤を2mほど嵩上げするという、一石二鳥をねらう発想である。
図8 いわゆる海抜0m地帯(最も濃い青で表示)の分布を見ると、港区及び大正区の臨海部で地盤の嵩上げがなされた効果が明瞭である(出典:国土地理院HP「航空レーザ測量によるカラー陰影段彩図(大阪)」、水際線は筆者補入)
焼け残った住民からは猛反対を受けたが、「大阪市の復興は港の復興から」をスローガンに区画整理事業を計画し、事業地には建築禁止を指示して重点的に事業を進めた。事業は天保山運河以西の市電軌道及び道路の嵩上げに始まり、順次 東に向かって進められた。都市機能を確保しつつ地盤を嵩上げする工事は思いのほか難航したが、いち早く盛土の完成した築港地区では、港湾施設をはじめ整然たる街路が形成され、近代化した姿をもってよみがえった。
 地盤の嵩上げに並行して、防災事業として不要な運河の埋立てや防潮堤の整備も進められた。この事業がようやく収束するころ、昭和36年に大阪港〜弁天町間に地下鉄が開通(39年に本町まで延伸)し、市電に替わって築港と都心を結ぶ動脈となった。
 ひとたびは内港化に向かった大阪港の整備は、33年からは南港の、47年からは北港の埋立てが行われ、再び外港化が進んだ。しかし、42年に変更された港湾計画に示された「海上都市」の構想に基づき港湾の使われ方は次第に変化しており、今や 埋立地には住宅や商業施設・スポーツ施設も立地している。具体には、52年にまち開きした南港ポートタウン、54年にオープンした南港魚つり園と海水遊泳場、58年に開業した野鳥園、60年に開業した国際展示場(インテックス大阪)、62年に完成した北港ヨットハーバーなどが挙げられる。
 この間、築港側においては臨港鉄道の全廃、内航客船の弁天埠頭への移転など、港湾の機能低下が続いた。この沈滞を打破するため、地下鉄や高速道路などの利便を生かしつつ、アメリカで採られた港湾再開発手法を参考に平成元(1989)年、天保山ハーバービレッジが開業した。第1期事業として、埠頭背後の倉庫群約4haを再生し、世界最大級の海洋生物展示館「海遊館」とレストラン・ショッピング街「天保山マーケットプレース」を開設、水際線には帆船型観光船「サンタマリア」などが発着する商船ターミナルを、西北端には「サンセット広場」を設けた。第2期事業として「サントリーミュージアム」、「ホテルシーガルてんぽーざん大阪」が開業し、水辺にはコペンハーゲン港から贈られたマーメイド像が設置された。
 これまで天保山を巡っては、ここをリゾート開発しようとする動きと港湾として整備する動きが拮抗していたように見えるが、港湾局が自ら商業利用へと大きく梶を切ったことにより方向が決した感がある。
図11 公園開設から50余年たって天保山は再び桜の名所になった
保山は、今は 天保山公園の一角にある。2等三角点のうち最も低いのがここであるため、日本一低い山と称される(1等三角点のうち最も低いのは大浜公園にある蘇鉄山で6.8m)。現在の標高は4.5mで、周囲には防潮堤や見晴台など、天保山より高い場所がいくつもある。平成5(1993)年の国土地理院地図から山名が消されたが、地元からの要望により8年に復活した。
 天保山公園の東のはずれ、天保山大橋の下からは、大阪市建設局が運行している天保山渡船が、
図9 公園のエントランスには浮世絵がタイル絵で復元されている 図10 2等三角点「天保山」は公園の基面と同じ高さ
30分おきに対岸の桜島に向けて出発している。桜島側の船着き場から1kmほど歩いた工場跡地には、平成13(2001)年、ハリウッド映画のテーマパーク「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」がオープン。これに併せてJRの新駅やホテル、商業施設の立地が進んでいる。遊園地が埋立地の開発をリードする手法は、かつての「天保山遊園」、「市岡パラダイス」、「安治川遊園地」などと同じ。時代は変わっても発想は変わらないのか。
図12 天保山公園から出て安治川を横断する大阪市の渡船、背後に見えるのは左から天保山公園・大観覧車・天保山マーケットプレイス・海遊館・サンタマリア、ちょうど大型客船が天保山船客ターミナルに着岸している
                                                                            (2010.04.08)

1) しかし、これらは政府の財政難のためなかなか実現せず、18年の淀川洪水のあとデレーケの案のうち新淀川の開削を優先して着工することとした。国は自ら開港した神戸港の整備を重視する方針であったので、大阪港の築港事業は大阪市のプロジェクトとして進められることとなった。

2) 市電築港線の起点となった「花園橋」とは現在の「九条新道」のこと。当時、この付近は西大阪随一の繁華街で、電停の東 約100mの千代崎橋からは都心に発着する巡航船が運航していた。

3) 港湾修築事業では埋立地を沖出しして新たな港湾施設を整備するのが一般的だが、この場合は @臨海部が戦災に遭い、事業中でも稼働させるべきさしたる施設がなかったこと、A沖出しすれば西からの風波を遮るための防波堤や都心部と結ぶ交通施設が必要となって、工期・工費を要すること 等から、陸地を掘り込んで内港を整備する方針が採られたと思われる。