室町住宅地
わが国で変貌しつつ発展した田園都市論 |
当初からの住宅が残る一方マンション等への建替わりも進む室町住宅地の現状 |
阪急電鉄が開業して100年。小林 一三が採った、手広く関連事業を併営することにより鉄道事業との相乗効果を追求する手法は、その後のわが国の私鉄経営のビジネスモデルとなるとともに、沿線にひとつの文化を作り上げることにも成功した。その最初の事例である池田市の室町住宅地を見て、分譲から100年を経過した住宅地の現状と課題をレポートしよう。 |
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急池田駅から高架をくぐって南側に出ると、呉服(くれは)神社を取り囲むように室町住宅地が広がる。箕面有馬電気鉄道が梅田から宝塚まで鉄道を敷設したのは明治43(1910)年3月。その総帥
小林 一三1)(明治6(1873)〜昭和32(1957)年)は、「乗客は電車が創造する」と唱えて、脆弱な旅客需要を補強すべく盛んに沿線開発を行った。
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図1 室町住宅地が開発される以前の池田(明治19年測図)、電鉄が建設される位置を破線で補記した |
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阪急百貨店、宝塚歌劇団、六甲山ホテル、阪急ブレーブスなどは全て彼の創始したものである。その小林が考案した事業のひとつが、郊外に住宅地を開発し大阪方面に通勤する人たちを自社の鉄道で運ぶという計画だった。そのため当初から沿線に約25万坪もの土地を確保していた。
室町住宅地が開発される以前の池田の町は、能勢街道から五月山の山麓にかけて展開する谷口集落であり、そこから離れた電鉄より南には、呉服神社がぽつんとあるだけで一面に畑が広がっていた。
室町住宅地は電鉄の開通から3ヶ月後の6月から分譲を開始した。「池田新市街地新築落成」と銘打ったパンフレットによると、100坪を1区画として20〜30坪の和風2階建て住宅を2,500〜3,000円で販売している。明治維新から40年を経た当時、大学を卒業して企業や官庁に勤める無産中流階級が急速に増加していた。このようなサラリーマン層は都会で借家住まいをするのが普通であったが、小林は彼らをターゲットとして、パンフレットで「美しき水の都は夢と消えて、空暗き煙の都に住む不幸なる我が大阪市民諸君よ!」と呼びかけつつ、「梢に宿る月あらば沖の白波に千鳥の友呼ぶ声あり、然れば会社も亦た進んで模範的新住宅地を経営し、大いに大阪市民諸君の趣味に訴へんとするなり」と田園生活のすばらしさを強調して郊外への移住を勧めた。そして、月給生活者にも手が出せるように頭金50円であとは10年の月賦払いというユニークな販売方法をとった。ちなみに、これはわが国における最初の住宅分譲であり、最初の住宅ローンであった。この秀逸なアイデアが好評で、室町住宅は短期に完売したという。
下、第1期分譲の際のパンフレットをもとに、室町住宅地の概要を見ていこう。まず、街区は鉄道と並行する道路とそれに直交する道路とで構成され、各住宅はすべて直行道路に面して並んでいる。第1期の分譲は82区画であったが、そのうち77区画は図2に示す4タイプの住宅であった。
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図2 第1期の分譲パンフレットに見る室町住宅地の計画概要 |
住宅の型を限定することは建築費用の低廉化を図ったものと思われるが、一方、町並みを単調なものとする恐れがある。これを防ぐために、型住宅の配列順序を通りによって変化させていることが読みとれる。なお、線路沿いの2列には型住宅を配置していない。車窓からの景観に変化をもたそうとしたと推察される。
次に4タイプの住宅の間取りを見ると、次のような点で現代の住宅の原型となる進取性を伺うことができる。1つは、従来の住宅が冠婚葬祭などの機能を重視して、ふすまを取り外せば広い空間が得られるように設計されていたのに対し、室町住宅では通り抜けの部屋はなくそれぞれの部屋が独立して廊下や内縁で結ばれている。
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図3 呉服神社の周囲に広がる室町住宅地(出典:阪急電鉄株式会社「75年のあゆみ<写真編>」) |
家族のプライバシーを重視した配置になっていると言えよう。1階には台所・土間に続いて3畳の食堂または4.5畳の茶の間が設けられている。そして、ふだん使用頻度の低い客間は、あえて設けないか、あっても2階に設定しており、総じて家族が日常生活を送るための家に徹した設計であることが理解できる。なお、便所が2カ所(内便所と外便所)あり、屋外に井戸があることも4タイプに共通している。
室町住宅地は平成22(2010)年に分譲から100年を迎えたが、100年にわたって使用され続けた家屋があるのは、建物の堅牢さとともに、部屋の用途が明確で独立性が高いという機能性のよさもあったものと思われる。
れを手始めに、阪急は桜井(明治44年)や豊中(大正2年)などに同様の住宅地を開発した。また、大正9年に神戸線を開通させると、岡本(大正10年)・稲野(大正14年)・西宮北口甲風園(昭和5年)・新伊丹(昭和10年)・武庫之荘(昭和12年)などがまとまった規模で開発された。この頃になると、モデル住宅に洋風のものが増えてくる。暖炉のある応接間、庭に面したテラス、鉄製グリルのついたアーチ型の窓、クリーム色の外壁と黄褐色の瓦など、新住宅地でしか得られないようなモダンな住宅が人目を引いた。
また、阪急は、月刊誌「山容水態」(大正2年7月創刊)を発行し、新住宅地を写真で紹介するとともに、沿線の名所旧跡やイベントの案内、「僕の住宅」・「都に住める姉上へ」など郊外住宅地を舞台とする文学作品の連載などを通じて、郊外生活の魅力を具体的にイメージさせるような宣伝を展開した。小林は茶道具を中心とする美術品の蒐集で知られる文化人でもあり、企業活動にも文化の薫りを感じさせる手法を採用したことで、沿線の価値を高めた。
このようにして、郊外であか抜けた生活を送ることが、都市に通勤するサラリーマンの生活スタイルとして
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図4 社団法人の住民組織「室町会」の拠点である室町会館 |
沿線に定着していった。
町住宅地の中心に神社を背にして室町会館がある。住宅地開発の翌年に建てられた和風の室町倶楽部が前身で、昭和11(1936)年に外観を洋風に大改造して現在に至っている。室町倶楽部の建物には、かつては購買組合もあって米穀・薪炭・酒・醤油・味噌などを販売していたそうだが、倶楽部・購買組合ともうまくいかなかった。ただ、住民組織の室町委員会(現在は「室町会」という)は自治会として機能している。室町会は社団法人として法人格を有しており、"清く明るく仲むつまじく"の精神のもと、
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図5 都会と田舎と田園都市を対比して「人はどれに引きつけられるか」と説くハワードの田園都市論 |
早くから住民協定を作って住民を組織化してきた。このような住民組織の発想は明らかにハワードの影響を受けていると言えよう。
エベネザー・ハワード(Ebenezer Howard, 1850〜1928)はロンドンの環境と貧困の悪化に対し、1898年に「明日-−真の回復に至る平和な道(To-morrow;
A Peaceful Path to Real Reform)」を出版(1902年にわずかに改訂して「明日の田園都市(Garden City of To-morrow)」と改題)して、「都市と農村の結婚」を目指した「田園都市」を提唱した。これは人口数万程度の限定された規模の自律した職住近接の都市を郊外に建設するものである。住宅は公園や森に囲まれ、農作業などをするスペースもあり、日常生活をまかなうための各種の工業やサービス業も立地している。ただし、田園都市が孤立しないよう、他の都市とは高速交通機関で結ばれる。豊かな者や貧しい者など多様な家庭のための賃貸住宅が田園都市を運営する土地会社によって提供され、この資金でもって住民の手で公共施設の整備を進めるなど、住民によるコミュニティ形成をも目指したところが重要な点であった。この理論は余りにも夢想的だと批判されたが、1903年、ロンドン北郊のレッチワース(Letchworth)にこれらの理想を具現化した世界初の賃貸式ニュータウンを着工し、その運営を軌道に乗せて見せた。
その田園都市論が小林の手にかかると、都市への通勤者のためのベッドタウンにと、みごとに換骨奪胎されてしまうのであった。わが国では室町住宅地から現代のニュータウンに至るまで、しばしばレッチワースの田園都市が参照されているようだが、ハワードのコンセプトが実現されることはほとんど無く、多くの場合は単なる開発しやすい場所での住宅供給にとどまったと言えよう。
すがに100年を迎えると、老朽化や災害などによって改築された住宅も多いし、敷地が分割されているところもある。住民の努力にも拘わらず、今の室町住宅地には、わずかに残っている当初からの住宅に加え、大正から昭和初期にかけてのモダンな木造家屋、RC造2階建ての豪邸、ミニ開発的な建売住宅、中層マンション、木造2階建て賃貸住宅(木賃アパート)など、「住宅環境の保全に努める」とした住民憲章にもかかわらず、ありとあらゆる形式の住宅が混在しているのが実情だ。
住民が協力して町並みを保全する施策として、「建築協定」の制度が建築基準法(昭和25年法律第201号)制定当初から定められており、敷地分割の禁止、敷地境界から壁面までの距離、建物の高さ、用途の特定(共同住宅の禁止など)を住民が協定することができることとなっている。が、全員合意を要することから、分譲後の住環境の維持のために住宅地の開発業者があらかじめ設定する「一人(いちにん)協定」を除くと、実績はまだ多くはない。また、都市計画法第12条の4(昭和55(1980)年改正)に基づく「地区計画」も住民が一定
合意すれば策定できるが(計画策定までのプロセスは自治体ごとに異なっており、合意形成の程度も異なっている)、ミニ開発など既存不適格な建築は再建が困難となることから、良好なまちなみが保たれている間でないと計画決定に持ち込むのが困難なのが実情だ2)。
なお、レッチワースを見てきた馬場 正尊氏によると、そこは驚くほど美しいままに保たれており、持続可能な社会システムのデザインと都市の風景について示唆を与えてくれるという(http://trendy.nikkeibp.co.
jp/lc/eco_baba/070529_denentoshi/index1.html)。 |
(2010.03.10) |
(参考文献) 吉田高子「明治43年分譲の阪急池田室町住宅地と住宅について」(日本建築学会大会学術講演梗概集(近畿)(昭和62年10月)所収)
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1) 山梨県韮崎市出身の実業家。慶應義塾を卒業後、三井銀行を経てかつての上司であった岩下清周に誘われて大阪に移り、明治40(1907)年に箕面有馬電鉄の専務に就任。沿線に宝塚新温泉、宝塚歌劇団、六甲山ホテル、阪急ブレーブスなどの集客施設、起点の梅田には阪急百貨店(わが国で最初のターミナル型百貨店)を設け、私鉄の経営モデルの先駆けと見なされた。阪急を辞職後は東京電燈に招かれ、経営の立て直しを図った。田園調布の開発にも関与している。
2) 高層マンションなどにより町並みの風格と調和が損なわれるなどのトラブルを背景に、景観法(平成16年6月18日法律第110号)が定められている。伝統や秩序のある景観を保つ必要のあるところでは、法に基づく景観計画を定め、当該区域の景観を維持するために「景観協定」により住民らが建物の高さなどを決めることができる。形態や意匠なども協定できるなど、建築協定より幅広い内容となっている。景観計画区域では自治体が建築物等の届出・勧告による規制ができ、必要な場合には変更を命ずることもできる。
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