くるま  いし
車 石

物資輸送の効率化に寄与した京都〜大津間の車石

閑栖寺に復元されている車石
 東国から京都に入る最後の難所であった日ノ岡峠や逢坂山には、古来からたびたび改修が加えられたが、その中でも注目すべきは文化2(1805)年に敷設された車石であろう。重い荷物を積んで通行する牛車のために石を敷けば、摩擦抵抗の軽減、道路の損壊防止の効果があるのは明らかであるが、実は車石はもっと革命的なものではなかったかと筆者は思うのである。


世の東海道は、三条大橋を起点に「京の七口」の一つである粟田口から山科を経て大津に達する道で、江戸の日本橋まで続いていた。日ノ岡峠を越えを超えるこの道は、平安時代にはすでに要路とされていたが、「日本紀略」の天歴3(949)年の条に「粟田山路は俄に頽砂するを以て、己(ことごと)に損害をなす。車馬の往還、甚(はなはだ)煩(わずらい)多し」とあるように必ずしも良く整備された道路ではなかった。だが、この道路の重要性が増すに従って改築が加えられたようで、貞応2(1223)年に成立したと考えられる「海道記」には、「粟田口の堀道を南にかいたをりて逢坂山にかかれば・・・」とあり、峠が人工的に切り下げられていたことがわかる。江戸時代になると幕府により五街道の1つに指定され、並行する渋谷越えなどと比べて格段の重要性を帯びることとなった。
 幕府はもともとは街道での荷車の使用を禁じていたのだが、江戸中期に入って商業が発達し物資の移動が盛んになると、とりわけ東海道、中山道、琵琶湖からの物資が集まる大津では、幕府も荷車の使用を認めざるを得なくなった1)。そこで日ノ岡峠や逢坂山などでは、人馬道と車道が分離して設けられることとなった2)。江戸時代の京都〜大津間における物資輸送の主要なものは米で、たとえば寛永2(1790)年には60万俵が運ばれている。重さ300sの牛車に米俵9俵(540s)を積むのが一般だったようだ。この荷重のために日ノ岡峠や逢坂山では道路の損傷が著しく、かつ、少しでも勾配を改良したいという思いから、しばしば改築が行われた。宝永4(1707)年、天文3(1738)年、文化2(1805)年、嘉永2(1849)年、慶応元(1865)年の改修工事などが記録に見える。
のうち、天文年間の改修は、木食養阿(もくじきようあ)上人によるもの。上人は貞亨4(1687)年に丹波国保津村に生まれ、高野山で木食行を修めた後、梅ヶ畑の庵を拠点に各地の墓所等で念仏回向を行っていた。当時、粟田口に大きな刑場があり、ここを訪れた上人が通行に難渋する人々を見て、改築を発願したと言われる。当時の築造では、雨天続きともなれば車輪が泥にとられ立ち往生することが常であった。上人は人々から浄財を募り、60間にわたって峠を切り下げ、その土砂を麓に敷いて勾配の緩和と図ったと伝えられている。上人の採用した工法は「大石砂留め法」といい、車のわだちに小石を埋めて平坦にし、ところどころに大石を埋め込んで安定させるものであった3)。おそらくわが国における最初の舗装道路ではなかろうか。また、上人は庵を日ノ岡に移し(後に庵を廃して木食寺を建立)、道路の管理を継続するとともに往来する旅人の休憩に供して湯茶の接待をし、牛馬にも水を与えた。天明6(1786)年に発行された「都名所図会」の1枚「粟田山・日岡峠」は、上人の改修から50年ほどたっても道路が健全に保たれている状況を描いている(図1)。さほど観光資源があるとは思えない日ノ岡峠が名所図絵に描かれるほど、上人の恩恵は大きかった。安永8(1778)年のデータでは、大津〜京都間の東海道には牛車だけでも年間15,894両の通行があったという。

図1 「都名所図会」に描かれた日ノ岡峠、図の中央付近に木食寺が示されている(国際日本文化研究センター所蔵)

 この時はもう一つの難所である逢坂山は改修されなかったようで、上人の工事から10年後の延享5(1748)年に朝鮮通信使の一行が逢坂山を通るに当たり、奉行所の役人がいつから道路を止めて補修したらいいかを伺った文書が
図2 「近江名所図会」に見える逢坂山、手前に牛車道が描かれている(大津市歴史博物館所蔵)
大津市歴史博物館に残っているそうだ。「大津表は車道と相分かり候処も少し之間にて、多分往還を車牽候。尤も車留仰付られ候は、早速輪形埋めさせ申すべく候」とあり、人馬道と車道の分離が不十分でわだちが酷かったことがわかる。また、同じ文書に「逢坂車道輪形少々引きならし」とあり、車道が分離されている箇所でも多少のわだちがあったようで、日ノ岡峠のような敷石の設備は無かったことが推定される。図2は寛政9(1797)年に刊行された「近江名所図会」のうち「逢坂山」。人馬道より一段低いところを牛車が通っている様子が描かれている。また、同年発行の「東海道名所図会」の「逢坂山」の図にも類似の描写が見られる。 
都〜大津間の物資輸送に革命的ともいえる変化をもたらしたのが、文化年間に敷設された車石である。江戸の商家の番頭であった永野 孫次郎は、嘉永元(1848)年に出版した「西京独(ひとり)案内」に「日の岡を上る、牛車多し。すべて此辺 車道いふて、往来にみかげ石を横さまにならべ、二筋の道を付けるに、車の輪しせんと石に跡つきて、深さ五、六寸位のみぞとなれり」と記した4)。ここで描写されている溝のついた石が車石と呼ばれるものだ。
 心学者 脇坂 義堂5)の進言により、幕府は沿道の村役人6)らを編成し、三条大橋東詰から大津八丁までの三里に車石を敷設してこれを牛車の専用道路とした。沿道の村に残る文書7)によると、車石の整備事業が始まったのは前年の3月だったようだ。普請役2名が検分する旨の通達が村々に発せられている。普請役は、大津から京都まで現地を調査し、庄屋らに普請に必要な砂利や石の調達について質問したらしい。これに対して村々は、山科郷内に土取場はないがこれまでの街道修繕には郷内を流れる川の砂を採ってきた、石については江州木戸村に石切場があることは知っているがこれまで手掛けたことはなく値段がいくらになるかわからない、と回答している。その後、再度の検分があり、それを踏まえて工事目論見書が作成され、幕府において着工が決断されたと思われる。
 10月末に江戸表から4名の普請役が派遣され、11月7日に「丁張8)検分」が行われた。そして、9日に沿道の村々の庄屋らが大津の旅籠に招集され、工事を村請(むらうけ)9)とすることが決まった。11日には区間ごとに工事数量や歩掛を記した仕様書が示され(これを若干修正した新仕様書が22日に再提示されている)、21日には山科郷触頭10)の2名に普請請払い勘定向きや普請場所人足差配その他場所向け一件が命じられ、22日には勘定方や御普請場所見回り方などが村役人に申し渡された。あわただしく起工準備が整っていく。
 整地・砂の運搬・敷均し・突固め等の土砂方と呼ばれる作業について、11月晦日に村役人より次のような告示があった。「往還筋御普請場所を晦日正刻より入札いたし候間、御村々望みの人これ有りそうらはば、右刻限早々積合いたし萬屋 平左兵衛門方へ罷り出るべく候様に村毎に御触ならるべく候、そのためかくの如くござ候」。当時、土木工事を専門に行う者として「黒鍬(くろくわ)」と呼ばれる技術者集団が存在していたが、この工事には特殊な技術を要しないということで、入札には近郊の村の有力な百姓や大工らが多く参加したようだ。12月2日、日ノ岡村から四宮村までの9工区について入札が執行され落札者が決定した。一例として四宮村の安朱境から六地蔵道までの工区についてみると、予定価格 銀1貫124匁4分6厘のところ一番札は大宅村の弥兵衛で落札額は870匁(落札率77.3%)であった。
 一方、舗石の採取・整形・運搬・据付け等の石方と呼ばれる作業は、産地の石屋から徴した見積もりを比較する方法により受注者が決定された。石の大きさは先の仕様書により「長さ2尺2・3寸より1尺7・8寸、幅1尺5寸より8・9寸、厚さ1尺より7・8寸」と示されていたが、木戸村の石屋の見積もりは大津浜までの運送費を加えて両側1間(車石10枚相当)当たり銀46〜37匁(価格差は石の大きさによる)であった。大津浜から山科郷内の現場までの輸送は、白川村の白石屋 武右衛門らが1本につき銀2匁4分という価格をつけ、一手に引き受けた。据え付けについても同人ら6名が両側1間につき銀3匁7分5厘という見積りを提出している。
 車石の敷設は3年正月7日から始まった。8日には牛車は朝5つ時(午前8時ころ)までに通るようにとの通達が出されている。敷設作業が始まるまでの早朝に通行させようということであるが、これは車屋の反発を招き、車屋がストライキを起こすという実力行使に至った。やむなく4つ時から4つ時半(午前10時から11時)に遅らせている。普請役は、山科郷内に宿を借りて、正月や雨天日以外の毎日資材改めや工事検分にあたった。監督は厳しかったようで、左右の車石の高さがそろっていないと石方が「お叱り」を受けたり、土砂の敷均しや締固めが少ないと土砂方請負人がやり直しを命じられたり他の請負人と交替させられたりしている。また、村から監督業務を請け負った又請人が交代させられた例もある。
 こうしつつも3月中旬には工事は完了し、18日に「出来栄検分」が行われた。検分役を命ぜられたのは木村 宗右衛門。老中の配下にあって淀川の過書船や畿内の幕府領山林を統括管理する代官である。工事は無事 検分に合格し、村々に管理が引き渡された。その後、21日に村役人から普請役に「往還道造出来方帳」が提出され、
図3 仕様書から読みとれる東海道の断面構成(横木村における標準部)、単位:m
23日には江戸から遣わされた普請役が出立している。そして、工事にかかわった村々が出来方帳によって確定された普請金を授受して事業は完了した。その額は1万両(約6億円)。なお、横木村(大津市)に残っていた仕様書を、試みに断面図にしてみた(図3)。車石は1車線しかなかったので、午前は京都行き、午後は大津行きの一方通行になっていたと言う。 
石の敷設は、記録が可能な時代の事象であり、東海道という重要な道路の修築に係るものであるにも拘わらず、なぞが多い。まず、1万両の費用のうち脇坂と近江国日野の商人 中井 源左衛門らが750両を拠出したと伝えられるが、残りの大部分は誰が負担したのかも判然としない。そもそも、車石のアイデアは脇坂が自ら発案したという説のほか、膳所の城主が「雨季でも物資の輸送が円滑にいく秘策を提供したものには苗字帯刀を許す」と募集したのに応えて滋賀郷の百姓が案出したというのもある。そして、最も議論を呼んでいるのが、
図4 昭和6(1931)年の道路改修の際に発掘された車石(出典:土木学会「明治以前日本土木史(岩波書店))
石の溝が摩滅により自然についたものか人為的に形成されたものかという点である11)。 
 これについて、孫次郎は車石の表面の溝を自然についたものと理解しているが、果たしてそうであろうか。図4は、車石の敷設状況を知る貴重な資料であるが、これを見ると写真の中央付近の石列はかなり凹凸がある。このように凹凸がある石に自然にわだちがつくとすれば、それは石の隆起した箇所を避けて低いところにつくであろうが、写真では必ずしもそうなっていない。また、当時の牛車の車輪は木製で外周に金輪をはめていなかったとされており、石よりも車輪の摩耗が大きかったのではないか。 時代は異なるが、通行する牛車の数は年間15,894両ということであり、これは車屋が年間300日稼働するとすれば1日26両ほどが往復したと言うに過ぎない値だ。直感ではあるが、これだけの交通量で車輪との摩擦で石が自然に摩滅したというのはかなり過大な事象であるという印象を受ける。仮に石も多少は摩滅するとしても、これほどくっきりとした溝を作るものだろうか。自然摩滅説には疑問が残るのである。
 そこで、車石を管理する中で溝が施されたのではないかと考えてみることにした。では、車石はどのように管理されたのか。江戸時代には街道の管理は近在の村々の役割とされていた。車石の場合はどうだろう。文化2年3月18日の検分のあと、村々は次のような申し渡しを受けている。「是迄は御普請所仕切事にて候得共、是より其方共へ相渡し置き候間、以来は敷石之上へ流出候砂利随分手入れ致し(中略)毎日はきあげ候様可致」。これによると村々が命ぜられたのは敷石の清掃に限られているように見える。が、従来からも街道に不陸が生じた時には村々が土砂を足して修繕していたことを勘案すれば、「相渡し置」くとは道路管理を村で担えということではないのか。残された車石の中に図5のように複数の溝がついたものがあることは、溝がついてしまった車石を据直して再使用したものと考えられ、図6のように自然石を使ったものがあることは、当初の敷石が損傷して手近な材料で補修したこと示すものと考えられる。従って車石を管理した人がいたことは明らかであり、沿道の村がその役割を果たしたことが想像される。
図5 複数の溝のついた車石、1本の溝がついた後 向きを変えて据え直したものと考えられる 図6 チャートの自然石を使用した車石
 こんなことを考えながら歩いていたときに、ふと目にとまったのが傾斜して沈下しているインターロッキングだった。インターロッキングは、整形した路盤に均等に砂を敷いて締固め、その上にブロックを敷き並べていくものだ。車石の施工とよく似ている。締固めが不十分だと車石も沈下したのではないかと思い当り簡単な試算12)をしてみたところ、牛車の車輪が車石の端部に載ったときには沈下して傾くことを否定できないとの結果を得た。3里ある車道を通行するうちに車輪が車石の端部を通過することは稀な事象ではないと考えられ、交通量は少なくても沈下はたびたび生じたと想像される。
 車石が沈下して傾斜を生じた時、本来ならば、石を取りはずして沈下した部分に土を足した後に改めて据えなおすべきだろう。しかし、村々が無償の管理として車石の補修を行っていたとすれば、牛車の通行に支障ない範囲でより簡便な方法を採るであろうから、沈下していない個所に車輪を誘導するよう前後の石を含めて連続した溝を彫るということが行われたのではないかと筆者は考える。
 ただし、車石の溝は偶発的についたものとは考えない。文化2年3月21日に提出された出来方帳には、「有石」や「古石」が存在していたことが記されており、車石の敷設に際して深い輪形があるものは掘起し割れてしまったものは取り替えたがこれらの作業に予定外の手間がかかったという趣旨の説明がある。これは、車石の工事の以前にも部分的に敷石が設備された個所があることを指すものであって、それの中には深くえぐられた石もあったことを示しているのであろう。こういう事実が当時あらかじめ知られていたということは、車石を設置すれば当初から溝をつけておかなくとも比較的短期間で連続した溝が形成されることが予定されていたと思われるのである。
に、
図7 「花洛名勝図会」には車石の上を牛車が連なって進む様子が描かれている(国際日本文化研究センター所蔵)
車石が利用されている様子を見てみよう。図7は、元治元(1864)年に出版された「花洛名勝図会」のうち粟田口付近の様子を描いた「弓屋亭池」の一部。左に向かう牛は1頭ごとに人が引いているのに対し、車石を行く牛はそうではない13)。1人の御者が多数の牛を連ねて誘導していたのではなかろうか。車石の溝が軌道の役割を果たして牛がコースを逸脱せずに進むことが意図されていたと筆者は考えたい。先に木食養阿上人が改修した日ノ岡峠においても、上人が施した小石による舗装とは別に京津間に連続して車石が施工されていることも、車石を軌道だと考える説を補強しているように思われる。
 もし車石が軌道だとすれば、1832年にニューヨークで世界最初の馬車鉄道が営業を開始14)するより四半世紀早く、わが国に畜力を用いた軌道が存在したことになる。また、近代以降は軌道は道路を占用した事業者がもっぱら車両を走行させているが、江戸時代には一定のルールの下に一般にも開放された道路施設としての軌道が存したというのも面白い。
府がこのような牛車利用の効率化をねらって車石を整備したのかどうかは、必ずしも明らかでない。工事を請けた村には記録が残っているが、発注者側の記録が見あたらないのである。
表1 寛政・文化期における対露外交の状況
 ここで、車石が敷設された寛政・文化年間における政治情勢をなぞっておこう。表1は対露外交の概要を時の老中と併せて整理したものである。寛政年間に老中を務めていた松平 定信と本多 忠籌は、家格や年齢の違いを超えて互いに敬愛する「信友」だった。また、松平・本多に戸田 氏教らを加えたグループは、いずれも心学に傾倒しており、藩邸に講師を呼んで学習する会を持ち回りで開催していた。よって、彼らの施政方針はよく似ていたが、国防の考え方は大きく異なっており、積極的に蝦夷地に進出してロシアの南下を阻止すべきという忠籌の献策(寛政3年)は定信により退けられている(黒田源六「本多忠籌侯伝」(東洋書院)による)。定信は日本海に出没するロシア船に穏便に対応する考えであり、定信が失脚した後に老中首座に任じられた松平 信明も同じ考えを踏襲していたとされるが、その後を継いだ戸田氏教は、レザノフへの対応を見てもわかるように、ロシアの進出を脅威と捉えていた。
図8 北陸から大坂に輸送するルートが西回り航路の代替となるためには2箇所の陸路の効率化が必要だった
表2 西回り航路と従前のルートとの経費比較(単位:石)
出典:http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/
07/kenshi/T3/T3-4-01-02-04-03.htm、「寛文雑記」により作成
 ところで、江戸時代を通じて最も重要な物資は米であった。寛文12(1672)年、御用米の輸送のため、河村 瑞賢は幕府の命を受けて奥羽・北陸から関門海峡を通って瀬戸内海に入る西回り航路を開拓。輸送経費の大幅な低減に成功した。「寛文雑記」により作成した表2は、越後から米を積み出すのに、従前のルート(敦賀で陸揚げし、馬で峠を越えて湖北の港津に至り、そこから丸子船を使用した琵琶湖の水運で大津まで行き、再び陸揚げして京都を経て伏見に陸送し、さらに三十石舟に代表される舟運で淀川を下って大坂に運ぶ)を採った場合には大津に達したところで西廻り航路で大坂に直送するコストを超えてしまうことを示している。
 もしロシア船により西回り航路が危険にさらされ従前のルートをとらざるを得なくなる事態になれば、米を始めとする諸物価が高騰し政情不安を招くだろう。これを避けるためには従前のルートにおける輸送コストの低減が必要となる。表2からはとりわけコストがかかる陸運についてその効率化が課題であることが読みとれ、事実、文化13(1816)年には敦賀〜疋田間に「疋田舟川」15)が開削され、陸運を水運に転換することにより輸送コストを下げるという抜本的対応が見られるのである。大津〜京都間の東海道に敷設された車石も、このような国際情勢のもとでの陸運の効率化という文脈の中で理解したい。
 ロシアを危険視していた戸田は文化3年に没し、次の老中首座には松平 信明が返り咲いた。この事態を見て、戸田の指導で車石を推進した幕吏たちは青くなったに違いない。ロシアの脅威を前提として車石の必要を説く稟議書を彼に見咎められればどんなことになるやも知れないと恐れて彼らは密かに文書を葬った、だから車石が敷設に至った経緯・理由や利害得失について審議・吟味した記録が幕府に全く残されていないのだと推理してみるのはどうだろう。
 また、前掲書には、寛政2年12月に皇居の焼失に逢った天皇が翌年に仮住まいから還幸された際に、ご祝儀献上のために本多が使者を遣わしていることも記されている。関東・東北地方の心学は、手島 堵庵の命を受けた高弟 中澤 道二が江戸に下って普及させたものであったから、使者を上洛させる機会に堵庵の後を継ぐ脇坂 義堂に挨拶に向かわせたことは十分に想像の範囲内にある。こうして本多の考えが脇坂に伝わったのではなかろうか。脇坂の建議により車石が実現したというのが史実だとすれば、脇坂と車石の接点はここにあるように思える。ここにおいて脇坂の果たした役割は、知識人からの提言を受けたとすることにより幕府が自らの意図を明らかにせぬまま事業を起こすことにあったと捉えることができるのではないか。
もあれ、車石によって京都への物資の搬入は著しく効率化され、商都としての上方の繁栄を支えたのである。その車石も、明治8(1875)年から10年にかけて日ノ岡峠を3.5mほど切り下げる改修工事でかなりが撤去され、替わりにマカダム舗装16)が施された。また、昭和6(1931)年から始まった改良工事でも逢坂山で車石が多数 出土した。これらの工事で掘り出された車石は、側溝の蓋や擁壁などに転用されたほかそのまま野積みされて希望者は自由に持ち去ってよいことになっていたようで、現在は周辺の民家や店舗に散在しているのを見ることができる。また、山科区の多くの学校に保存されているほか、片岡庄兵衛宅址、蝉丸神社、JR大津駅前、大津市歴史博物館などに復元展示
図9 大津市歴史博物館に復元されている車石
されている。
 車石は京都〜大津間の東海道のほか、京都と伏見を結ぶ竹田街道や鳥羽に通ずる鳥羽街道にもあり(いずれも幕府から牛車の通行が認められていた)、南区の陶化小学校・東和小学校・上鳥羽小学校、伏見区の下鳥羽小学校・桃稜中学校・桃山高校などにも保存されている。これらについては東海道の車石以上に史料に乏しい。
 また、本稿では牛車による物資輸送を取り上げたが、明治9年に横木村に掲出された高札17)からは、車に人を乗せる輸送形態も存在したことが示唆される。
@日岡峠人馬道碑 A修路碑 B車石の擁壁 C車石の銘板
木食養阿上人が設置したもの。もとは亀の水不動尊の付近にあった。 明治10年の改修を記念する碑。峠を約3.5m切り下げたことを伝える。 車石を転用した擁壁が200m近くも続いている。 「旧舗石 車石」と刻まれた銘板が擁壁に埋め込まれている。
D車石広場 E京津国道改良碑 F名号碑 G亀の水不動尊
京津線の跡地に作られた、車石では一番新しいモニュメント。 昭和8年の国道改修記念碑。車石が台座に用いられている。 木食養阿上人が供養のために建立。明治期に中央で切断された。 木食養阿上人が旅人に湯茶を供するために設けた「量救水」。

H閑栖寺I片岡庄兵衛宅址J蝉丸神社 K逢坂常夜燈 L片原自治会館
旧東海道に面する閑栖寺の門前に保存されている車石と説明板。 片岡庄兵衛は「大津算盤の祖」。車石と牛車の車輪が展示されている。 神社の前の「車石復元公園」。 逢坂山にある常夜燈のひとつ。根元が車石で囲われている。 逢坂山にほど近い片原自治会館前の公園に展示。
MJR大津駅前
ロータリークラブが設置。鈴木靖将氏の絵が添えられている。
図10 日ノ岡峠と逢坂山における道路改修関係の遺構など(緑線は江戸時代の東海道を示す)
(2010.02.09) (2017.05.24)

(参考文献)
1. 樋爪 修「京津間の車石敷設工事」(「大津市歴史博物館研究紀要1」所収)
2. 久保 孝「文化年間三条街道車石敷設工事」(車石・車道研究会「車石・車道に魅せられて−物流革命・歩車分離のさきがけ」所収)

 1) 類似の例として、中山道垂井宿では手押し台車の使用が認められている。

 
2) 元禄年間(1688〜1704)に大津で活躍した俳人 智月尼に「あふ坂や花の梢の車道」という句があることから、この頃にはすでに逢坂山では車道と人馬道が分離されていたと思われる。

 
3) 工法の概要は参考文献1による。土木学会「明治以前日本土木史」は、工事延長300間、平均勾配20分の1と記している。なお、日ノ岡峠の東麓にある「ホッパラ町」の地名は、この時に土を置いた「放土原」が転訛したという説がある。

 
4) 駒 敏郎ほか「史料京都見聞記 第3巻」(法蔵館)所収。

 
5) 脇坂 義堂は京都に生まれ、手島 堵庵(てじまとあん)の門に入って心学を究めた。幼少時に父に連れられて大津に行った時に雨後の泥濘に足を取られる老婆を見て、東海道を改修したいとの思いを持っていたと伝えられる。「あつめ草」、「思徳教」などの著書がある。なお、心学は石田 梅岩が創始した庶民のための生活哲学で、正直を最大の徳と説き、営利活動を肯定的に認めたことから、経済的発展にふさわしい道徳観を求めていた京都や近江の商人を中心に広まっていた。

 
6) 農民の身分で村の行政を担当する者の総称。庄屋、年寄、百姓代の3役を指すことが多い。

 
7) 以下、車石の普請に関する記述は、参考文献2において比留田家に伝わる「東海道大津宿より三条大橋迄之間御普請御入用を以道造村請ニ被仰付御触仕様帳請書並日々日記覚」という冊子を研究された成果を引用している。

 
8)丁張とは、1間(約1.8m)ごとに水杭を立てその間を水貫と呼ばれる水平な板でつなぐ作業。水準測量に相当。

 
9) 村が発注事務や工事監督などの業務を請け負うこと。

10) 京都町奉行所からの触書の伝達や村々からの訴状・願書の取次等を行う職で、比留田家と土橋家が世襲した。

11) 一部には新設時に溝を施工したと推定する意見も見受けるが、仕様書には軌間の定めを含めて溝の施工に関する記述が一切無く、歩掛においても考慮されていない(土木学会「明治以前日本土木史」では、断定を避けながらも「按ずるに、其工事歩掛は石工1人手傳人夫半人を以て、車石15枚宛を施工することになり居れば、到底かゝる工作の行われ得べくもあらず」としている)ことから、その可能性は考え難い。また、文書にも、石材の納入者は記録されているが、加工者の記録は無いようだ。

12) 牛車が車石の上に乗ったときの車石の沈下の可能性を大雑把に見当を付けよう。施工時の路盤の締固めに、(A)のような蛸胴突きを地上0.5mの高さから1.5g(gは重力加速度9.8m/秒2)で突き落とし、それが地面に衝突して0.01秒で停止したとすると、蛸胴突きの衝撃力は195.4kN/m2になり、この力で路盤が締固められたと考える。一方、300kgの車台に60kgの米俵9俵を積んでいたとされる牛車の片輪(荷重を4.2kNとする)が幅0.6mの車石に静的に載荷された場合、載荷点が車石の中央であった場合(B-1)では地盤反力は(A)に比べて全く小さい値で問題ないが、端部近くであった場合(B-2)では(A)に近い値の反力が生じて車石が沈下する可能性があることが示唆される。

13) 「花洛名勝図会」のうち「白川橋」や「良恩寺」にも三条通の様子が描かれているが、いずれも車石を進む牛車は人に引かれていない。

14) アメリカでは乗合馬車の運行が増えるに伴って道路の損壊が問題となり、その解決策として軌道に馬車を載せた。ニューヨークのあと、ニューオリンズ(1834年)、ボストン(1856年)、フィラデルフィア・シカゴ・セントルイス・シンシナティ(1859年)と急速に広まったが、輸送力に限界があるのと飼料や屎尿の処理、良馬の不足などから路面電車に置き換わっていった。ちなみにわが国の馬車鉄道は明治15(1882)年に東京馬車鉄道が新橋〜日本橋間を開業したのが最初。レールも車両もニューヨークからのお下がりだったという(写真は、日本国有鉄道「日本国有鉄道百年写真史」(交通協力会))。

15) 別稿「疋田舟川」を参照されたい。

16) マカダム舗装については、「生野銀山を支えた産業道路、「銀の馬車道」」の稿を参照されたい。

17) 参考文献1によると、「人乗車を除くの外、諸荷車は車道通行致すべき旨、しばしばあい達し置き候ところ、往々人道を通行いたす荷車これ有る之趣あい聞く、以ての外の事に候。右は道路を毀損するのみならず、行人の困難も少なからずに付、向後人乗車の他は決て人道通車あい成らぬ候事。」という高札が横木村に掲出されていたという。筆者はこの文面から、車両に人を乗せて輸送する形態が存在し(これは人道の通行を認められていた)ていたと解する。