わ ん ど

河川整備の副産物に与えられた今日的意味

城北地区のわんどの風景、水制に囲まれた水域に貴重な生物が生息している
 「わんど」とは、河川のうちでも構造物に囲まれて入り江や澱みのようになった部分のこと。淀川の城北地区や八雲地区に広がるわんど群は、河川整備の副産物ともいうべきものであるが、「日本の自然100選」にも選定されるほど、希少生物にとって重要な生育環境を提供している。


都に都がおかれたときから淀川は西国への重要な交通路であった。しかし、その頃の淀川はいたるところに土砂が堆積していたようで、紀 貫之は土佐から京都への帰路に淀川を舟で上った時に浅瀬で難渋したことを記している。交通路としての淀川を整備したのは秀吉だ。伏見城下に港をおき、伏見から淀までの右岸には淀堤、枚方から下流の左岸には文禄堤を築いて舟運の便を図った。
 徳川氏の世になると、大坂は天下の台所と呼ばれるほど諸国の物産が集まるようになった。東国からの物産は琵琶湖を経て大津から陸路 伏見に向かい、そこから舟で大阪に運ばれた。幕府は慶長8(1603)年に過書奉行をおいて淀川の舟運を采配し、許可を与えられた過書船が独占的に営業していた。高名な「三十石舟」などがそれである。
 三十石舟は、もともとは大阪で艀(はしけ)として用いられていた平底の舟であって、淀川を航行していたのは20石の「淀船」1)が中心であったが、秀吉が伏見を建設した天正年間(1573〜1593)に淀川に進出するようになった。長さ約17m、幅約2.5mで、定員は乗客が28名と4名の船頭。夜中に伏見を出ると早朝に大阪に着いた(上りは人が綱で牽引したので1日がかりだった)。最盛期には1日1,500人の旅客と800tの貨物を運んだと記録されている2)。 ただし、旅行者が舟を使うのはは、伏見から大阪に下るときに限られた。
図1 淀川に就航した蒸気船の模型 (出典:交通科学博物館HP(http://
www.mtmor.jp/museumreport/
kyo_naniwa_01))
 明治に入ってわが国は文明開化を迎える。明治3(1870)年、淀川汽船は淀川に「澱江丸」という蒸気船を就航させた。両側についた水車のような羽根車を蒸気で回転させて航行するもので、9年に京都〜大阪間に鉄道が敷設されても衰えず、「陸(おか)蒸気」と呼ばれた鉄道に対してこちらは「川蒸気」と呼ばれた。このあおりを受けて、三十石舟はまもなく姿を消している。蒸気船は曳舟業も営みつつ大阪〜伏見間を往復し、貨物輸送に大いに貢献した。また、28年に京都駅の南から伏見まで京都電気鉄道(後に京都市電に編入)が開通すると、蒸気船との連絡切符を鉄道より安く売り出して京阪間の客を集めた。
図2 淀川に設けられた水制の例(出典:淀川河川事務所のHP(http://www.yodogawa.
kkr.mlit.go.jp/know/nature/wando/index.html))、水制で囲まれたところがわんどになった
 蒸気船が淀川を通行するためには河川改修が必要だった。そのため、オランダから招聘したデ・レーケ3)らの外国人技師に改修計画を策定させている。蒸気船のためには1.5mの水深が必要であり、航行の便を考えると流速を緩やかにする必要もあった。そのため常に水が流れる部分(低水路)を設け、それを蛇行させるようにした。そして、曲がった箇所は水勢を受けやすいので、これを緩和するためケレップという水制4)を設けた。水制は岸から直角に突き出た形をしており、小枝や蔓草を使って大きなマットのようなものを作ってこれを重ねて大きな石で川底に沈めた(「粗朶(そだ)沈床工」と呼ぶ)。これにより水勢が減殺されて、水は穏やかに曲がって流れるのであった。


図3 「北陸粗朶業振興組合」による粗朶沈床の作成の様子、下格子を組み立て(左) 粗朶を敷き込み(中) 上格子を組み立て結束し(右)石を積んで水に沈め杭を打って定着させる (出典:上林好之「日本の川を甦らせた技師デ・レイケ」(草思社))
 
治43(1910)年 京街道に沿って京阪電車が開通すると、蒸気船は競争に負けてたちまちのうちに衰退してしまった5)。しかし、水制のうちいくつかはそのまま残り、長年の間に水制に囲まれたところに土砂が溜まるようになった。そしてその上に湿地を好む草木が繁茂しだした。これが現在のわんどの原形なのである。
 わんどは水の流れが少ないため、川とは異なる生物が生息しやすく、堆砂や水際の植物は産卵や稚魚の成育にも好都合だった。今では、他では見られない貴重な生物のすみかとなっている。昭和49(1974)年に天然記念物に指定され、平成7(1995)年には国内希少野生動植物種に指定されているイタセンパラは、わが国の気候に適応して
図4 絶滅が危惧されるイタセンパラ(左)とアユモドキ(出典:大阪府水生生物センターHP(http://www.kannousuiken-osaka.or.jp/biodiv/))
わが国にしかいない固有種で、淀川のわんどのほかには濃尾平野と富山平野で見られるのみである。また、昭和52年に天然記念物に指定されたアユモドキは、淀川と岡山県のみに分布する魚で、河川の増水や水田の潅漑によって一時的に閉じる水域で産卵する特徴をもつ。いずれもブラックバスなどの外来魚の侵入により近年は激減し、環境省レッドリスト絶滅危惧TA類、大阪府レッドリスト絶滅危惧T類に指定されている。ほかにも、イチモンジタナゴやゴクラクハゼなど淀川でしか見られない淡水生物がいくつかある。
気船の廃航の後は河川整備の目標は疎通能力の強化に傾斜し、昭和40(1965)年の台風による洪水を契機に、建設省はデ・レーケらによって作られた低水路を幅110mから200mに広げる改修を計画し、淀川に500個ほどもあったとされるわんどは1割以下に減少した。しかし、平成9(1997)年の河川法改正には環境の重視が盛り込まれ、淀川でも城北わんど群の手入れやわんどの復元など自然回復の施策が着実に打たれている。他の河川においても、生物多様性をもたらす要素のひとつとして、わんどを意図的に整備する例も見られる。
(2010.01.25) (2010.04.02)
                                                            

1) 淀宿を拠点とした水運業組織で、二十石舟とも呼ばれる。納所や水垂(いずれも現在の伏見区)でおよそ500艘を有して、淀川・桂川・木津川・神崎川などで明治初期まで活躍した。

2) http://www.mtm.or.jp/museumreport/kyo_naniwa_01/page03.htmlによる。

3) デ・レーケを始めとするオランダ人技師については、「不動川砂防堰堤」の稿に詳しい。

4) 水制については、幕府の命により河川工法を集大成した「堰堤秘書」にも収められており、岸から一直線に突出すものを「丁出し」、先端が折れたものを「鎌出し」、さらに流下方向に伸ばしたものを「鍵出し」と呼び、これを構成する材料により「土出し」、「石出し」、「籠出し」、「杭出し」などと呼んだことが「明治前日本土木史(日本学士院編、(財)野間科学医学研究資料室発行)」に紹介されている。デ・レーケらが伝えたケレップ水制はわが国で伝承されていた技術に比べ、水の当たりはやわらかく流れに対する抵抗が強く、効果的であったといわれる。なお、「ケレップ」とはオランダ語でマット状の水制を表す「krib」のこと。

5) 淀川では、汽船が小舟を曳航する姿が昭和37年まで見られたが、トラック輸送に押されて廃業したという。