有馬鉄道

北神地域に敷かれた2本の鉄道のその後

低い築堤で走っていた二郎(にろ)付近の有馬鉄道
 三田から神戸に向かう神戸電鉄にほぼ並行して三田から有馬に向かう鉄道があった。これが有馬鉄道だ。この2本の鉄道を敷いたのは同じ人物である。自力で北神地域の振興を図ろうと燃やし続けた情熱の結果だ。今回は廃線になった有馬鉄道に注目してその跡を歩いてみた。

神地域の開発について語るとき、山脇 延吉(明治8(1875)〜昭和16(1941)年)を忘れることはできない。有馬郡道場村の大地主で道場銀行を経営する山脇家の嫡男に生まれ、
図1 有馬鉄道の位置(黄線)を現在の地形図におとしたもの
官僚を目指して東大で土木工学を学んでいたが、父の急逝を受けて中退して帰郷。亡父の県会議員の職や家業の銀行経営を継ぐ傍ら地元の振興に心血を注ぎ、専門知識を駆使して有馬郡の治山治水にも努力した。兵庫県会議長や兵庫県農会長や帝国農会副会長も歴任した。特筆すべきは、昭和恐慌で農民が苦しんだ時、政府に意見書を出して談判し、救済費の計上と経済厚生部の新設を実施させ、手弁当で全国の農村を回って演説をし、農民の先頭に立って「自力更生運動」の浸透をはかり、農村の振興に一身を捧げたことである(山脇延吉の「頌徳碑」より)。
地では、明治32年に阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)が尼崎〜福知山を全通させていただけで、41年に宝塚〜有馬の工事を申請した箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が工事の困難性から敷設権を放棄するなど、民間の鉄道構想は いずれも頓挫していた。かねてから北神の発展のためには三田・道場・有馬・神戸を結ぶ鉄道が必要だと痛感していた山脇は、自ら鉄道事業にのり出すことを決意した。神戸まで行くには急峻な六甲山を越えなくてはならない。当面は三田〜有馬に鉄道を敷設しようと、大正2(1913)年11月、山脇(当時は兵庫県議会議長だった)は後に大蔵大臣になる片岡 直温1)らと有馬鉄道会社を創設し社長に就任。延長12.2kmの有馬鉄道が4年4月に竣工した。完成と同時に「神戸に延伸する」という理由で鉄道院が借り上げ、国鉄と同様の運営が行われ、4年後には正式に国有化されて国鉄有馬線となった。
 当時、裏六甲の一帯は全く未開な地域で、六甲山による隔離を克服して神戸と結ばれたいとの思いはきわめて強かった。ところが、国鉄には延伸の動きが見えない。大正11年 山脇は神戸〜有馬温泉間の鉄道も自分が敷設するしかないと覚悟を決め、たいへんな努力をもって神戸有馬電気鉄道(現在の神戸電鉄、以下 「神有電車」と呼ぶ)を創立し、昭和2(1927)年に建設に着手した。折からの金融恐慌のために資金調達が難航し、山脇は家業の道場銀行が閉鎖する憂き目にもめげず私財を投じて建設事業の遂行に情熱を傾けた。着工後も技術的困難が続出。さらに、国鉄が有馬線の増発に難色を示したために別途 三田まで独自に路線を新設するしかないと判断。こういう訳で工期・事業費とも大幅な誤算続きだったが、3年12月に湊川〜三田間が開通した。
 さて、神有電車というライバルを持った有馬線は、非電化であったために、三田〜有馬間の所要時間は途中で乗換えを要する神有電車と変わらず、約2時間に1本という運行頻度で、不利な競争にならざるを得なかった。そこに太平洋戦争の勃発で、昭和18(1943)年、有馬線は、神有電車と並行していることや観光地への行楽路線であることから不要不急路線として運行休止。レールなどは、製鉄用マンガンの輸送などを目的に計画された篠山線2)に転用された。
図2 有馬駅に向かっていた乙倉橋、背後に見える高架橋は建設中の有馬山口線バイパス
馬温泉駅から県道有馬山口線を北へ5分ほど歩くと有馬川の対岸に病院が見えてくる。ここがかつての有馬鉄道の終点 有馬駅の跡だ。駅へのアクセスとなっていた乙倉橋は、同時に温泉街の玄関でもあって、その装飾的なデザインは地域の鉄道への期待を伺うに充分である。現在は有馬鉄道のモニュメントが高欄に設置されている。病院から北に向けて進むと、線路の跡は住宅や駐車場になっているが、やがて有馬山口線バイパスの工事用進入路により塞がれてしまう。しかたがないので有馬山口線に戻り、これを北上する。バイパスは徐々に縦断を下げてきて、土工が主体になってくる。このあたりから阪神高速7号神戸線山口南ランプあたりまでのバイパスは有馬鉄道の跡地を通ることになっている。鉄道の遺構がどうなっているか気がかりで自然と足が進む。
図3 バイパス建設前の十八丁川橋梁の橋脚(左、2009年11月撮影)と建設後の姿(右)
 有馬鉄道は、十八丁川が有馬川に注ぐ付近で渡河していたが、その橋梁の下部工を求めて中野バス停付近から東に入った。目的の下部工は残ってはいたが、バイパスの桁の下に隠れるように立っていた。右岸側の橋台もバイパスのための盛土で埋もれてしまっていた。
 再び迂回する。7号北神戸線の西宮山口南ランプが都市計画道路山口南幹線に取り
図4 西宮山口南ランプ付近の整備された地先道路は有馬鉄道の跡地
付いているが、有馬鉄道はこの近くを通っていた。南に坂をのぼる地道は、ランプがループを描くあたりで有馬鉄道跡地につながっている。
 歩道橋でランプを横断して入路の脇の階段を上がると、整備された道路が現れる。これが有馬鉄道の跡だ。北神戸線から中国道の間の有馬鉄道沿線は市街化が進んでいるが、宅地造成に当たって鉄道跡地が道路に転用されたため、往時の趣は残っていないものの、ルートはよく保存されている。やがてルートは山口中学校の横を通って有馬川を左岸に渡るが、ここの橋台も容易に見つけることができる。まもなく公智神社にさしかかる。この北側あたりに有馬口駅があったようだが、その前の小川に斜めにかかる橋は「駅前橋」のままだ。
 有馬鉄道は、西宮北インター付近でちょっとした丘陵を越えて有野川に沿った低地に移っていたが、インターにより地形は大きく改変されており、痕跡を見ることはできな
図5 有馬川を渡っていた有馬鉄道の右岸側橋台 図6 有馬口駅があった近くの橋は今も駅前橋と呼ばれる 図7 二郎付近の有馬鉄道跡地
い。迂回して県道神戸三田線を行くことにする。すると、中国道をくぐってすぐに右手に築堤が現れ(標題の写真)、徐々に高さを減じて地表にすりついていく。線路跡は地元の人が通路として利用しているようだったが、傍らに「旧国鉄用地 立入禁止」と記した札が転がっていたので、通行は遠慮することにした。
 さらに北に進むと、道場の市街地が見えてくる。市街地の西にかつては新道場駅があった。この付近も有馬鉄道の跡地は通路に転用されている。これを北に辿ると有野川でとぎれるが、ここにも橋台が残されている。対岸に回ると、
図8 新道場駅の跡地付近も通路に転用されている 図9 有野川の右岸に橋台が残っている 図10 神鉄道場駅の東にある掘割は有馬鉄道の跡
そこは少し小高くなっていて有馬鉄道はここを掘割で通っていた。すぐそばに神鉄道場駅がある。掘割を跨ぐ橋には有馬鉄道の案内板があった。
図11 神鉄道場駅に隣接して立つ山脇 延吉の頌徳碑
鉄道場駅は鹿の子台団地の最寄り駅であるので乗降客が多いようで、橋上駅舎に改良されていた。駅の北西には、団地を背に山脇 延吉の頌徳碑が立っている。鹿の子台に限らず、北神地域では大規模な住宅開発が相次ぎ、人口も分区当初(昭和48年6月)の117,000人から現在では226,000人と倍増した。このような発展を彼はどう見るであろうか。有馬鉄道こそ廃線の憂き目にあったと言え、彼の尽力を想う地元の人の手により、頌徳碑は今日もゆきとどいた手入れがされているのである。


                                           
(2009.12.04)(2012.12.04)
 


1) 安政6(1859)年に土佐に生まれ、小学校教員などを経て上京し、伊藤 博文の知己を得て内務省に入省。明治22(1889)年に官僚を辞して日本生命・都ホテルなどの社長を務めた。また、政界にも進出して26年に衆議院議員に選出。商工大臣・大蔵大臣を務 めた。彼の失言から昭和金融恐慌(昭和2(1927)年)を引き起こしたことで有名。

2) 福知山線篠山口から福住まで17.6kmを結んでいた路線で、昭和19(1944)年に開通し、47(1972)年に廃止。本明谷鉱山で産出されるマンガンの輸送と、山陰本線・福知山線の連絡路線として篠山口〜園部間が計画されたが、福住まで開通の翌年に終戦を迎え、残余の区間は中止された。詳しくは、「篠山鉄道・国鉄篠山線」の稿を参照されたい。