お う ご
淡河川・山田川疏水

農民の発願で実現した1,560haもの水田開発

上流側から見た御坂サイホンの側景、石橋の中を錬鉄管が通っていた
 琵琶湖疏水、安積疏水などと並んでわが国有数の疏水である淡河川・山田川疏水は、これだけ大規模なものであるにも拘わらず、行政の主導ではなく、住民の発願により地元負担で起工された事業である。それだけに、完成から100年以上たった今も疏水にかける地元の想いは熱い。





古郡稲美町を中心とする印南野(いなみの)台地は、水の得にくい高燥なところである。ため池を頼りにわずかな米作を行っていたが、明治9(1876)年の地租改正により税額が2〜5倍になると、米作に転換する他はないと農民らは考え、そのために疏水をひいてため池に貯留することを決意した。11年9月、野寺村の魚住 完治らが申請した山田川疏水の測量に県の許可が下りた。山田川の非利水期に取水し既に作られているため池に貯留して潅漑しようという計画で、費用の全額を農民が負担することとしていた。13年3月には関係する6村(印南新村・蛸草新村・野寺村・野谷新村・草谷村・下草谷村)から「水路開通之義願」を、12月には「水利掘割之儀御伺」を県に提出したが、意外にも県に却下されてしまい、14年4月に再び「山田川新水路開通之義ニ付再請願」を請願したにもかかわらず、官吏に握りつぶされて県令には届かなかった。しかし、12月に品川農商務大輔が6村を視察する機会があり、農民らはそれまでの経過や窮状を詳細に述べ疏水事業への理解を得るように努めた。これが功を奏したようで、16年1月には県の土木課長らが水源までを巡視・実測し、7月には松方大蔵卿と西郷農商務卿が相次いで視察するなど国からも注目されるところとなった。
 19年には6村に加えて15村が加盟して「印南新村外20か村水利組合」が設立され、国から水利土工費4万5,000円の無利子借入れ、県による直轄施工を願い出て、国費の借用と疏水幹線に限り県の施工が許可された。県令は国に技師の派遣を要請した。田辺 儀三郎が派遣されて県の技師らと現地を踏査したところ、山田川から取水する案は工事が困難であるから淡河川からの取水を検討することを提案したため、県は粕谷 素直に命じて両案を比較検討した結果、水源を淡河川に変更することに決定した。すなわち、神戸市北区淡河町木津で取水し、三木市志染(しじみ)町御坂(みさか)で志染川を横断して神戸市西区神出(かんで)町紫合(ゆうだ)に設ける練部屋(ねりべや)分水所で分水して印南野の各地に送水するルートである。幹線約20kmのうち5.2kmがトンネルで、なかでも志染町窟屋(いわや)から緑が丘町に至る芥子(けし)山隧道(682m)は軟弱地盤と湧水に悩まされ、1昼夜の推進がわずか60cmという難工事だったという。24年4月11日に念願の通水。水は平均勾配1/5,000の水路を5日かけて流れ16日に練部屋分水所に到達した。取水量は年間570万t、潅漑面積は1,170haに及んだ。ところが農民の喜びもつかの間、25年7月の大雨で隧道が陥没するなどの被害を受け通水できなくなったが、代議士になっていた魚住が奔走して災害復旧費を国から支弁することに成功し、27年に復旧工事は完了した。
 淡河川疏水により印南野台地の約710haが水田化されたが、新たに神出・岩岡方面の約850haを開墾しようとの構想が持ち上がった。以前は断念した山田川疏水を再び実現させようと、神戸市北区山田町西下で年間1,000万tを取水して淡河川疏水の宮の谷池(三木市緑が丘町)まで導く延長11kmの計画がたてられ、44年に着工し大正4(1915)年に竣工した。これを山田川疏水と呼ぶ。
 印南野台地は周縁部は古くから用水が引かれていたものの、台地の中央部は淡河川・山田川疏水によって初めて潅漑されることになったのである。
図1 淡河川・山田川疏水の整備により初めて印南野台地の全域が潅漑された(出典:兵庫県企画部「SUITE:ひょうご水の文化誌」)

図4 一気に山を駆け下りるサイホンの管路
て、淡河川疏水で最も著名な構造物は、御坂(みさか)で志染川を渡る「御坂サイホン」である。表題の写真がそれで、設計にはわが国の近代水道を指導したH.S.パーマー1)がかかわった。幅57mの志染川を2径間のアーチ橋で渡り、そこに錬鉄製の管を通した。
図2 御坂サイホンと付近の水路の水頭差 図3 新旧のサイホンの橋は道路に なっているが、旧橋の部分は規制さ れている
長大橋になるのを避けるため水頭差56mのサイホンとしたのだが、当時の人にはサイホンの原理が理解できず、県の技術者が水利組合の代表者を熱心に説得して実現にこぎ着けたと伝えられている。また、錬鉄管はイギリスから輸入したが、これについても石製や木製の管を主張する人もいて説得に時間がかかったと言われている。パーマーは管の直径を81cm、86cm、91cmの3種類とし、入れ子にして船積みすることにより輸送費の低減を図った。
 疏水は潅漑に供せられているため、たえず維持・補修が行われている。管の腐食のためコンクリート被覆などの補修を
図5 保存されている錬鉄管
行ったほか、昭和28(1953)年には日本製の鋼管を入れた鉄筋コンクリート橋を併設した。標題の写真で、表面をモルタル処理した石橋の奥に増設されたコンクリート橋がある。また、平成4(1992)年には国営事業にて露出部分の管は交換、埋設部分は旧管内への新管挿入を行っている。よって、現在の管は3代目ということになる。初代の管は淡河川・山田川土地改良区事務所に保存されている。
 もうひとつ著名な構造物として練部屋分水所が挙げられる。写真ではわかりにくいので図7で説明すると、幹線水路(A)を流れてきた水がサイホン(B)を通って中央から湧き出し、水槽(C)を越流して取水槽(D)から分水路(E)に向かう。Dが各分水路の取水権に応じて中心角が設定されており、自ずと権利に応じた取水ができるようになっているのである。もしこれがないと、利水権者は
図6 上流側から見た練部屋分水所、背後には2基の記念碑 図7 分水工のしくみ
その割合に応じた時間だけ堰や樋を操作して取水することになり、不正に取水して争いのもととなることも過去にはあったのであるが、かかる技術は農村のコミュニティづくりに大いに寄与したものと筆者は評価する。
た、
図8 岡流(りゅう)2)を渡る掌中橋、写真の左手が公園として整備されている
練部屋分水所から各地のため池に導水する水路にも、土木遺産と言うべき構造物が保存されている。そのうち2つをご紹介しよう。まず、稲美町印南にある「掌中(てなか)橋」(N: 34゚44'53"、E:134゚57'01")は、淡河川・山田川疏水の守安支線に大正3(1914)年に作られた水路橋である。石造アーチにレンガを組み合わせた形式で、橋長5.3m、幅員0.6m。親柱には工事請負人や石工の名前が刻印されている。平成10年度に圃場整備事業で水路が暗渠化されて役割を失ったが、地元の人の熱意で保存が決定。周囲が公園に整備され、説明板が設置されている。本来は中場池に向かって南流していたが、今は逆に流れて公園の維持用水を供給している。稲美町では播州葡萄園3)跡から掌中橋周辺を巡る遊歩道を計画し、農業の発展に尽くした先人を顕彰しようとしているそうだ。
 もう1つは、加古川市野口水足で寛文4(1664)年に開削された高堀溝を跨いでいた平木橋。大正4年に作られ、平木池(昭和41年に埋立て)に水を送っていたが、
図9 移設された平木橋、背後に建設中の東播磨南北道路が見える
余りにも最下流であったために機能を発揮することができず、水路の盛土は撤去されて橋の存在も看過されていた。ところが、東播磨南北道路の環境影響評価の中で適切な処置が提案されて注目を浴び、地元関係者と協議して、平成21(2009)年3月、もとの位置から約1km西の「前の池」(N:34゚45'53"、E:134゚51'42")に移設された。橋長16.2m、幅員1.2m。片方の銘板が英語で「HIRAKI AQUEDUCT/ BUILD SEPT 1915」と刻印されているというのがおもしろい。
          
(参考文献) いなみ野ため池ミュージアム「淡河川・山田川疏水プロジェクト」(http://www. inamino-tameike-museum.
com/pdf/08_10/004.pdf?)  
(2009.11.11)(2018.01.07)

1) パーマーについては「五本松堰堤」の稿を参照されたい。

2) 当地のことばで、特段の水源を持たない台地上の小規模な水路を川と区別して「流」と呼ぶ。

3) 政府の勧農政策により明治13(1880)年に稲美町に開かれた国営のワイナリー。ぶどう畑だけでなく醸造所や蒸留設備を備えた本格的なものだったが、害虫に侵され壊滅的な打撃を受けた。その後、疏水による水田化が進んだことから閉園を余儀なくされた。播州でのぶどう栽培はこのように失敗に終わったが、そのノウハウは岡山から視察に来た人たちによってその地に伝えられている。