神戸臨港線

コンテナ化への対応に遅れをとった鉄道貨物

神戸臨港線が国道2号を横断していた春日野架道橋
 鉄道が港湾と密接な関連のもとに整備されてきたこと、その一例として初期の神戸駅をすでにご紹介した。今回はその続編として、神戸港の拡張に伴って鉄道が埠頭や桟橋に分岐線を伸ばしていった神戸臨港線をとりあげ、その盛衰の歴史を辿ってみたい。





戸において最初の臨港線と言うべきものは山陽鉄道の和田岬線ではなかろうか。これはそもそもは明治22(1889)年の山陽鉄道の建設に際して資材を海から揚げるための工事線であったが、一定の需要が見込まれたのであろう、完成後も撤去されずに営業線として残された。26年には兵庫倉庫、38年には神戸三菱造船所が立地し、それぞれ工場まで鉄道を引込んでいる。
 臨港線が本格的に整備され始めるのは40年。この年、神戸港は横浜・門司・下関・敦賀と並んで第1種重要港湾に指定され、国費でもってこれを近代的な港湾に整備することが定められた。そして、埋立てにより埠頭・桟橋を造り、そこに移動式クレーンのような大規模な荷役設備や倉庫を設けて、艀(はしけ)や人力によらずに直接に荷揚げし、併せて 鉄道を引き込んで貨物列車でもって国内各地に輸送することが計画された。日清戦争後、神戸港の貿易額は全国の42%を占めるまでに拡大しており、神戸港の修築は焦眉の課題だったのである。では、以下、図1に従って神戸港と臨港線の整備について見ていこう。
 神戸港の発展はメリケン波止場から東において著しかった。大蔵省はすでに39年に築港計画を策定し「臨時建築部神戸支部」を小野浜に開設しており、翌年、京橋付近で第1期修築工事が着手された。起工を記念して市章山に市章の植林を行うなど、この着工は市民挙げての慶事とされた。同時に、国鉄は灘(大正6(1917)年に旅客駅の灘が開設されたことに伴い東灘に改称)から分岐して、突堤群の首根っこに当たる小野浜までの貨物線を40年に開業した。将来の市街化を想定して盛土で建設されている。なお、旧生田川左岸の小野浜は、早くも明治6年に加納 宗七1)により「加納湾」と呼ばれる舟溜まりが作られ、11年にはキルビー商会が造船所を開設していたところでもある(17年に海軍省主船局により両者が買収されて小野浜造船所になった。わが国初の鋼製軍艦「大和」が建造されたことで知られる)。また、神戸桟橋会社により最初の外国船用の桟橋も17年に設けられていた。

 図1 神戸港の発展に合わせて拡張されてきた臨港線、鉄道に付した数字は当該区間の運用期間

図2 現在のQ2上屋がかつての神戸港(こうべみなと)駅 図3 往時の面影を残す建物の内部、最近までみなと総局が使用していた
 第1期の修築工事は大正11(1992)年に完成した。現在の新港第4突堤(西)から第1突堤がそれである。そして13年にはそれぞれの突堤に小野浜から貨物線が延長された。このうち、第4突堤にできた神戸港(こうべみなと)駅では、国際旅客航路との連絡のために乗降ホームと上屋が設けられた。出入港時には京都と神戸港を直通する 臨時列車
図4 第2次修築工事完了直前の神戸港(昭和10年修正測図)
(国際旅客船と連絡する優等列車を一般にボートトレインと呼ぶ)が運行され、意気揚々と旅立つ人や大勢の見送り人でたいへん華やかな光景であったと伝えられている。
 目を西に転ずれば、第1期修築工事が竣工した大正11年には、兵庫突堤が着工されている。そして昭和8(1933)年に竣工し、和田岬線から分岐した臨港線に兵庫港駅が設置され、それぞれの埠頭に貨物線が引込まれた。なお、前年には神戸中央卸売市場が中之島に開設され、同時に神戸市場駅も開設されている
 昭和3年、神戸市内の東海道・山陽本線の高架化にあたり、神戸駅の貨物取扱いを湊川駅に分離し、小野浜から湊川まで海岸に沿って2.4kmの貨物線を敷設した。

 さて、第1次世界大戦による好況も原因となって貿易量が増加するのに対応するため、神戸港の第2期修築工事が第1期工事の竣工に先立つ大正9年に起工され、昭和14(1939)年、新港第4突堤(東)から第6突堤が完成した。また、第4突堤の神戸港(こうべみなと)駅は小野浜と統合され、小野浜が神戸港(こうべこう)駅と改称した(ただし、神戸港(こうべみなと)駅と区別するため、以下では改称後も「小野浜」と呼ぶ)。やがて戦争の色が濃くなるにつれ国際航路も閉鎖されていき、ボートトレインは運休がちになりいつしか時刻表からも消えた。臨港線は軍事物資の輸送が中心となっていった。そして、20年3月と6月の2度の空襲を受けて港湾施設は壊滅的な打撃を受け、終戦を迎える。
 終戦とともに神戸港は占領軍の管理下におかれ、復旧事業も思いに任せぬ状態であった。しかし、朝鮮動乱の特需景気もあって神戸港は再び内外国の貨物船が多く接岸するようになる。神戸港では新港第7突堤の建設が決定され、臨港線も活気を取戻した。貨車を牽引した蒸気機関車がひっきりなしに行き来しては汽笛をならすので、騒音防止の意味から鐘をカランカランと鳴らしながら走るようになった。昭和30年代の神戸港の風物詩のひとつに数えられる。

 30年代、わが国経済は大幅な発展を見せた。輸出拡大の国策により神戸港の貿易量も急速な増加を示し、従来の施設ではとうてい賄うことができなかった。船舶の大型化、荷役の機械化に対応した港湾施設を建設すべく、34年、新港突堤のさらに東で摩耶埠頭の建設に着手され、第1突堤の38年を始め、第2突堤から第4突堤が次々に完成した。小野浜から東に神戸製鋼所の北側を通る貨物線からスイッチバックして埠頭の付け根のあたりに摩耶埠頭駅が新設された。
が、鉄道と港湾の蜜月もこれまでだった。40年代に入って海運界はコンテナ輸送という新しい輸送形態が本格化しつつあった。摩耶埠頭においても、急遽 コンテナ用に変更すべく、
図6 阪神高速神戸線に沿って走る神戸臨港線と小野浜駅(出典:阪神高速道路公団「阪神高速道路写真集*いまとむかし」(昭和62年5月))
図5 鉄道が廃された第4突堤で建設される神戸大橋(出典:安孫子亨一ほか「神戸大橋(取付道路部)の概要」(「土木技術」25巻9号所収)
ガントリークレーン等が整備され、42年に供用した。このように港湾が積極的にコンテナ輸送に対応していくのに反し、鉄道の反応は鈍かった。当初、国鉄は、海上コンテナが車両限界2)を超えて建築限界2)ぎりぎりだったことから、これを鉄道貨物として扱わないこととしたのだ3)。そのため、海外からのコンテナ貨物はことごとくトラック輸送になった。
図7 国内貨物輸送における機関別分担率の推移(トンキロ)、国土交通省「国土交通白書平成23年度年次報告」より作成
 コンテナバースは岸壁が大型で広大なヤードを必要とすることから、従来以上に大規模な港湾が早急に必要とされた。本格的なコンテナ対応港湾を整備すべく、昭和41(1966)年、新港第4突堤の沖にポートアイランドの建設が始まり、翌年 設立された阪神外貿埠頭公団の手により45年には第1号のコンテナバースが開設された。そしてポートアイランドへの連絡のために、第4突堤の臨港線の廃された跡地に港湾道路である神戸大橋(L=319m、鋼製ダブルデッキアーチ橋、45年完成))が建設されている。これに続くハーバーハイウェイも、47年から建設が始められている。これらの港湾道路に支えられた神戸港は、世界一のコンテナ取扱量を誇りおおいに栄えた。
 その陰で、鉄道貨物はあらゆる分野で自動車輸送に優位性を奪われ、貨物輸送に占める鉄道の分担率は急坂を転げ落ちるように減少していく。臨港線は埠頭から徐々に姿を消していき、昭和59(1984)年には和田岬線から分岐する臨港線が、60年には小野浜〜湊川間が、61年には小野浜〜摩耶埠頭間が廃され、最後まで残った東灘〜小野浜間も平成15(2003)年に廃され、貨物は山陽本線鷹取付近に新設された神戸貨物ターミナル駅に移された4)
港線の廃線敷はどうなったのだろうか。まず、小野浜〜湊川間は国道2号(海岸通)に沿っていたことから、廃線敷はいち早く国道の歩道に転用されている(図8)。また、小野浜からそれぞれの
図9 湾曲した倉庫の壁面線と細長い緑地が埠頭に達する鉄道の名残り
図10 HATゆめ公園に移設されている下水遺構と橋台の一部
図11 「HAT神戸」北側の緑地の下には臨港線の遺構が眠っている
図8 小野浜ー湊川間の線路敷を転用した国道2号の歩道      
埠頭に引き込まれていた鉄道敷も早くに道路や緑地に転用され、建物の湾曲した壁面線に痕跡を残すばかりとなっている(図9)。
 最後に廃止された東灘〜小野浜間については、鉄道の遺構を保存・活用しようとする努力が見られるので、その状況をレポートしたい。まず、都市計画道路新生田川右岸線の建設に際して、神戸臨港線が煉瓦造りの下水溝を横断している遺構が発見された。調査の結果、煉瓦の刻印から明治40年までに築造されたものであることが判明し、臨港線が小野浜まで開通した当時の姿を残すものと判断された。構造の特徴をよく残す部分を切り取って、生田川左岸に設置された公園に移設保存されている(図10)。また、3号神戸線に沿って走っていた区間(脇浜海岸通3丁目)は、臨港線の南側の工場が地震のあと「HAT神戸」として開発されていたが、臨港線の廃止に伴って線路敷も更地化する工事を行っていたところ、4基の煉瓦造りの橋台が発見された。隅石に花崗岩を用いている点や煉瓦の積み方及び煉瓦の製造年代から、上述の下水道と同様の考察が得られた5)。撤去される橋台の一部はモニュメントとして利用され、2基は原位置で埋戻して保存しているそうだ(図11)。
 灘駅の南から「HAT神戸」までは、他の道路と平面交差しないので、快適に歩ける遊歩道として整備されている。架道橋の橋台(図12)や路盤(図13)を保存するなど、構造物をモニュメントとして活用することにも意が払われているようだ。有名な春日野架道橋(標題の写真)も国道2号を安全に横断する歩行者道として再利用されている。
図12 橋台がそのまま利用されている 図13 この区間はもとの路盤を一部残して整備されている
なお、整備に当たって沿道の企業がさくらの幼樹を寄贈した。
                            
(参考文献)
1 青木 栄一「鉄道と港−港湾をめぐる鉄道の役割とその変化」(鞄d気車研究会「鉄道ピクトリアルNo.714」(2002年3月)所収)
2 高山 禮蔵「地形図に見る関西地方の臨港鉄道」(同上)

                        (2009.10.22) (2009.11.11) (2019.09.11)

1) 加納 宗七(文政10(1827)〜明治20(1887))は、和歌山の商家に生まれ、神戸に来て材木商と運輸業で財をなした。明治4(1871)年、約3万両で生田川の付け替えを請負い、3ヶ月で完成させた。跡地はフラワーロードとなり沿道は加納町と名付けられている。右は東遊園地付近のフラワーロードに建つ加納 宗七像。

2) 車両限界とは、これより車両が大きくなってはいけないとする限界。建築限界とは、これより内側に構造物や施設が入ってはいけないとする限界。昭和4(1929)年に国鉄が定めた車両限界と建築限界を右に示す。

3) 鉄道貨物については、昭和45(1970)年に製造されたコキ5500形8900番台において海上コンテナ(20ft)が積載可能になっている。

4) 神戸貨物ターミナル駅はわが国で最初の架線下40ft海上コンテナの取扱いが可能な駅として開設された。

5) 調査結果は「神戸臨港線南本町架道橋範囲確認調査報告書(2008年3月、神戸市教育委員会)」にとりまとめられている。 写真は調査中の第4橋台、道路の石畳や側溝も見える。