安治川トンネル

下町人情が生きるわが国で最初の沈埋トンネル

安治川トンネルのエレベータ塔屋、左の橋梁は阪神なんば線
 大阪港にある咲州トンネルや夢咲トンネルを始め、河底・海底トンネルには沈埋工法がよく用いられる。建設当初とはかなり異なった形で供用されているとはいえ、わが国における最初の施工例を探見するため、大阪の九条商店街を訪れた。

西
図1 「キララ九条」商店街には商店主が丹精込めて経営している雰囲気がある

区の九条は庶民的なにおいのする街だ。地下鉄九条駅から北西に延びる「キララ九条」と千代崎橋の方に延びる「ナインモール九条」は、近隣へのサービスを提供する商店街の風貌を持つ。この地は古く南浦と呼ばれていたが、寛永年間(1624〜44)に香西 ル雲と池山 新兵衛が開発し、儒者の林 羅山に依頼してこの地を衢攘(くじょう)島と命名してもらったのが始まりという。ただ、あまりに難しい漢字であるため、いつしか九条と書くようになった。
 此花区にある西九条の地名は、貞享元(1684)年に河村 瑞賢(元和4(1618)〜元禄12(1699)年)が衢攘島を分断して安治川を開削した時にできた地名。その後、安治川は大阪湾と淀川を連絡する舟運の要衝としておおいに賑わった。明治に入ると、安治川が堂島川・土佐堀川と交わる川口の地に湊や外国人居留地ができた。その頃の九条は、「九条新道」と呼ばれた商店街を中心に、「西の心斎橋」の異名をとるほどの反映を見せたという。

図2 上部工が旋回することから「磁石橋」と呼ばれた安治川橋(長谷川小信「浪速安治川口新橋之景」、出典:なにわ物語研究会「大阪まち物語」(創元社))
 九条と西九条を結ぶ橋梁の必要性は高かったが、安治川を就航する船が多いため架橋には特別の工夫が求められた。明治6(1873)年に架けられた安治川橋(L=81.8m)は、8径間のうち中央の2径間はマストの高い船が通過する際に橋脚を軸にして旋回する構造となっていた。この様子を見て当時の人々は「磁石橋」と呼んだという。しかしながらこのユニークな橋の寿命は短く、明治18年に大阪を襲った大洪水の際に上流から流れてきた廃材のために2次災害の恐れがあるとして、工兵隊により爆破撤去されてしまったのである。その後普通の木橋として再架橋されたようだが、まもなく消えてしまって、川口より下流の安治川は再び無橋地域となってしまった。 
 
図3 今も安治川トンネルの西区側の交差点に源兵衛渡の名が残る、背後の高架は阪神なんば線
30年になって、西九条で私設の渡船業を行っていた源兵衛という人が九条新道の西端に通ずる渡船を開設した。「安治川の源兵衛渡し」と呼ばれ、両岸の商人に大いに喜ばれた。このころ安治川には西区の中だけで7カ所の渡しがあったが、源兵衛渡しはもっとも利用者が多く、九条が発展する一因ともなった。
かし、自動車の増加が著しくなった昭和10(1935)年、大阪市の第2次都市計画事業の一環として安治川を横断するトンネルが計画される。船舶の航行に支障を来さないためには両岸に長いアプローチ部を必要とする橋梁は、この地では適さないと判断されたのである。総工費260万円(現在の金額で約70億円)を投じて19年9月に完成。わが国で最初の沈埋工法(Tube Sinking Method)によるトンネルで、延長80.6m、有効幅員11.4m(4.5m×2車線+歩道)。内径幅12.4m、高さ4.5mの鉄筋コンクリート沈埋函でできている。
図4 沈埋工法の概要
 沈埋工法とは、トンネルを設置する河底にあらかじめ溝を掘削しておき、陸上部で製作されたトンネル躯体(沈埋函)を曳航し、所定の位置で沈設して水圧を利用して接続することを繰り返してトンネルを建設し、最後に埋め戻す工法である。世界初の沈埋トンネルはオーストラリアのシドニー湾で1885年に敷設された上水道管であり、人が通行できるものとしては1910年に米国デトロイトで建設された鉄道専用の河底トンネルが最初である。施工中に航路の切り回しを伴うという難点はあるが、@シールド工法より浅い位置に設置できる Aトンネルに浮力が働くため水底の地質条件を問わない Bトンネル躯体(沈埋函)を陸上で作るので品質が安定している C沈埋函の
図5 自動車が走行していた頃の安治川トンネル(大阪市建設局提供)
製作と河底の掘削が並行して作業できるので工期が短縮できる等の利点を有する。安治川トンネルは、土木学会関西支部に調査研究が委嘱されるなど当時の日本の土木技術の粋を集めた建設事業であり、とりわけ、両端をバルブヘッドで密閉して水に浮くように造られた沈埋函を水上輸送し、現場で注水して接続する工法は「ブリッジトラス」といわれるものであり、画期的な工事として注目を集めたと言う。
 完成当時の安治川トンネルは、約17m下にある河底まで降りるため、両岸に車両用エレベータ(3.0m×9.5m)2基と歩行者用エレベータ(1.8m×2.3mの20人乗り)、歩行者用階段(幅員1.4m)を備えていた。最盛期である昭和36年の1日の交通量は、歩行者約8,500人、自転車約4,600台、自動車約1,200台であり、自動車だけは維持費の一部として使用料を徴収していた。しかし、トンネル内の排ガスやエレベータ付近の渋滞が問題となったため、52年に車両用のエレベータは閉鎖。代わりに坂路を設置する計画であったが地元の反対でそれも頓挫し、現在は歩行者・自転車用通路(幅員2.4m)とエレベータ及び歩行者用階段のみが供用されている。
成21(2009)年3月、西九条で止まっていた阪神電車が難波まで通じ、九条と西九条は電車で結ばれるようになった。40年前、街の景気が良かった頃は、商店街の人たちは「客が逃げる」と阪神電車の進出に猛反対した
図6 昭和初年の九条新道のにぎわい(大阪市立図
 書館所蔵)
が、今では、街の活性化に寄与すると期待されている。安治川トンネルは、住民が下駄履きで行き来できる経路として、これからも電車と共存していくことだろう。
 大阪市の財政悪化の影響はこのトンネルにも及んでいて、かつては市の職員がエレベータの操作をしていたが、今は巡視員が1人で巡回しているだけになった。しかし、ドアが開くと我先に駆け込むのが大阪のマナーと一般に思われ勝ちなのに反し、ここ安治川トンネルでは、自転車が歩行者に順番を譲ったり、かごがいっぱいになりそうならば次まで待つといった、ゆったりとした時間が流れている。知らない人でも「こんにちは」と声を掛け合う下町人情が生きる、九条の街の光景である。
図7 安治川トンネルの西区側エレベータ塔屋、右の2枚が今は使われない車両用エレベータの扉、管理事務所を挟んで左が自転車歩行者用エレベータ

図8 歩行者・自転車用エレベータに乗り込む人々、学生や主婦を中心に自転車利用者が多い 図9 幅員2.4mの通路は狭く感じるが自転車を押す人を含め左側を整然と通行している

(参考文献) 川瀬 喜雄「日本初の沈埋トンネル「安治川トンネル」」(建設コンサルタンツ協会「Consultant」Vol.232所収)
(2009.10.02)