五本松堰堤

ハイキングコースにそびえる神戸水道の記念碑

ロープウェイから見える五本松堰堤と布引貯水池
 布引渓谷は、神戸市民にとって、毎日のように歩く人もいるほどポピュラーなハイキングコース。そこに位置する五本松堰堤も神戸市水道の貯水池としてよく知られている。今回は、横浜に10年以上遅れて五本松堰堤が完成するまでの、水道事業の紆余曲折を辿ってみた。





図1 ハイキングコースにある(上から)砂子橋・雌滝取水施設・谷川橋、いずれも国指定の重要文化財である
本松堰堤は布引ダムとも呼ばれ、新神戸駅から六甲山に登るハイキングコースの途中にある。駅の1階から「布引の滝0.4km」と高欄に大書された表示に従って進むと、すぐにレンガでできた布引水路橋(砂子(いさご)橋)に着く。橋を渡って左に曲がると石段の道が見えてくるが、その左の比較的平坦な道を選んで雌滝(めんたき)から雄滝(おんたき)に向かおう。まもなく到着する雌滝の横には円筒形の取水施設があり、滝壺の水をハイキングコースの下と先ほど渡った砂子橋に埋設された管を通じて兵庫区楠谷町にある「奥平野浄水場」に送っている。雌滝から階段を上がると鼓ケ滝、夫婦滝を経て、落差43mの雄滝だ。滝の上の見晴し展望台でちょっと休憩。10分ほど進んでアーチ状のコンクリート桁を有する谷川橋を渡り、細い通路を進んだところに目指す五本松堰堤はそそり立つ。
 五本松堰堤は明治33(1900)年に我が国で初めて造られた重力式粗石コンクリートダムである。石造りに見えるが、これは間知石(けんちいし)を積んだものを型枠代わりにしたため。中には現場で発生した50cmくらいの丸石や割石を投入しコンクリートを流し込んだ。高価なセメントを節減するための工夫である。堰堤の高さは33m、長さ110m。貯水池の有効容量60万m3は現在 神戸市で1日に供給する水道の量に匹敵する。堰堤の頂部の側壁には、建設に携わった技術顧問 吉村 長策1)、工事長 佐野 藤治郎2)、監督員 浅見 忠治の名が刻まれているそうである。
本の近代水道は横浜・長崎・神戸など外国人居留地を抱える都市から始まった。昔は夏になるとしばしば赤痢やコレラが流行っていたが、当時もっともこれらを恐れたのは居留地に住む外国人だった。
図2 勇姿を見せる五本松堰堤、天端のやや下に設けられたテンテル(歯飾り)が単調になりがちな堤体を引き締めている
彼らは祖国での大流行の経験から、衛生的な水道の敷設を強く要求した。神戸の水道は明治21年、前年に完成した横浜の水道布設を立案したH.S.パーマー3)によって計画された。水源を布引渓谷及び再度(ふたたび)渓谷に求め、濾過池から自然水圧で配水する計画であった。総工費は40万円(現在の約25億円)。しかし、当時の一般の人々は40万円という金額に驚くばかりで4)賛同は得られず、彼の計画は頓挫する。が、23年にコレラが大流行して1,000人余りの死者を出すに至り、これを契機として再び水道布設の気運が高まった。この間、神戸の発展はめざましく、かつてのパーマーの計画は再検討を余儀なくされた。神戸市は25年に内務省のお雇工師であったイギリス人技師W.K.バルトン5)に水道施設の設計を委託し、翌26年7月、市議会は水道布設計画を可決した。彼の計画では、将来の給水人口を25万人と見積り、将来を見据えた渇水対策として貯水池建造が盛り込まれた。貯水池は内面石張、外面芝張りの土堰堤で、堤高19.7m、貯水容量は約31万m3である。バルトン案に基づく神戸市水道計画は同年9月に政府の承認を得たが、政府の助成事業予算は国会提出に至らぬまま日清戦争の勃発により頓挫し、認可となったのは戦争終結後の28年にまでずれ込んだ。
 29年11月、神戸市水道事務所は工事長 吉村 長策、副長 粕谷 素直の体制で発足するが、神戸の町は急速な発展を見せており、給水人口の見込みは35万人に膨れ上がるなど水道布設計画は大幅な変更が必要となった。そこで、大阪市水道より佐野 藤次郎が呼ばれ、バルトンの計画に修正を加える形で設計が進められた。31年5月、内務省が認可した設計の一部変更の内容は、人口増加による貯水容量の増大に対応するため堰堤を高くし、土堰堤をコンクリート堰堤に変更するというものであった。そして工事を推進して33年に五本松堰堤が完成し、4月1日から正式に給水を開始している。パーマーの立案から実に10年余りの歳月が流れていた。
の間、神戸港は横浜と並び内外貿易、物資輸送の拠点としての地歩を確たるものとし、神戸港で給水する船舶も急増した。六甲山系の花崗岩をくぐった布引渓谷の水質は秀逸で、「赤道を越えても腐らない」として船舶関係者からは「Kobe water」の名で賞賛された。現在もなお清浄に保たれており、環境省の「日本の名水100選」にも選ばれている。
 貯水池は需要に応じて拡張や機能強化を図ることがむつかしい施設である。それだけに将来を見据えた計画規模の設定が重要となることは理解できるとしても、神戸の水道計画は、社会経済情勢による紆余曲折を経る中で頓挫を繰り返し、その間の急激な都市化が計画の見直しを容赦なく迫った事例と言えよう。なお、本事業は、兵庫運河の開削(明治32年完成)、湊川の付替え(明治34年完成)と併せて明治の三大事業と呼ばれており、これらの相次ぐ完成が今日に至る神戸の発展の基礎を築いた。
図3 神戸市の1日当たり水源確保量の内訳(出典:神戸市水道局「神戸水道ビジョン2017」)
 五本松堰堤は昭和13(1938)年の阪神大水害にも耐えたが、土砂が堆積して貯水量は当初より減って47万m3になっていた。老朽化が心配されていたところ、平成7(1995)年の阪神大震災の影響で(直接の被害はほとんどなかったものの)漏水量が増加したため、13年から耐震補強と土砂浚渫が行なわれた。平成10年10月文化財審議会の答申を受け、烏原立ヶ畑堰堤(明治38年完成)、千苅堰堤(大正8年完成)とともに登録有形文化財に指定された。
 しかし、今や神戸市水道の給水人口は153万人。給水量の大部分は淀川の水であり、布引ダムを含む神戸市の自己水源の寄与は総量の2%程度となっている。現在、五本松堰堤は夜間のライトアップも行われ、布引ハーブ園に登る新神戸ロープウェーからも眺めることもでき、現役の水道施設であると同時に、市民の憩いの場、観光資源としても活用されている。 

(参考文献) 土木学会図書館「古市公威旧蔵写真館1.神戸水道布引ダム」(http://library.jsce.or.jp/Image_DB/human/
furuichi/lib01.html)

(2009.08.31)

1) 長崎水道を設計したわが国のパイオニア的水道技術者で、大阪市を経て29年には広島軍用水道工事科長であったが、神戸市が海軍に懇請し工事長として招聘された。

2) 24年に帝大土木工学科を卒業し、大阪市で吉村の指導のもとに水道建設に従事、水道鋳鉄管購入・検査のため2年間グラスゴーに滞在した経験を持つエリート技術者であった。なお、佐野は30年3月に粕谷が退職した後の副長に、さらに吉村が31年8月に工事長を辞任すると翌3月に工事長となる。

3) パーマー(Henry Spencer Palmer、1838〜1893)は明治16(1883)年に来日し、横浜をはじめ大阪、函館の水道工事を設計した。イギリス陸軍の工兵少将であったが退任し、現在の横浜港大さん橋国際客船ターミナルや横浜ドック建設に貢献するも、完成を見ることなく急逝。濃尾地震調査などにも関与した。また、優れた文筆家・ジャーナリストでもあり、勤務した世界各地から現地の様子をロンドンタイムス紙などに伝えた。

4) 日常生活に井戸水を使っていた当時にあっては、水道設備に多額の投資をすることに理解を得るのは困難だったようだ。神戸に先駆けて水道を布設した長崎では、30万円の予算に猛烈な反対もあったが、結局は5万円を政府の補助、6万円を貿易益金の取崩し、残余の19万円は地方債を当てることとして事業を行い、明治24(1891)年に通水を開始している。

5) 上下水道技術者としてイギリスで活躍し, 1887(明治20)年 明治政府の招聘で来日し、帝国大学工科大学の初代教授として多くの水道技術者を育成する一方、内務省衛生局の顧問技師として函館・仙台・東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸・福岡・長崎など全国主要都市の上下水道計画の基礎を作り上げた。写真家としても有名で, 日本の写真界の振興と技術の向上・海外への日本文化の紹介にも大きく貢献。日本最初の高層タワー「浅草十二階」の設計者としても知られる。