神戸居留地

神戸に開いた近代都市計画の
のぞき窓

震災で大破したがもとの材料を使って復元された15番館
 我が国の近代的な都市計画が銀座から始まると説く教科書が多い中で、外国人の手になるとは言え、そのモデルとなった居留地の都市計画は無視できないと思われる。日本人は居留地には自由に出入りできなかったが、それは都市空間を通してヨーロッパ文化を感じることのできるのぞき窓であり、我が国に近代都市計画を導入するインキュベータでもあった。

戸が開港したのは慶応3(1868)年。紛争を避けるため、北前船の寄港地で賑わっていた兵庫から3kmあまり東に離れた神戸村が外国人居留地に指定された。
図1 神戸市立博物館に展示されている居留地の模型(西から見たもの)
従って居留地としての都市づくりはゼロからのスタートだった。
 居留地の造成に携わったのはイギリス人の技師、J.W.ハート1)。彼の設計により海辺の25.6haに126区画の整然とした街区が形成された。神戸市立博物館に展示されている復元模型(神戸芸術工科大学 坂本 勝比古名誉教授作製)を見ると、商館や公園などが整然と並んで建っている様子がよくわかる。歩車道の区分された街路には街路樹とガス灯2)が備えられ、マカダム舗装3)が施されて下水道が埋設された。いずれも横浜と並んでわが国で最初に採用されたものと思われる。また、区域の東にあたる
図2 ハートの設計による街区計画、ここでつけられた地番は現在まで継承されている、< >は現在の用途
生田川(生田川は現在の河道に付替えられるまではフラワーロードにあった)の土手を利用してRecreation Ground、海岸線に沿ってPromenade、西にあった日本人墓地にはPublic Gardenが配された。このように公園や緑地のネットワークを形成する手法は彼の計画の先進性を示すもので、当時の英字新聞「The Far East」は、「神戸は本当に東洋における居留地として最もよく設計された美しい街である」と紹介しているそうである。公園や遊歩道の概念は当時の日本にはなかったもので、市役所の南に広がる公園が「東遊園地」という、今にすれば風変わりな名で呼ばれるのも当時の訳語によるものである。
 神戸港における貿易は、1890 年頃までは8〜9 割が居留地貿易であり、居留地に進出した各国の外国商会によって独占されていた。このため、居留地周辺には商社・銀行・船会社・倉庫などが立ち並ぶようになった。この居留地の運営には、各国領事、兵庫県知事、登録外国人の中から互選された3名以内のメンバーで構成される「居留地会議」の常任委員会があたった。同会議は、独自に道路、下水、街灯などを運営・管理した。居留地運営の財源は、土地の永代借地権(外国人の土地所有が禁じられていたため)の競売から得られた収入と、土地に対して1年ごとに徴収した地租によるもので、居留地会議では税でもって警察隊を組織し居留地内の犯罪を取り締まったりもした。
治27(1894)年の日英通商航海条約に基づき、32年に居留地がわが国に返還されて日本の行政区に組み入れられると、旧居留地にも新たに日本の海運会社や商社、銀行などが進出した。近代洋風建築の中層オフィスビルが次々と建てられ、ビジネスの中心として大いに賑わう。その一方で、外国人により形作られた社会資本は維持管理が悪くなり、街路樹が枯死したり引き抜かれたりしてまちは昔日の面影を失っていた。神戸居留地の50周年記念誌『Jubilee Number』は、「日本人は外国人が示したこのお手本を見習うどころか、逆にせっかく苦労して美化した町の環境を破壊してしまった」「都市美化のお手本が日本人に少しも影響を与えなかったことがなんとしても残念でならない」と嘆いている。
 しかし、昭和58(1983)年、旧居留地が神戸市都市景観条例に基づく「都市景観形成地域」に指定されたのと軌を一にして、旧居留地に残されていた近代洋風建築物と歴史的景観が見直され、これらを活用してブティックや飲食店が新たに立地するとともにオフィスも再び増加しはじめる。街路樹やガス灯も主要な箇所では復元されて、おしゃれで落ち着いた雰囲気をもった街になった。
 平成元(1989)年に国の重要文化財に指定された15番館(標題の写真)は、明治13(1880)年頃に再建され、しばらく米国領事館として使われていた建物。戦災は奇しくも免れたものの先の阪神・淡路大震災で倒壊した。もとの材料を70%以上活用し、併せて基礎には耐震工事を施し、3年をかけて忠実に復元された。
図3 路上に展示するのは車道から移設された卵形管、下は歩道に埋設された状態を展覧している円形管
明治初期の外国商館の面影を現在に伝えている。
の傍らに保存されているのが旧居留地の下水道。明治5(1872)年には竣工していたであろうと思われる煉瓦造りの管で、断面形状は卵形と円形の2種類。卵形管は口径60cm×46cmで道路中央下に、円形管は口径90cmで歩道下に設置された。卵形にしたのは、管にかかる荷重を考慮したためとも水量が少ないときも流速を維持するためとも言われる。ハートの設計図には円形管が合計817.3mと卵形管が合計1,072.6m記載されているそうだが、浪花町と明石町では円形管が約90mにわたって創設時のまま現在も雨水幹線として使用されているとのことである。また、大丸百貨店東側にある矩形のマンホールを開けると、円形管を見ることができるそうである。煉瓦は国産で、わが国の煉瓦構造物の嚆矢ともなるもの。平成15年に登録有形文化財になっている。
 ヨーロッパでは産業革命による急激な都市人口の膨張に伴って衛生環境が悪化しコレラ等の悪疫の流行を見た経験から、下水道の整備が積極的に進められた。日本においても下水道のない都市は外国人には考えられなかった。居留地では雨水と家庭雑排水を処理するために下水道が設けられたが、屎尿は肥料として農家に引き取られる時代がその後も続く。
 とまれ、江戸時代に栄えた兵庫津に隣接するとはいえ江戸時代までは寒村であった神戸は、ハートの都市計画により生まれた居留地を核として、近代都市としての整備が続けられ、今日の国際港都への発展を見たのだが、同時に、居留地は各地における近代的な都市整備に際して、そのモデルとして参照される役割を果たし続けたのである。
(2009.08.17)

(参考文献) 野々村泰彦「旧神戸居留地十五番館」(http://www.adnet.jp/nikkei/kindai/35/)

1) John William Hart(1836〜1900)は、イギリスのリバプールに生まれた土木技師で、ペルーや上海を経て神戸に来て居留地の建設に携わり、建設コンサルタントを開業する傍ら、居留地行事局の書記を努めた。

2) 限定的な形では、明治4(1871)年に大阪市の造幣局周辺において、機械の燃料として用いていたガスを流用する形でガス灯が点灯された例がある。なお、相楽園内の旧ハッサム邸の前庭にある2基のガス灯は居留地に設置されていたものが移設されたものであり、わが国に現存する最古のガス灯となっている。

3) スコットランドの有料道路企業の管理者であったJohn Loudon McAdam(1756〜1836)が考案した、砕石を敷き詰めローラーで圧し固めて施工する舗装工法。砕石は天然の砂利と異なり表面が荒いため、転圧するだけで骨材が相互に噛み合って高い耐久性を得ることができる。仕上がりが美しく馬の足がかりが良いため、自動車が普及していなかった頃はよく用いられていた。この応用として、ローラーに水をかけながら転圧する水締めマカダムや、瀝青材料(タール)を撒いた上に砕石を重ねて転圧するタールマカダムなどがある。