旧生駒トンネル

輝かしい長大トンネル工事に見る陰の世界

 厳重に閉鎖されている旧生駒トンネルの石切側坑口
 毎年、夏になると"心霊スポット"としてうわさにのぼる旧生駒トンネル。当時の技術の先端を行き 華々しく開業した長大トンネルであるが、なぜこのようなうわさが広まるのか。うわさの背後に潜む逸話を拾ってみた。

図1 旧生駒トンネルとその手前の孔舎衛坂駅跡
わさの心霊スポットは近鉄奈良線石切駅から石切霊園に向かって北へ徒歩10分ぐらいの所。厳重に閉じられた坑口がそれである。その手前の廃駅では、ホームにまだ白線があざやかに残る。かつての孔舎衛坂(くさえざか)駅1)だ。駅舎のかわりにホームの一角には白龍神社が鎮座するというのも心霊スポットらしいしつらえである。
 ここが心霊スポットといわれるのは、奥深くからわき出る冷気が坑口に漂ってくるからだけではない。昭和21(1946)年、トンネル内で車両火災が発生して23名が死亡し75名が負傷、翌22年に再び発生した火災でも約40名が負傷した。さらに23年には急行列車がトンネル内を走行中にブレーキを破損、下り勾配を大阪方向に暴走し河内花園駅で先行の普通列車に追突。49名が死亡、282名が負傷する大惨事が発生した。これほど立て続けに事故が起こったのは、戦後の混乱によって車両や設備の整備が充分にできなかったのも一因と思われるが、これらの事故のため「ここには何かあるに違いない」という話が巷間で広まったようだ。
のトンネルは大正3(1914)年に近鉄の前身である大阪電気軌道(以下、「大軌」と呼ぶ)により開通した旧生駒トンネル。開通当時は中央本線の笹子トンネル(L=4,655m)に次ぐ3,388mの延長を誇り、しかも初の標準軌複線電化断面であった。
 大阪と奈良を結ぶ鉄道は、明治25(1892)年に現在の関西本線が、31年に現在の学研都市線が通じていたが、信貴生駒山系を避けるため、いずれも大きく迂回していた。大軌は生駒山を越えて両都市を直結しようと考えた。しかし、そのルートをどう選ぶかについて会社の方針は揺れた。39年に特許を申請した際には「鋼綱釣瓶式」とあり、ケーブルカーを敷設するつもりだったようだ。43年に示された計画では、乗り継ぎに伴う不便を考慮して普通軌道で山を越えるとしている。しかし、そのルートについては、北方に迂回する案、石切付近からトンネルを掘る案、その中間案があってなかなか決めがたかった。取締役の岩下 清周はトンネル案を強く支持し、会社も最終的には「将来 競争すべき線路を画策するの余地を残さず永遠の利益は決して尠少(せんしょう)ならざるを以て優に工費の増加を償うに足る」との判断のもとに、短距離・短時間で輸送できるトンネル案を採択したのであった。
 図2 工事中の生駒トンネル(出典:参考文献2)
 44年6月から大林組の手により着工したが、地質の変化や湧水に悩まされ、予想外の難工事になる。大正2(1913)年1月26日には大規模な落盤事故が発生し、150名が生埋め、19名の犠牲者が出た。現場は、工夫らの「恐怖と驚愕とは絶頂に達し忽ち阿鼻叫喚の大修羅場」(1月28日付け「大阪毎日新聞」)を呈し、その惨状は天皇に奏上されるほどだった。難工事の連続ですでに多額の債務を抱えていた大軌は、この事件で存亡の危機に立たされた。しかし、大林組は支払いが滞りがちであるにもかかわらず工事の手をゆるめず、資材の納入者も全面的に協力し、トンネルは3年1月31日に導孔が貫通、4月18日に完工にこぎつけた。事故のため工期は33カ月を要したが、笹子トンネルの71カ月に比べ格段に短かった。営業開始は4月30日、翌5月1日は宝山寺(生駒聖天)の祭日でもあったので大軌は上々のスタートを切ることができたのであった。
 ただ、膨大な債務は会社の経営を圧迫した。沿線人口が少なく観光客頼みであった大軌にとって、雨季の旅客減少は特に厳しく、給料の支払いにも窮する状態だった。宝山寺に回数券や参詣券を大量に買ってもらって何とか営業を続けたという逸話も残っている。
 始めは危うかった大軌だったが、やはりトンネルの採用は正解で、国鉄を凌駕して阪奈間の大動脈に育っていく。そして橿原神宮、伊勢、名古屋へと路線を拡張し、大軌は近鉄へと発展した。もともと軌道としてスタートした奈良線は、電圧は600Vと低く車両も小さかった。戦後の大量輸送時代を迎え、大阪側から 順次 大型車対応が進められたが、生駒トンネルの拡幅は困難で、新たに大断面のトンネルを掘る必要に迫られた。こうしてできたのが現在の生駒トンネルなのである。昭和39(1964)年7月22日完成。大阪側坑口は400m南に移り孔舎衛坂駅は廃止された。これに伴って、隣接する鷲尾トンネルを切り崩して新たに石切駅を設ける工事も行われた。
 旧トンネルはしばらくそのまま放置されていたが、再び日の目を見るときがやってくる。東大阪生駒電鉄(現在の近鉄東大阪線)が新石切から生駒までトンネルを掘るに当たって、生駒側の395mを拡幅再利用したのである。昭和61年のことであった。塞がれた大阪側坑口の先には変電設備がおかれていて、奈良線と東大阪線のトンネルに電気を供給しているらしい。
が暮れるまでの時間を利用して、坑口から200mほど下った日下(くさか)新池に行ってみる。ここは大正4(1915)年に開設された「日下遊園地」の跡である。当時は「天女ケ池」と呼ばれたこの池の周囲には温泉会館、料理旅館、少女歌劇などがあり、曳き馬に乗る人や貸しボートを漕ぐ人の姿も見られたという。大軌は、日下遊園地で大規
 図3 在りし日の日下遊園地(出典:参考文献1)
模な仕掛け花火や盆踊り大会を開催したり、生駒トンネルを何回でも往復自由の納涼乗車切符(トンネル自体が「氷倉に入っているほど涼しい」と宣伝された)を発売して客の誘致を図った。しかし、大軌が自ら菖蒲(あやめ)池遊園地(大正15年開設) 、生駒山上遊園地(昭和4(1929)年開設)の経営に乗り出すと同時に大軌と日下遊園地のコラボレーションは解消。日下遊園地は衰退していった。
図4 石段だけが残る健康道場の跡 図5 遊歩道などが整備された日下新池
 温泉や料理旅館は改造されて、「孔舎衙(くさか)健康道場」という結核療養所になった。昭和12(1937)年から17年まで運営されていたようである。太宰 治の「パンドラの匣(はこ)」は、ここで闘病生活を送っていた木村 庄助氏から遺贈された病床日誌を題材に、明るくせいいっぱい生きる少年と彼を囲む善意の人々との交歓を書簡形式の小説として描いたもの。太宰生誕100年に当たる平成21(2009)年に映画化され、東大阪市でも上映会が開かれた。
図6 西口工事での傷病死者24名を祀る招魂碑、朝鮮人労働者の名が混じっている
現地では健康道場の跡を「パンドラの丘」として遊歩道や砂防施設を整備する工事が行われていた。
 ただ、日下温泉会館の発端はトンネル坑夫らを”慰安”する施設だったという人もおり、もしこれが事実とすれば当時の土木工事の負の一面を見る思いがする。
 次に訪れるのは、さらに800mほど坂を下ったところにある稱揚寺2)である。境内には大軌と大林組が建立した「招魂碑」がそびえている。裏面にはトンネル西口の工事での傷病没者24名の名が刻まれ、その中に少なくとも3名の朝鮮人労働者の名がある。日本の建設会社は、日露戦争の後、朝鮮での鉄道工事に参入して京釜鉄道(京城〜釜山)などの建設を請負っていたが、そこで建設会社と親密になった労働者が「韓国併合」を機に日本国内で土木工事に就労するようになったものだ。
 古老の記憶では、彼らの労働環境は過酷で労働条件は劣悪だったという3)。最も危険な切羽の部分に彼らが送り込まれていたと言い伝える人もある。また、強い差別意識のもとにあって、彼らはふつうの人が立ち入らないような深い谷で「朝鮮飯場」と呼ばれる粗末な仮設宿舎にほとんど軟禁隔離状態で収容されていたようである。彼らも逃亡を企てたり4)集団でサボタージュを図ったりしたので、周囲からは不良労働者と見なされ警戒されていた。このような悪循環が高じて彼らと村人が争いになる場面もあったようで、大正2年8月19日付けの大阪朝日新聞には池の魚を巡って死者を出すほどの衝突があったとの記事が見える。
 朝鮮人労働者を酷使していたのは何も旧生駒トンネルに限ったことではない。戦前の建設業者は多かれ少なかれこのような方法で成長を遂げたのだ。
間の取材を振り返りながら坑口近くで夜を待つ。夜8時を過ぎるとあたりは暗くなるが、筆者には霊感がないのか、しばらく待っても何も変わったことは起こらない。あきらめて戻りかけると、足もとからまばゆいばかりの街あかりが視界いっぱいに広がる。このあざやかな光の海とは裏腹に、背後の生駒トンネルは暗い過去に向けて坑口を開いたまま闇の中に佇んでいるようだった。

図7 石切駅付近から一望する河内平野、遠方には湾岸線の光跡も見える
 (2009.07.23) (2010.08.31)
(参考文献)
1. 大阪商業大学商業史博物館「合本おおさか漫歩」
2. 近畿日本鉄道「近畿日本鉄道100年のあゆみ−1910〜2010」
3. 東大阪市史編纂委員会「東大阪市史 近代U」

1) 開業からやや遅れて大正3(1914)年7月17日に日下(くさか)駅として開設、7年に鷲尾駅に改称、さらに昭和15(1940)年に孔舎衛坂駅に改称した。「日本書紀」で神武天皇が長髄彦(ながすねひこ)に敗れたと伝えられる孔舎衛坂に比定される土地が近くにあることから命名。昭和15年は皇紀2600年に当たっており、神武東征の跡地が文部省によって調査・比定された。それを記念しての改称である。

2) 東大阪市日下町2丁目7-23(TEL072-981-4419)にある浄土真宗大谷派の寺院。

3) 旧生駒トンネル工事では生駒側でも朝鮮人労働者が働いていたことが知られており、住井 すゑが取材して小説「橋のない川」で扱っている。

4)大正元(1912)年9月1日付けの「奈良朝報」に「北倭村谷田の大軌生駒山トンネル工事で数日前より工夫として伊藤 留吉の飯場に稼ぎ居たる朝鮮人中野 武雄こと、全羅南道木浦生まれ尹 泰辯(28)が6日午前3時から12時頃までの間に同工事場を逃走して行衛不明になりたり。同人は法被股引等内地人同様の土方風体を為し居れりと」とあり、数時間飯場を離脱するだけで記事に扱われるほど社会から厳重に監視されていたことがわかる。