田邊 義三郎が残した2基1)の砂防堰堤(オランダ堰堤・鎧堰堤)

一丈野国有林にあって良好に保全されているオランダ堰堤
 大津市の瀬田地区から南東に広がる田上(たなかみ)山地は、別名「湖南アルプス」と呼ばれる。主峰である太神(たなかみ)山でも標高は599.6mに過ぎないが、これが"アルプス"の名を持つのは、白く連なる花崗岩の露出地のせいである。もとは良質のスギやヒノキが繁っていたらしいが、藤原京・平城京の造営や寺院の建立のために数万本を伐採したと伝えられ、さらに燃料採取のために過度に利用されたため、江戸時代には全国的に知られるはげ山となっていた。明治6(1873)年、ヨハネス・デ・レーケ(Johannis de Rijke、1842〜1913)らの提言を受けて「淀川水源砂防法」を制定して以降、田上山地では、はげ山を解消するためにさまざまな砂防事業が営まれてきた。本稿では、田邊 義三郎による2基の砂防堰堤をご紹介する。

邊 義三郎は,安政5(1858)年に現在の山口市に生まれ、明治6(1873)年より自費でドイツに留学してハノーヴァ州工芸大学にて土木学を修業し、卒業した14年に帰国して内務省に入省した。技術官僚として各地を巡ったようだが、滋賀県に関係するものとして、17年にデ・レーケとともに琵琶湖疏水工事の審査を行い18年には草津川上流域の調査も行っている。
図1 オランダ堰堤と鎧堰堤の位置
19年に徳島にあった第5区土木監督署巡視長に、翌年には第5区の巡視長を兼務しつつ大阪の第4区土木監督署巡視長に任じられている。巡視長の職名は23年に署長に変わっており、現在で言えば地方整備局長に当たるであろう。
 第4区土木監督署在任中、彼は田上山地に2基の砂防堰堤を築造した。完成は22年。切石を階段状に積み上げるという技法が共通しており、鎧のように見えることから「鎧積み」2)と呼ばれるようである。ところが、田邊はこれら堰堤の完成と同じ22年ににわかに病没してしまった。彼が活躍したのは8年間に過ぎない。彗星のような生涯であった。以後、鎧積みによる堰堤が建設された記録は見えない。
の砂防堰堤のうち、始めに訪れるのは大津市上田上(かみたなかみ)桐生町(N:34°58'04"、E:135°59'37")にある「オランダ堰堤」だ(標題の写真)。JR草津駅発の上桐生行きバスの終点から、15分ほど歩く。堰堤の位置は草津川が山地から平地に出る直前に当たる。草津川はよく知られた天井川であり、その堆砂を減らすには絶好の立地だ。
図2 アーチ型にかつ階段状に石を積んだオランダ堰堤
図3 オランダ堰堤の断面図(出典:参考文献)

 堰堤は一丈野国有林にあり、周辺は滋賀県により平成2(1990)年度から「草津川砂防学習ゾーン・モデル事業」が進められ、公園的な利用の促進が図られている。堰堤の近くに説明板があって、デ・レーケの指導のもとに建設されたとある。傍らにはデ・レーケの胸像もある。建設されてから120年以上も機能を発揮し続けている理由として、@下流側の放水面が半径約50mのアーチ型になっていて中央に水を集めることで両袖部が削られにくいこと、A下流側を階段状にすることにより流水が階段面に当たり水叩き部の洗掘を防いでいることなどが挙げられている。
 この堰堤の規模は、高さ7.0m、天端幅5.8m、堤長34mであって、花崗岩をおよそ35cm×55cm×120cmに整形して水平に積んでいる。この石積みには特徴があって、長軸が流れと並行になっている(「ごぼう積み」という)ことだ。これは、内務省大阪土木出張所による「既設砂防工事調査書」(大正15年12月調査)において「工法ノ趣ヲ少シク異ニシ」と記されているように、田邊の作品のほかには例がない。 オランダ堰堤は、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの指導があったというのが通説であるが、デ・レーケが示した「砂防工略図解」には「割石堰堤」や「野面石堰堤」は掲げられていても長尺の石材を使用するものは無く、オランダ堰堤の構造は田邊の独創の感が強い。果たしてデ・レーケの関与はどれくらいあったのだろうか。これについては本稿の最後で考察する。
に訪れるのは、大津市田上森町(N:34°55'37"、E:135°57'53")にある「鎧堰堤」だ。JR石山駅からアルプス登山口行きバスに乗り、終点から天神川に沿って歩く。
図4 田上山でもっとも古いと推定されている堰堤
天神川は早くから砂防堰堤が多く築かれていたところで、バス停から300mほどのところで天神川を渡る潜水橋(図4)は堰堤であり、その築造は明治初期、基礎(一部木製)は江戸時代にさかのぼるとされ、田上山で最古の堰堤と推定されている(鎧堰堤にある説明板による)。約30分歩いて「迎不動」に着く。ここで天神川を渡って、細い急坂を鎧堰堤に向かう。登り始めてすぐに階段状の堰堤が現れるが、これは平成12年に完成した「迎不動堰堤」で、目的地まではさらに20分ほどの登山が必要である。
図5 鎧堰堤の全景
 やっと到着した鎧堰堤は図5のようなもの。堤高6.8m、天端幅4.0mであって、水裏(下流側)にはおよそ32cm×35cm×120cmに整形した石が階段状に積まれている。この堰堤の特徴は、1段が2層から成っており、下層は長軸を流れと直角に、上層は長軸を流れと並行に配置している点にある。このような2層で構成することにより石材数の削減を図ったようだ。この堰堤は、前年に作られた野面積み堰堤の水裏の石を除去して上記のサイズの石に置き換えて、3.5mから6.8mに嵩上げしたものである。これにより、堤長9mという比較的小規模な堰堤でありながら
図6 鎧堰堤の断面図(参考文献に掲げられた図を判読して書き直したもの)
1.34haに及ぶ広大な堆砂地を形成している。
ハネス・デ・レーケは、水工技術の指導者として3人の技師といっしょにオランダから来日した。デ・レーケらの最初のミッションは、大阪港の改修と伏見〜大阪間の淀川に航路を開設することだった。しかし、大阪港の堆砂を見た彼らは、上流の土砂流出を止めるのが先だと喝破し、砂防の必要を提唱する。そして、ヨーロッパアルプスでの施工を研究してそれをわが国に適用することを考えた。
 オランダ人技術者の伝えた砂防工法はただちに日本人に技術移転されただけでない。日本人技術者はオランダ人の技術を単に模倣するのではなく、自らの研究や経験で独自の工法を開発していくのである。例えば、デ・レーケが最初に取り組んだ不動川において指導を受けた市川 義方は、後に「水理真宝」を著しデ・レーケに対して批判的態度を示している。また、デ・レーケ研究で知られる上林 好之氏によると、実務家のデ・レーケと大学を卒業した内務省の若手技術者との間には明治15年頃からかなり確執があったようで、若手技術者たちはデ・レーケを無視する態度に出ているということだ(上林 好之「日本の川を甦らせた技師デ・レイケ」(草思社)p197)。もしかすれば田邊 義三郎もそんな若手技術者のひとりだったのかも知れない。
 だからといって、デ・レーケに対する感謝の念が低減するわけではない。デ・レーケは新たな技術を開発する技術者を育てたいと願ったのではなかろうか。その結果、saboが国際的に通じるほどわが国の砂防技術が向上したのである。本稿で紹介した田邊 義三郎の例では、デ・レーケ型の堰堤を嵩上げして自らの堰堤を建設した鎧堰堤は、彼が独自に編み出した工法を用いればデ・レーケに追従するよりも有効な堰堤を建設できることを誇示しているのではないか。間違いなく砂防をsaboに育てたひとりであろう。
 なお、参考文献を著した友松 靖夫氏によると、予算関係の書類には「工師デレーケ之計画ニ拠リ」と入れるようにとの指導が明治19年に発出されていたというのである。おそらく、予算を獲得するための方便であったのだろうが、デ・レーケが関わっていない砂防堰堤にもこのように記されるのであるから、文書だけに基づいてデ・レーケの関与を判断するのはたいへん危険である。デ・レーケ関与を言うためには、彼の行動を検証するとともに技術面での異同を論ずる必要がある。本稿で紹介した砂防堰堤が建設された時期に彼が湖南地方を訪れたという記録はないし、技術的には田邊の独創性が強いことは既述のとおりだ。

(参考文献) 友松 靖夫「知られざる瀬田川砂防史」((一社)全国砂防治水協会「砂防と治水」vol.47 No.4所収)
(2023.09.29)(2024.04.08)



1) 田邊 義三郎は3基の堰堤を築造したとされるが、野洲川流域の大山川堰堤は災害や高速道路建設のために現状をとどめていないので、本稿では良好に保全されている2基について述べる。

2) 本来の「鎧積み」とは、階段状とは逆に上段の石を下段より突出させることにより目地に水流や砂礫が当たらないようにしたもの。関西では逆瀬川砂防堰堤に見られる。