こう だ
上田池−初めて農業土木に適用された粗石モルタル重力式ダム技術

堤高41.5mの規模を誇る上田(こうだ)池堰堤
 わが国の最古の歴史書「古事記」によると、伊弉諾尊(いざなぎ)と伊弉冉尊(いざなみ)の2神が生まれたばかりの混沌とした大地を天沼矛でかき回したら、その先端から滴り落ちた雫が固まってできた最初の陸地が淡路島であるという。その淡路島では古くから農業が営まれてきた。しかし、淡路島の農業には、潅漑用水の確保という大きな課題があった。本稿では、上田(こうだ)池を取り上げ、安定した営農のための農民の取り組みを見ていく。

路島は、北部は丘陵が南北に走って海岸に迫り平地が少ないのに対して、南部は諭鶴羽(ゆづるは)山地から北西に流れる三原川1)の両岸に平地が広がっており農業が盛んである。しかし、山が浅く保水される量が少ないため、農業用水の不足は古くからの問題であった。そのため、ため池がたくさん作られた。その由緒が室町時代にさかのぼるものもある。江戸時代、淡路を支配した蜂須賀家は新田開発を推奨し、ため池も各地で作られたことが知られる。江戸時代の後半になると、富裕な庄屋などが地区の干ばつ対策としてため池の築造を行っており、藩からの補助を受けている例も多い。
 明治中期から大正時代には、農業経営の安定化を図るため耕地整理事業による開田が進み、併せて多くのため池が作られた。そのひとつである上田池は、南あわじ市神代(じんだい)社家にあって、全国で最初の粗石モルタル重力式ダムとして大正15(1926)年に着手し、昭和7(1932)年に完成したため池だ。
神代・市・榎列(えなみ)3村の三原川左岸地域には、水田約364.5haと畑地約140haがあって、三原川から取水して農耕していた。しかし、水量が少なく、干天が10日余りも続くと枯渇してしまうため、毎年のように干害を被っていた。また、灌漑用水を得る労力はたいへんなものであり、副次的な産業に出稼ぎすることもできず、農業経営をますます困難にしていた。その結果、農業を捨てて都会に出るものが多くなり、村の過疎化と荒廃が顕著になってきた。
 これを解決するためには、灌漑用水を豊富にして、収益性の低い畑地を水田化するしかないと村の意見が一致した。
図1 上田池とその潅漑幹線水路及び受益区域
ため池の築造が模索されたが、複雑な水利権と農家の経済基盤の問題から、容易に実現を見なかった。折しも明治42年に改正された「耕地整理法」(明治42年法律第30号)では、耕地整理の目的として用排水の改良が重視されることになり、この機に応じて同年4月に前記3村の村長が県に実施調査を申請した。以後、県が設計書を作成(大正5年)するなどして事業化を図ったが、ため池だけでも27万円を要する本事業は当地域では途方もない大事業ととらえられ、容易に決断できないまま時間が過ぎていった。
 第一次世界大戦(大正3(1914)〜7(18)年)の勃発に伴って著しく物価が高騰したため、当初の予算ではため池の完成が不可能となり、計画変更が避けられない事態となった。県は本事業を強く後押しし、技手を駐在させて調査設計に当たらせ、大正11年にため池の工事費を32.4万円とする変更計画書を作成した。そして、組合員1,172人をもって耕地整理組合が設立された。
 この計画では、上田池の堰堤は、当時一般的であった土堰堤とされていた。しかし、良質の粘土の採取が近辺では難しいことと、堤高36mが非常に稀な計画で下流民の危機感が大きいことから、着工は延期されてしまった。このため、県では改めて調査を行うこととし、神戸市水道の烏原貯水池(神戸市兵庫区千鳥町3丁目、明治38(1905)年完成、堤高33.33m)や千苅貯水池(神戸市北区道場町生野、大正8(1919)年完成、堤高42.4m)を参考に、農業用潅漑ダムとしては初めての粗石モルタル重力式ダム形式を採用した。この案は大正14年に組合の決議を経て設計変更の認可を受けた。堰堤の規模は堤高41.5m、堤頂長131m、堤体積1.2万m3でため池の湛水面積10.1ha、総貯水量1,700千m3。その工事費は54.4万円になっていた。
田池は、国道28号が三原川を渡る「円行寺橋」から南東に3.5kmほど行ったところにある。下流側から見上げると、堤体は深いみどりの中に
図2 上田池堰堤に施された荘重で洒落たデザイン
城壁のように力強くそびえ立つ。上に行くほど傾斜がきつくなる壁面は、覆い被さるような迫力だ。上端には6連の余水吐が設けられており、堤体から続く橋脚にやや扁平なアーチ橋が配置されるという装飾的なつくりになっている。天端は軽自動車が通れるほどの道路で、その高欄も吟味されていて、余水吐の部分は軽快な縦長のくり抜きを、その他の部分では市松に配置された四角いくり抜きを設けている。
図3 堰堤の左岸に建つ記念碑

また、天端には半円形のバルコニーと操作室もあり、これもこの時代の特徴的なデザインだ。
 左岸側に記念碑が建つ。中央の大きい碑は、建設時に設置された「上田池碑」。計画から建設に至る経緯を記している。その両側には樋門の改修記念碑が建つ。
堤を下りて次は潅漑水路を見る。水路は、上田池から西に進んで空谷川を越えて段丘を斜路で下り、さらに諭鶴羽川を越えて三原川左岸に開けた田畑を潤す。その延長は、上田池から榎列方面に向かう榎列幹線が5.07km、途中で分岐する神代幹線が1.78kmであり、
図4 道路に並行して諭鶴羽川を渡る幹線水路 図5 水路に設置されている円筒分水工
さらにそれらから数十本の支線が伸びているという。水路が分かれるところには分水工が設置してある。水路の幅員に応じて分水するものもあるが、主要な箇所には円筒分水工が整備してあった。
 調査中、空谷川の近くで自身も利水者だという男性に出会ったが、
図6 田圃に備えられた給水バルブ
上田池は他のため池に比べて新しいため、湛水の順序は他に劣後しているということだった。既得水利権に配慮した運用がなされていることが伺われる。また、幹線水路に隣接する田で作業していた女性によると、幹線水路の水を直接田に入れているのではなく、いったん地区で貯水して「水引き」と呼ばれる役の人が天候などを勘案してそれぞれの田畑に配水するのだそうである。この地区では圃場を整備した際に個々の田畑に図6のような給水バルブが設置してあり、これを操作して注水するということだった。
原川流域を始めとする淡路島南部の農業は、水稲と蔬菜(たまねぎ、レタス、白菜など)を組み合わせた多毛作が特徴だ。さらに、畜産もさかんで、米を収穫した後の稲わらを家畜の飼料として利用し、家畜から生産される牛ふんは堆肥として農地に土壌改良剤として還元することも行われている。この農業システムにより、雑草や土壌病害虫を抑制させて蔬菜の連作が可能となっており、大きな病害もなく100年以上続く農法を実現させた。この資源循環型の農業システムは、令和3(2021)年2月に「日本農業遺産」2)に認定されている。水の確保のための工夫と協働が、このような連携を産み出す土壌になったのだろう。

(参考文献) 兵庫県農林水産部農地整備課「兵庫のため池誌」
(2023.09.04)


1) 淡路島最高峰の諭鶴羽山(H=608.3m)北東麓に源を発して諭鶴羽川としてほぼ北西に流れ、南あわじ市神代社家で上田川を合流して三原川となり、三原平野でいくつかの支流を集めて播磨灘に注ぐ。河川法による幹川延長は約15.3km、流域面積は123.7km2の二級河川で、水系全域が南あわじ市に属する。

2) 社会や環境に適応しながら何世代にもわたり継承されてきた独自性のある伝統的な農林水産業と、それに密接に関わって育まれた文化、ランドスケープ及びシースケープ、農業生物多様性などが相互に関連して一体となった、我が国において重要な伝統的農林水産業を営む地域(農林水産業システム)を農林水産大臣が認定するもの。平成28(2016)年に創設された。