長 柄 橋
−伝説と伝承に彩られた名橋を訪ねる

ニールセンローゼとされる長柄橋の主径間、行く手に大阪キタのビル街を望む
 橋梁としての実態は明らかではないが、古代から中世にかけて「長柄橋」は歌枕として和歌にしばしば取り上げられた。その由緒ある名が復活するのは明治42(1909)年のこと。以後、2度の架け替えを経て、現在の橋は3代目である。途中から曲線橋が分岐するのもユニークだ。

「雉
も鳴かずば撃たれまい」というのは、余計な発言をせずに目立たずにいることをよしとする、かつての処世訓を言い現したことわざだが、その原典となった逸話が大阪市淀川区東三国にある「大願寺」に伝えられている。時は推古天皇(在位592?〜628年)の世らしいが、「長柄橋」の架橋工事の完成寸前で風水害に遭って杭が流されてしまうという事件があった。その時、垂水(現在の吹田市)の長者であった巌(いわ)氏が役人に問われて「架橋を成功させるには袴に継ぎの当たった人を人柱になさればよい」と進言した。見ると、巌氏が継ぎのあたった袴をはいており、人柱にされてしまったという。ところで巌氏には照日という娘があり、禁野(しめの、現在の枚方市〜交野市付近)の徳永氏に嫁いでいたが、父が人柱にされたショックで口がきけなくなっていた。ついに離縁されることとなり 夫が実家まで送ってきたが、その途中1羽の雉の鳴く声が聞こえ、すかさず夫は弓矢で雉を射止めた。そのとき照日の口より出た言葉が、「物言わじ 父は長柄の橋柱 鳴かずば雉子も 射られざらまし」の歌であった。夫は妻の心の内を知り、雉を手厚く葬り、
 図1 大願寺に建つ「長柄人
  柱巌氏碑」
妻を伴って引き返したといわれる。
 大願寺は、推古31年に天皇の命により巌氏の菩提を弔うために建てられたとされており、人柱の位置も当地としている。が、果たして長柄橋がこの時に架けられたかは不明である。孝徳天皇(在位645〜654年)の時代に長柄豊崎宮へのアクセスとして架けられたという説や、「行基年譜」に「架橋六橋、泉大橋、山崎橋、高瀬大橋、長柄、中河、堀江」とあることから行基による架橋という説もある。確実性が高いのは「日本後記」嵯峨天皇の条に見える「弘仁三年六月己丑に使いを遣わして摂津国の長柄橋を造る」という記事である。なお、「文徳実録」によれば、弘仁3(812)年に架けられたこの橋は仁寿3(853)年にはすでに断絶しており、代わりに渡しを配置したという。 以後、再架橋した記録は見られないようだ。
 流失から3世紀ほど経過した平安時代後期から中世において、長柄橋は貴族階級の文学にしばしば取り上げられた。木製の遺構はすでに腐朽・滅失していたいたであろうから、どこにどれほどの規模の橋が架けられていたのか実像は明らかでないままに、比類のない名橋として伝承された。朽ちた杭に没落したわが身を重ね、かつての華やかだった時代を追慕するという内容のものが多い。
く断絶していた長柄橋の名が復活するのは、それから千年余りを経た明治42(1909)年のことである。新淀川の開削に伴って大阪府道大阪吹田線に架橋されることになった。橋長370間8分(約674m)、有効幅員3間(約5.5m)で、これには大阪〜神戸間の鉄道に架かっていた「下十三橋」の錬鉄製70ft(約21.3m)ポニーワーレントラス22構が転用されたことが知られている(本件については「浜中津橋」及び「大宮橋」の項を参照されたい)。2代目の長柄橋は昭和10(1935)の架設。橋長656m、幅員20mで、上部工は上路ゲルバー式鋼鈑桁橋であった。第2次大戦末期の20年6月7日に爆撃を受けて橋の下に避難していた400人以上が犠牲になった。橋の南詰の観音像が犠牲者を供養している。橋も損傷したが、補修して使われ続けた。戦後の自動車交通の増大により長柄橋北詰交差点の渋滞が著しくなったため、長柄橋の途中から分岐する「長柄バイパス」が
図2 2代目と3代目が並列する長柄橋(国土地
 理院空中写真、昭和55年撮影)
図3 箱桁橋から分岐する長柄バイパス
建設された。完成は39年。北行き車線の右折交通を立体交差させるもので、大阪で最初の鋼床版連続曲線箱桁橋である。曲線半径40mというのはこの時期としては珍しい。
 46年に新たに淀川改修計画が策定された。洪水の確率を200年に1度にまで高めるために、堤防を高くするとともに低水路も川の中央に移し、川底を下げようとする内容であり、長柄橋もこれに基づいて架け替えられた。3代目の長柄橋は、58年の完成。橋長656.4m、幅員20.0mを有し、68.9+74.0+74.0+75.2mの4径間連続鋼床版橋、153.0mのニールセンローゼ橋、74.8mの単純鋼床版桁橋、69.4+60.7mの2径間連続鋼床版桁橋から成る。ニールセンローゼ橋は主構が内側に倒れた形状をしており、バスケットハンドル形式と呼ばれる。力学的にはねじり剛性が高まるという利点を持つ。2代目に取りついていた長柄バイパスは、3代目の単純鋼箱桁橋の部分から分岐するよう改造されている。
橋の中央支間に採用されているニールセンローゼ橋について言及しておこう。アーチ橋のうちアーチ部材と補剛桁が太く吊り材が細いものをローゼ(Lohse)橋と呼び、そのうち吊り材を斜めに張ったハンガー(ケーブルやロッド)に置き換えたものを、わが国ではニールセンローゼ橋と呼んでいる。昭和42(1967)年に架けられた「鏡川橋」が最初である。橋梁部材が視界を遮ることが少なく、走行性が良い。
 この形式について、わが国では、スウェーデンのニールセン(Octavius F. Nielsen)が1922年に提案したと説明されている。しかし、彼の作品を見ると、ハンガーは使用しているもののその張り方は異なり、それぞれのハンガーは他のハンガーと交差していない。これは、載荷などにより橋に変形が生じた場合に、ハンガーの張力を弛緩する方向に作用するという欠点を持つ。そのためもあって、この形式はスウェーデンで第2次世界大戦までに60橋ほどに採用されただけでそれ以上に広がることはなかった。 この欠点を解消する方法として、ハンガーに複数の交差を設けるアイデアがノルウェイのツヴェイト(Per Tveit、1930〜)により1955年ころに修士論文で発表された1)。こうすることで、この形式は効率的な橋梁形式としての評価を得、各地で架設されるに至った2)。ツヴェイトは、この形式はニールセンによるものと異なるとして、わが国でニールセンアーチと呼ぶのに異論を唱えている。国際的にはネットワークアーチと呼ばれているようだ。
 図6 空襲犠牲者と淀川の水難
  犠牲者を弔う観世音菩薩像
説・伝承の豊かな長柄橋には、それを記憶する石碑などが多い。まず、左岸側から見ていこう。3代目となる本橋の由来を記した扁額は、親柱の外側にさりげなくはめ込まれている(図4)。目立つのは、橋の南詰めに建つ大きな観世音菩薩像だ(図6)。昭和20年、2代目長柄橋は敵機の空襲を受けた。その弾痕を
図4 3代目となる本橋の由来を記した
 扁額
 図5 空襲の弾痕を残す2代目
  長柄橋の橋脚
残す橋脚を傍らに展示する(図5)。菩薩像は、その犠牲者と、併せて淀川の水難犠牲者の冥福を祈っている。
 右岸側には、明治42年に架けられた初代と昭和10年に架けられた2代目の記憶が留められている。
図8 初代長柄橋の親
 柱
親柱の外面には2代目長柄橋の扁額がはめこまれ、
 図7 右岸側親柱にはめられた2代目長
  柄橋の扁額
隣に長柄橋にちなむ古歌が2首記されている(図7)。そして、北詰めには初代長柄橋の親柱が残されている(図8)。
(2022.02.07)
   

1) 例えば、Per Tveit「IABSE lecture revised(https://home.uia.no/pert/data/IABSE%20lecture%20revised.pdf)」。

2)本形式の橋梁は各地にあるが、大阪での架設例としては、堂島水管橋(L=51.0m、昭和55(1980)年、右上図)、飛翔橋(L=103.6m、59年)、新浜寺大橋(L=254m、平成3(1991)年)、中島川橋(L=160.1m、3年)、神崎川橋(L=147.7m、3年)、大阪モノレール淀川橋梁(L=196.5m、7年)、西河原橋(L=80.0m、10年)、なぎさ橋(L=93.0m、10年)などが挙げられる。なお、ケーブルが交差しないニールセンローゼとして正平橋(L=61.0m、昭和54(1979)年、右下図)がある。