明石海峡の安全を守り続けた江埼灯台

明石海峡を望む江埼灯台、右手の木立の背後に明石海峡大橋の主塔がのぞく
 明石海峡は、兵庫県明石市と淡路市の間にある幅3.6kmの海峡で、潮流は7kt(13km/時)に及ぶ。大阪湾と瀬戸内海を結ぶ重要な航路に当たっており、1日に800隻以上の船舶が航行する。加えて、周辺はタイ・タコ・アナゴ・ハモなどの好漁場で、漁船・遊漁船もきわめて多い。そこに建つのが江埼灯台である。

図1 江埼灯台の位置
が国において西洋式灯台が建設されるようになった経緯はすでに紹介したが、江埼灯台は、慶応3(1867)年にイギリスとの間で結んだ「大坂約定」において建設が決定していた5灯台のひとつである。明治4(1871)年の初点灯というのはわが国で8番目、現存するうちでは3番目に古い。「灯台の父」と呼ばれるイギリス人のブラントン(Richard Henry Brunton、1841〜1901年)の設計によるもの。
 ブラントンはスコットランド生まれの土木技術者で、鉄道会社で働いていた時に日本政府の灯台建設技術者の募集に応募し、灯台設計で著名な家系のスティーブンソン兄弟(David Stevenson(1815〜1886年)、Thomas Stevenson(1818〜1887年))の技術事務所で灯台に関する研修を受けて、慶応4年、26歳の時に妻子と助手2名を伴って来日した。9年に離日するまでの間にスティーブンソン事務所の支援を受けて
図2 英語と日本語で初点灯日が記された銘板
26基の灯台、5基の灯竿、2艘の灯船を建設し、技術者を育成するための「修技校」を開設して後進の育成にも努めた。
路島北端の景勝の地、松帆の浦。明石海峡が荒れたときに帆船が風待ち・汐待ちしたのが地名の由来という。このすぐ西に江埼灯台はある。海岸沿いに走る県道福良江井岩屋線に設けられた灯台のモニュメントから、200段ほどの石段を登ったところにある。
 円筒形の灯塔と扇形の平屋根附属舎で形成される。石造であり、石材は家島(姫路市)の産。灯屋の高さは8.3mで小ぶりな印象である。灯火の水面からの高さも48.5mであるが、明石海峡を見下ろす絶好の立地にある。江埼灯台の灯火には特徴があって、62,000cdの白光と24,000cdの赤光が交互に5秒ずつ発せられる。
 図3 屋上の風向計と前庭の日時計
しかも、浅瀬が多く注意が必要な西側からは赤光しか見えないようになっており、船舶の位置確認を容易にしているという。無人化に伴い、操作員が駐在していた退息所は解体されている。高松市の「四国村1)」に移設されているそうだ。
 現在は、明石海峡を航行する船の安全を守る役割は、大阪湾海上交通センターに移っている。江埼灯台は、センターが不測の事態に陥ったときに代替できるよう、日々スタンバイしていると言うことだ。
図4 退息所(職員宿舎)の跡
た、淡路島北部は1995(平成7)年に発生した兵庫県南部地震の震源地である。江埼灯台も、直下に野島断層が走っていたので被害を受けたが、当初の外観を大きく損なわないようずれた石積みをモルタルで補強して使用している。灯台に通じる石段も最小限に補修して、移動した状態を残している。
 ところで、江埼灯台は、世界でも最初期の免震装置を採用していることでも知られている。レンズの直下に直径2.5mほどの2枚の鉄板を置きその間に鋼球を挟んでいるのだという。トーマス・スティーブンソンの「Lighthouse Construction and Illumination」で紹介されているそうだが、考案者は兄のデビッドらしい。
 明治期、わが国の建設事業はおもに外国人技術者の指導で進められたが、多くの外国人技術者は、ヨーロッパの技術をそのまま日本に持ち込み、わが国で多発する地震を考慮しなければならないことに気づかなかった。
図5 ずれた石をモルタルで補修している 図6 地震で移動した状態を保存している石段
一方、当時のイギリスは世界の海を支配しており、各地で灯台を建設していたスティーブンソン事務所は、その地の特性を考慮しなければならないことに気づいていたのであろう。鋼球の動きを制御する仕組みを持たない江埼灯台の免震構造がどれほど有効なのかは疑問だが、それを導入しようとする態度には敬服する。
(2022.01.05)
   

1) 公益財団法人四国民家博物館が運営する古建築の屋外型博物館。1976(昭和51)年に開館。