七反田橋りょうに見る水災との向きあい方

6連のアーチ橋からなる七反田橋りょうの南から2連目〜6連目
 明治10(1874)年に全通した京阪間のJR線は、その後の線路増設や施設更新などにより、当初からの改変が著しい。その中でもいくつかの煉瓦構造物は開業時の姿をとどめており、10件が平成29(2017)に土木学会選奨土木遺産に認定されている。今回は、そのうち最大の規模をもつ七反田橋りょうを長岡京市に訪ねた。

阪〜京都間の鉄道敷設は明治6(1873)年から始まった。大阪駅を出て十三川を渡り淀川右岸の低地を走り桂川を渡って京都に至るルートであった。英国人技師が工区を分担して工事を進め、9年に大阪〜向日町間が開業し10年に全線開業を果たした。沿線はほとんどが水田で、北摂山地から淀川に流れる中小河川を錬鉄鈑桁橋と煉瓦アーチ橋で越えた。錬鉄は輸入に頼らざるを得な
 図1 国土地理院旧版地図に見る市街化以前の
  七反田橋りょうの周辺(大正11年測図「京都西南
  部」)
かったが、煉瓦は葛野郡川田村大字川島(現在の京都市西京区川島付近)に設けた直轄工場から納入された。
 本稿で紹介する七反田橋りょうは、長岡京駅から北に600mほど行ったところにある。径間4.57mの煉瓦アーチ橋6連でできている。6連というのは、大阪〜京都間の煉瓦アーチ橋のうち現認できる範囲で1)最大の規模だ。南から数えて1連目が水路+歩道、2連目と3連目が車道、4連目と5連目は物置場のように用いられ、6連目が水路となっている。当地が市街化する以前の状況は図1のようであって、小径を1本横断しているほかは田圃の中を通っていると言ってよい。従って、横断という観点から6連の橋梁の必要性を説明するのは難しい。
 また、この橋梁の特徴として、鋭角な石を配した「水切り」を橋脚の西側に設けている(図2)ことが挙げられる。陸上の橋でありながら西から流れてくる水への対応を想定していることを意味する。
はこの橋梁は、
 図2 七反田橋りょうの橋脚に設
  けられた水切り(南から2連目の
  北側壁を撮影、よって写真の左
  が西側)
近くを流れる小畑川の氾濫に備えた「避溢橋」なのである。避溢橋について図3で説明すると、鉄道が河川と交差する付近で連続した盛土構造であったなら、渡河地点より上流で河川が氾濫したときに、あふれた水が築堤にさえぎられて行き場を失い、長期間にわたって滞留することになる。これを避けるために盛土の一部を橋梁にしておくのである。
 七反田橋りょうの規模が最大と言うことは、小畑川の氾濫が大規模なものと想定されていたということにほかならない。現在は、京都府の河川整備が進んで、概ね1時間50mmの降雨に対する整備率は100%になっているが、古来、小畑川は洪水の多いことで知られていた。図1で西国街道が小畑川を渡るところに「一文橋」の記載があるが、この名は、この橋があまりにしばしば流出して架け替えに費用がかかるため、通行料を徴したことに由来する。この運用は、西国街道が成立した室町時代から続いていたと地元では伝える。
 では、なぜ小畑川は激しい氾濫を繰り返したのだろうか。ここからは推測の域を出ないが、ヒントはいくつかある。小畑川は、京都市西京区と
 図3 避溢橋が
  ないと洪水時の
  冠水が長期化
  する
亀岡市との境に位置する老ノ坂峠に源を発し、両側にかなりの幅を持つ氾濫原を発達させながら一文橋付近まで流れ、ここで南に向きを変えて大山崎町で桂川に注ぐ。しかし、この南流部分は、地域の微地形からみて不自然だという指摘がなされており(長岡京市史編さん委員会「長岡京市史−資料編1」)、人工的に流路を付け替えた可能性が示唆される。この付近で人工的な自然改変があったとすれば、それは長岡京の造営以外に考えられない。
岡京は、延暦3(784)年に桓武天皇が奈良の平城京から移幸されることにより遷された都である。その規模は、東西4.3km、南北5.3kmで平城京よりも大きく、ほぼ平安京に匹敵する。図4は、長岡京の条坊を現在の地形に落としたものであるが、小畑川はかつての朱雀大路の近くを流れていることに気づく。
 図4 長岡京の条坊と現在の地形の
  関係(乙訓文化財事務連絡協議会
  「長岡京跡」をもとに作成)
長岡京の造営に当たって、元来の流路を変更して朱雀大路と並行するように付け替えられたのではないかという推測が働く。
 天皇の詔(みことのり)に「朕以水陸之便遷都慈邑」とあり、水陸の便がこの地を選んだ理由とされている。宮城は京域より15mほど高い乙訓丘陵に築かれ、おのずと天皇の権威を示すことができた。交通の面からは、長岡京は山陰道・山陽道・東山道などに簡単に結ばれる位置にある。また、南に淀川に面し、効率的な舟運が利用できる。この点は平城京には期待できないメリットである。もし小畑川が朱雀大路に沿って流れておれば、外国の使節が舟に乗ったまま謁見に向かうことも可能であった。また、発掘調査の結果からは、ほぼ各戸に井戸が見つかっており、道路の側溝に下水を流すようにもされていた。側溝は自然の傾斜に従って東または南に流れて桂川に向かう。この衛生的な環境も平城京にはなかった水利用のメリットと言えるであろう。長岡京は、桓武天皇にとって、平城京の欠点を克服する理想の都であったに違いない。造営中にもかかわらずいち早く遷都したのも、都城が整備されていく姿をその目にしたいとの強い思いがあったからではなかったろうか。
 しかし、長岡京の造営は順調ではなかった。遷都の翌年に、造営の責任者である藤原 種継が暗殺されるという事件が起こる。そして、天皇の皇太弟にあたる早良親王がこの事件に関与していたとして捕らえられ、淡路に配流となる途中で非業の死を遂げる。親王の死後、日照りによる飢饉や疫病の流行のほか、天皇の近親者の相次ぐ死去・発病など、さまざまな変事が起こった。これらは早良親王の怨霊によるものと考え、再遷都を決定するに至った。というのが、日本史の教科書の記述である。
 一方、国の正式な歴史書でない「日本紀略」2)には、延暦11(792)年に都を流れる川が増水して式部省の南門が倒壊するなどの被害を受けたことや氾濫した桂川を視察するため天皇が行幸したことも記録されている(この時点では桂川は京域外を流れるように付け替えられていた可能性が高い)。長岡京は災害に弱かったのだ。長岡京の造営に際して行った河川改修が当時の技術水準を超える大胆なものであって、想定以上の降雨に対応できなかったとは考えられないか。この土木工事の失敗の故に都城が放棄されたというのが再遷都の真相ではないかとの推理が土木史の視点からは成立すると思える。
史の話が長くなってしまったが、結果として宮跡には不自然な流路をもつ小畑川が残された。おそらくそのために小畑川は洪水を繰り返した。避溢橋は、災害を抑え込むことを期待するのではなく、一定の被害が生ずるのを前提にその激甚化を抑制しようとする発想で成立する構造物である。人の力で太刀打ちできない自然の力に対するひとつの向きあい方を示すものだ。避溢橋の考え方は、あるいは英国人技師がわが国にもたらしたものかも知れない。しかし、災害の多いわが国によく適合し、その後の鉄道や道路の建設によく用いられる手法となっている。

(参考文献) 松浦 茂樹「古代の宮都の移転と河川−長岡京、平安京への遷都を中心に−」(日本治山治水協会「水利科学」37巻2号所収)
                                                 (2021.02.15)


1) 明治25(1982)年に鉄道庁がまとめた「鉄道線路各種建造物明細録」によると、桂川右岸の下津林に25連の煉瓦アーチからなる避溢橋があることになっている。イタリア公使であったバルボラーニが14年に帰国する際に持ち帰った右の写真(出典:マリサ・ディ・ルッソ、石黒 敬章「大日本全国名所一覧−イタリア公使秘蔵の明治写真帖」(平凡社))がそれだと思われる。しかし、当該位置は現在は盛土になっており、その存否を確認することができない。

2) 11世紀後半から12世紀頃に成立した全34巻からなる歴史書。編者不明。正式な歴史書である「続日本紀」では欠落している藤原種継暗殺から早良親王排除の事情に触れた部分も記して貴重である(続日本紀は第1巻から第4巻が欠本になっている)。