わが国で最古の煉瓦トンネル、鐘ヶ坂隧道

築造当時の面影を残す篠山側のポータル
 丹波市と丹波篠山市の境界に、明治16(1883)年に開通した道路トンネルがある。わが国に残る最古の煉瓦トンネルと言われる。明治初期といえば鉄道に集中的に投資された時代。この時代に地元の強い熱意でいち早く取り組まれた道路整備の事例を紹介する。

庫県の多紀郡(現在の丹波篠山市)と氷上郡(現在の丹波市)の境にある鐘ヶ坂峠は、丹波街道の難所として知られていた。荷車が通れないほどの険路で、ために物資の輸送に不便をきたしていた。これを克服しようと、当時の氷上郡長 田 艇吉1)が多紀郡長 園田 多祐らと協議して、明治12(1879)年に県道を荷車が通れるように改修してトンネルを建設する事業を発起。翌年12月に請願が許可されて工事に着手し、2年10か月を費やして16年9月に完成した。このトンネルが「鐘ヶ坂隧道」だ。わが国に残る最古の煉瓦造りトンネルで、完成時の諸元は延長147間(約267.2m)、幅員13尺6寸〜15尺(約4.1〜4.5m)、天頂部の高さ11〜14尺(約3.6〜4.2m)。自動車のない時代としては高規格であった。
 この時代には市販の煉瓦というものはなかった2)。北麓の柏原(かいばら)町上小倉に3基の窯を特設し、鹿児島から呼び寄せた職人が焼成したという。幕末には、薩摩を始めとする雄藩は独自に西洋の技術を移入して軍備を増強しており、煉瓦の焼成技術も有していたのであろう。全長の内84間余に煉瓦を巻き、
 図1 柏原側に掲げられた「鑿山化居」(上)
  と篠山側の「事成自同」の扁額
約28万枚の煉瓦が人力や牛車で現場まで運ばれた。
 施工は大阪の藤田組が請け負った。藤田組と言えば、初めて日本人の力だけで掘った東海道線逢坂山トンネル(13年完成)を完遂した技術者集団。その技術力でもって無事故・無災害で竣工に至ったという。従事した作業員は6万3,000人と記録されている。工費は約4万円で、その半分は両郡の有志の寄付によったという。両坑口は石材で築かれた。丹波市側には太政大臣 三条 実美の揮毫による「鑿山化居」、丹波篠山市側には有栖川宮熾仁親王の揮毫による「事成自同」と記された銘板が、それぞれ掲げられた。こうして、完成した鐘ヶ坂隧道は、16年10月に開通式が挙行され、農商務卿 西郷 従道が臨席した。
ヶ坂隧道へは、JR福知山線の柏原駅3)から東南に進む。鐘ヶ坂峠には、本稿で紹介する鐘ヶ坂隧道(現地では「明治のトンネル」と案内されている)のほか、昭和42(1967)に開通した「鐘ヶ坂トンネル」
 図2 鐘ヶ坂峠に掘られた3時代の
  トンネル
(L=455m、通称「昭和のトンネル」)と平成17(2005)年から供用されている「新鐘ヶ坂トンネル」(L=1012m、通称「平成のトンネル」)の3本が通っている(図2)。このうち鐘ヶ坂隧道に向かうには、まず「鐘ヶ坂公園」を目指す。国道176号から右に分かれた旧道が左に折れて国道の下をくぐり柏原川に沿って緩やかに上る先にそれはある。ここから遊歩道になった旧道を進むといったん昭和のトンネルに合流し、さらに分かれてヘアピンカーブを折り返すと明治のトンネルである。
 一見して、坑門が扁額を残して厚さ50cmほどのコンクリートで固められているのに気づく。また、現在の坑口は先述の完成時の大きさよりも高いようだ。この2つの事象には関連があって、バスを通すために昭和18年にトンネルを1.7m掘り下げるという改築を行ったところ、
 図3 厚いコンクリートで補強された柏原側のポータル、そ
  の奥から扁額が覗く
このために坑門工が不安定になって背後の土圧で崩壊の危険にさらされたのでコンクリートで補修したということのようだ。
 内部はすべて煉瓦造りである。側壁は小口と長手の段を交互に積むイギリス式であるが、おもしろいことに、坑口からしばらくの間は高さが連続的に変化するように薄く加工した煉瓦をはさんでいる(図4)。他に例を見ない特異な技法だ。このように積むことにより、トンネルの高さが坑口に向かって開いていくことになる。明かりからトンネルに入るときの圧迫感を和らげようとする措置なのかと想像するが本当のところはわからない。
 トンネルの前はちょっとした広場になっていて、傍らには大きな石碑が2つ建っている。図5の碑は、本トンネルに係る
図4 薄く加工したバチ型の煉瓦を挟んだ
 側壁、写真の右が坑口側
 図5 氷上郡から本事業に寄付した者の
  名をを刻んだ碑
県道改修に費用を拠出した氷上郡の有志のリストである。旧藩主の織田 信親が200円を寄付するなど、合計14,961円を負担したとある。両郡からの寄付金額2万円の3/4が氷上郡のものであったのだ。丹波で最大の城下町であった篠山とのつながりが強化されることで、氷上郡側の経済効果が大きかったのであろ
 図6 県道改修の経緯を記し
  た碑
う。図6の碑は「鐘坂隧道碑」と題しており、隧道建設の経緯などを記しているらしい。本トンネルの開通の喜びは大きく、沿道に桜を植えたとある。現在の鐘ヶ坂公園の前身である。
ンネルの内部は柵があって通り抜けできないので、少し戻って平成のトンネルを通って篠山側に向かう。トンネル出口からすぐの信号交差点を右折して旧道を上ると、昭和のトンネルがある。その右からさらに上るとほどなく明治のトンネルが見えてくる。こちらは、坑門の補修が行われておらず、明治時代の面影を残している。標題の写真に見るように、石造りの2本の壁柱(ピラスター)が強調されたデザインで、それがアーチを構成する迫石を受けるという稀有な形になっている4)。地形が厳しくて坑門に十分な幅が確保できなかったのであろう。胸壁には煉瓦が用いられている。そこに掲げられた扁額の文字が力強い。
 坑口の右に石標が埋め込んであって(図7)、この事業に寄付した多紀郡の関係者の名が刻まれている。多紀郡にとってもこのトンネルは意義があった。篠山川は深い渓谷であって水運に適しなかったため、多紀郡の産物はどこに移出するにも人がかついで峠を越えなければならず、輸送コストを要して安い価格でしか出荷できなかった。トンネルを
 図7 多紀郡から本事業に寄付した者の名
  を刻んだ碑
 図8 連続的に厚さの変化する煉瓦を挟
  んだ側壁、写真の左が坑口側
通って柏原まで荷車で運べれば、その後は加古川の水運を利用することで輸送コストの低減が期待できたのである。
 内部の煉瓦の積み方は柏原側と似ている(図8)が、煉瓦のサイズが異なるようだ。柏原側では厚みが約5cmであっていわゆる「こんにゃく煉瓦」5)に近かったのに対し、篠山側では7cm近くある。煉瓦の劣化度にも差があるように見える。柏原側の煉瓦が当初の施工によるもので、篠山側の煉瓦は後に追築されたものであろう。
トンネルは、昭和のトンネルの開通に伴って役割を終えた。かつては坑口が土砂に埋もれたまま放置されていたこともあったが、平成のトンネルの施行を契機に本トンネルが貴重な土木遺産であることが再認識され、丹波市側にボランティア組織が結成されて鐘ヶ坂公園の管理・清掃が継続的に行われている。また、ここを会場にしたイベントも定期的に開催され、その際にはボランティアガイドの案内によりトンネルの通り抜けも企画される。平成22年度には、土木学会選奨土木遺産にも認定された。

(参考文献) 松井 拳堂「柏原町志」(町志編纂委員会)
                                       (2021.03.31)


1) 田 艇吉(嘉永5(1852)〜昭和13(1938)年)は、氷上郡柏原藩下小倉村の大庄屋の家に生まれ、若くして村の自治に携わって明治12(1879)年に兵庫県会議員に当選。その後、氷上郡長などを歴任し、24年から4期にわたって衆議院議員も務めた。鐘ヶ坂隧道のほか、阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)の敷設にも参画して代表取締役社長に就任している。このほか、帝国電灯・柏原合同銀行の創設など、経済面での丹波地方の近代化にも尽力した。JR柏原駅前に像が建つ(右図)。

2) わが国で煉瓦工場が稼働するのは、渋沢 栄一が深谷市に明治20(1887)年に設立した「日本煉瓦製造会社」が最初だとされている。

3) 柏原駅舎は、平成2(1990)年に開催された「国際花と緑の博覧会」で運行された「ドリームエキスプレス」の「山の駅」を移築したもの。

4) 丹南町史編纂委員会「丹南町史」に収められた園田家所蔵の絵図によると、今はコンクリートでおおわれている柏原側の坑門も、扁額の文字が異なるだけで同じデザインであった。

5) オランダ海軍に所属したハルデス(Hendrik Hardes、1815〜1871年)が、長崎に製鉄所(文久元(1861)年完成)を建設するために製造した煉瓦が、焼成温度の限界から厚さ4cm程度にとどめざるを得なかったことから呼ばれるようになった俗称。