日吉大社にあるわが国最古の構造的石橋群

西本宮の参道に架かる大宮橋
 大津市坂本にある「日吉大社」は、全国に3,800社以上もあるという日吉神社・日枝神社・山王神社の総本宮である。約400,000m2に及ぶ広大な境内を貫いて比叡山を源流とする大宮川が流れるが、そこに「日吉三橋」と総称される3基の石橋が架かっている。いずれも重要文化財である。

吉大社の創祀は第10代崇神天皇の7(BC91)年と伝える。国宝になっている「東本宮」の祭神である「大山咋神(おおやまくいのかみ)」は、当社の背後にある八王子山(H=381m)の「金大巌(こがねのおおいわ)」という磐座(いわくら)に降り立ったという比叡山の地主神で、古事記にその名が記されているという。もうひとつの国宝である「西本宮」が祀る「大己貴神(おおなむちのかみ)」は、天智天皇7(668)年に大津宮造営にあたって国家鎮護のために大和から大神(おおみわ)神社の神霊を迎え祀ったものである。以降、元々の神である東本宮の大山咋神よりも西本宮の大己貴神の方が上位であると見なされるようになり、西本宮を「大宮」と呼ぶようになった。
 また、延暦7(788)年に伝教大師最澄が後に「延暦寺」となる「比叡山寺」を開いてからは、その護法神として崇敬を集めた。その後、延暦寺の勢いが盛んになるにつれ神仏習合が進み、当社の神は唐の天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君と一体と考えられるようになった。折からの本地垂迹説1)もあって当社は寺院と同様に扱われるようになり、朝廷への強訴の際には当社の御輿が延暦寺の僧兵により担ぎ出された。延暦寺の強大な勢力を嫌った織田 信長は、元亀2(1571)年に「比叡山焼き討ち」を敢行する。これにより当社も灰燼に帰した。従って、現存する社殿は桃山時代のものが多い。豊臣 秀吉は幼名を「日吉丸」といったことから当社を大切にし、再建に尽力したらしい。ただし、僧兵を置かないことを条件にした。
稿で紹介する3橋も天正年間(1573〜92年)に秀吉により寄進されたと伝える。当初は木橋であったが、寛文9(1669)年に現在の石橋に架け替えられた。爾来、350余年にわたってその姿を保っており、構造的な石橋としてはわが国で最も古いとされている。石造ながら木橋の構造そのままに造作されているのがおもしろい。ただし、その石の組
 図1 大宮橋の橋面、高欄を装飾的に加工している
み方はそれぞれに少しずつ異なるので、個々に見ていこう。
 最初に、3橋のうち最も加工度の高い「大宮橋」を見る。西本宮に向かう参道にかかる花崗岩製の石造反橋で、橋長13.9m、幅員5.0mを測る。3列の円柱から成る4本の橋脚の上に3本の弧状に湾曲した桁を架け(それぞれの桁は継ぎ目をZ状に加工した3本の石材でできている)、その上に渡した横桁の上に床板が縦向きに並べられている。3列の橋脚は貫(ぬき)と呼ばれる横連結材でつないでいるが、ほぞとほぞ穴の隙間を埋める楔まですべて石で作りあげている。また、格座間(こうざま)を彫り抜いた高欄をつけているのも
 図2 走井橋の側方観、床板だけで荷重を受ける簡素な構造だ
きわめて手の込んだ作りだ。
 そのすぐ下流に架かるのは「走井橋」である。天下四方の罪穢れを水によって祓い清めるという「走井祓殿社」に渡る橋で、3列の方柱を並べた2本の橋脚の頭に横梁をおいて縦向きに床板をかけるという簡素な作りになっている。よって、床板が非常に長く、これを弧状に加工することにより反りを出している。欄干もない。軽快な印象を受ける橋である。橋長13.8m、幅員4.6m。
 最も下流にあるのが「二宮橋」だ。東本宮に向かう参道に架かる。大宮橋とほぼ同規模の橋長13.9m、幅員5.0mを測る。橋脚は、大宮橋と同様に3列の円柱からなるが、貫はない。各列の4本の橋脚の上に水平に縦桁を置いている点も大宮橋と異なる。その上に横桁を置きさらに縦に3本の桁を渡して橋板を横向きにはめ込んでいる。きわめて重厚な作りだ。横桁の高さを変えることにより橋面の反りに対応している。欄干には彫りがなく、削り出しの四つの擬宝珠が付いている。
 図3 東本宮に向かう二宮橋の側方観と正面観

 図4 坂本の町の各所に見られる穴太衆積みの
  石垣、写真は芙蓉園のもの
吉三橋の高度な技術は「穴太(あのう)衆」の手によるものと考えられている。穴太衆とは、坂本を拠点に活躍した石工集団で、信長に召されて安土城の造営に参画してからその実力が広く認められ、寺院や城郭などの石垣の施工に腕をふるった。もともとは阿波の出身と伝えるが、最澄が比叡山に延暦寺を開創するに当たって開墾のための土木工事を担当し、伽藍の基礎、参道の土留石積み、井戸の構築などを通じて石積みに特化した集団を形成するようになったと考えられている。穴太衆といえば、大小さまざまの自然石をそのまま積み上げてなおかつ堅牢な石垣を作る「穴太衆積み」2)を思い浮かべるが、それは彼らの伝統的な技術の一部に過ぎないのであって、日吉三橋のような精緻な加工ももちろん得意とするのである。
 一方、日吉三橋がそれぞれ異なる3様の構築方法でもって架橋されていることは、石材を知悉した彼らでもってしても石橋の合理的な架設方法が見いだせなかったことを暗示しているのかも知れない。中国でもヨーロッパでも石材はアーチ橋の材料として用いられたが、アーチ橋が九州・沖縄を除いて3)知られていなかったわが国では、桁や床版に重い部材を必要とする桁橋や床版橋形式の石橋は発達しなかった。庭園などの限られた場面で装飾的に用いられた他は、実用的な橋梁は木材により架設される時代が続くのである。
                                                  (2021.01.07)

1) わが国において神仏の関係を説く思想。神は衆生を救済するために仏が姿を変えてこの世に現れたもの(垂迹)、仏は神の本来のあり方(本地)であり、 両者は究極的には同体不可分の関係と説く。

2) 穴太衆積みに見られる自然石を用いた乱積み構架法は、朝鮮半島の高句麗や百済に類似のものが存するという。穴太衆も半島からの渡来人であった可能性がある。

3) わが国での石造アーチ橋は寛永20(1643)年に長崎に架けられた「眼鏡鏡」が著名であるが、当時 琉球王国であった沖縄には那覇市の円覚寺に「天女橋」(尚真王26(1502)年)が現存しており、これが最古の石造アーチ橋と考えられる。ただし、いずれも中国人技術者によるものである。