「天皇の池」

 澄んだ水を湛える「天皇の池」
 神戸市水道は、六甲山から流れ出る清冽な水を使用しているので、水質がよいことで知られている。しかも、市の水道関係者は、さらに清澄な水を確保するための工夫を凝らしていたのだった。今回は、市の水道事業の経験を踏まえて整備されたと考えられる「武庫離宮」の水道設備の遺構を、須磨区の天井川上流に訪ねた。

磨の地は畿内の最西端にあり、都を逃れてきた貴人伝説の豊富なところである。良く知られているのは、平城天皇の孫にあたる在原 行平(「伊勢物語」の主人公とされる業平の兄、弘仁9(818)〜寛平5(893)年)が光孝天皇の怒りをかって須磨に配流された際(仁和3(887)年)に、汐汲みに来る村の娘たちを愛するようになり、彼女らを松風、村雨と呼んだという逸話1)。彼女らの庵の跡が堂宇として残り、地名にもなっている。また、須磨は瀬戸内海に開けた風光明媚な地でもあり、行平が月見をしたという高台が月見山という名で「須磨離宮公園」の一角に残っている。
 この須磨離宮公園には、もともとは天皇の宿泊を目的とした皇室の別荘「武庫離宮」があった。建設は大正3(1914)年で、設計者は宮廷建築家として名高い片山 東熊。不幸にも昭和20(1945)年の戦災で焼失したが、それまでの約30年間、大正天皇・皇后両陛下や昭和天皇(当時は皇太子)のほか、満州国の康徳帝(愛新覚羅 溥儀(ふぎ))らが利用した。戦後、駐留軍がその土地を約10年間射撃場として使ったのち、神戸市が返還を受けて42年に公園を開設したのである。
 この地が離宮に選ばれたのは、眺望の良さに加えて良質の水源があったからだといわれる。離宮の傍らを流れる天井川の水質を事前に調査した侍医寮はこれを理想的と評した。当時は当地に水道施設はまだなく、離宮の建設に併せて上流に堰堤を作って河川水と湧水を貯留し、そこから導水管で離宮まで導くことにより浄水を確保することとした。
 図1 武庫離宮の水道施設と周辺の現況
参考文献1によれば、堰堤の高さは5.5m、貯水量は715m3であるという。貯留地からは、3in(約75mm)の管で離宮敷地内の浄水場まで導いた。ここに沈殿池・濾過池・配水池を設け、離宮内の各施設に配水した。1日当たりの最大給水量は2,500立方尺(約70m3)で設計されていたそうだ。
 水源である貯水池は絶えず清浄に保たねばならない。濁水が流れ込まないように、その上流には3基の石積みの砂防堤が設けられた。しかし、花崗岩を主体とする六甲山系は特に浸食の激しいところである。砂防堤があったにも拘わらず、早くも大正5年頃には豪雨で埋没してしまったようだ。このような被害の再発を避けるため、6年に貯水池の上流から濁水をバイパスさせるトンネルが追加された。実は、貯水池の汚濁を防ぐバイパス水路は、神戸市水道では早くから行われていたのである。神戸市水道は明治33(1900)に完成した布引五本松堰堤をもって始まりとするが、やはり堆砂に悩まされたらしい。そこで2番目に作られた烏原堰堤(38年)では排砂のためのバイパス水路を計画した。そして布引五本松堰堤でも、39年からバイパス水路の追加が行われ、41年に完成させている2)。よって、離宮水道の貯水池に設けられたバイパス水路もこれらの経験を踏まえて施行されたものと想像される。なお、参考文献2によると、布引五本松堰堤で平成14(2002)年に堆砂を浚渫したときの調査から、バイパス水路を設置した以降は堆積の速度が著しく緩やかになっていたことが明らかであると読みとれる。
 以上により、武庫離宮の水道施設は、小規模ではあるものの、ひとつの完結したシステムを構成しており、当時の最新の知見を反映したものであると言うことができよう。
は、現地を訪れて武庫離宮の水道施設の現況を調べてみよう。離宮水道の貯水池はいつしか「天皇の池」と呼ばれるようになっていた。天皇の池は、3号神戸線の終端にある月見山ランプから天井川に沿って1kmほどさかのぼったところにある。石造の堰堤は完全な姿で残っている。長く使ってないのでもちろん荒れているが、たまっている水は池畔の木々を映して透明だ(標題の写真)。その上流左岸側にバイパス水路のトンネル呑口がある。図2のように、バイパス水路は周辺より切り下がったところを流れており、バイパスと言うよりは河川水はすべてトンネルに流れ込むように付け替えられていると見えた。貯水池は湧水だけを貯留するように改変されたのであろう。トンネルは、基本はコンクリート製であるが、坑口には迫石が施され、一部は盾型に整形されている。壁面はコンクリートでありこのような加工の必然性は乏しく、恐らくクラシックな印象を与える効果をねらったものと思われる。また、トンネルにはモルタルのインバートが施工されていたが、現状では洗掘によりコンクリートが割れて下の岩が露出している。
 天皇の池の上流方向には200m足らずの間に3基の砂防堤が確認できた。そのうち最も規模の大きい2番目のものを図4に示す。損壊している箇所もあるが、50cm程度の石塊を積み上げて堰堤とし、砂の流出を防止していたことがわかる。
図2 バイパス水路のトンネル呑口、右の擁壁の先に貯水池がある 図3 トンネルの吐口、呑口とデザインは同じ 図4 砂防堤の例、石塊の間から滲出する 水を流下させていたようだ
 天皇の池から浄水場へは導水管が通じていたはずだが、撤去または流失して確認できなかった。登山道を修築するのに管を利用している箇所があり(図5)、観察したところ内径約7.5cmの鋳鉄管であった。近くで拾得した導水管であると思われる。登山道の対岸に大きな岩塊を切削している所があり(図6)、ここに導水管を布設していたものと思われる。
 浄水池の施設は、離宮の敷地の最も高いところにあり、現在は須磨離宮公園の「子供の森」というアスレチックになっている。施設はすべて撤去されており、ただ階段が1つ残されているだけである。浄水場があったという説明看板がその傍らに設置されている(図7)。
図5 導水管が登山道の補修に転用されていた 図6 岩塊に水平に掘られた溝、ここに導水管を敷設していたらしい 図7 浄水場の跡、施設は全て撤去されて階段だけが残っている
図8 須磨離宮公園にある隧道、盾型の迫石を用いるなどバイパス水路トンネルと類似している
 水道施設との関係は乏しいが、離宮公園内に「隧道」が残っている(図8)。非常時の避難通路として設けられたとされている。バイパス水路のトンネルと異なり内部は煉瓦巻きであるが、坑口の外観はよく似ている。同一の技師が関与した可能性がある。


(参考文献)
1 松下 眞ほか「旧・武庫離宮の水道施設」(土木学会「第31回土木史研究講演集」所収)
2 松下 眞「神戸市の古典的水道ダムにおける排砂バイパス水路」(土木学会「第40回土木史研究講演集」所収)

1) この逸話は、源氏物語において須磨に退去した光源氏の境遇を描写する場面で参照されているほか、行平が都に戻った後に残された松風・村雨の悲恋の情が謡曲や浄瑠璃・歌舞伎のテーマとして扱われて著名になった。

2) 明治41年に行われた改良の概要は右のとおりで、貯水池の上流部からほぼトンネルでバイパス水路を設けた。なお、貯水池に導く水路に濾過装置も設けたが、これはうまく機能したとは言えないようだ。


                                   (2020.11.30)