み  こ  ばた

神子畑鋳鉄橋・羽渕鋳鉄橋

上流右岸側から見た神子畑鋳鉄橋
 鋳鉄(cast iron)は、溶融した鉄を鋳型に流し込むことにより複雑な形状のものも作れるすぐれた形成手法である。鉄材を用いた橋梁についても、最初はこの方法で加工された。鋼鉄が一般化した今では鋳鉄の実例は多くはないが、わが国で現存する最古の鋳鉄橋を見るため朝来市を訪れた。


 図1 神子畑鋳鉄橋及び羽渕鋳鉄橋の位置及び周辺の現況

戸時代末期のわが国の鉱業は疲弊していた。明治政府は、主要な鉱山を官営に移し、外国人技師を招聘して鉱業の近代化を図った。その第1号となった生野銀山は、明治9(1876)年に操業を開始している。その生野銀山の産出が減少し始めたころ、それを補うものとして神子畑鉱山で採掘が開始された。神子畑鉱山は、戦国時代には栄えていたそうだが、生野銀山の繁栄でその地位を奪われる形で休山していたのを、五代 友厚が旧坑の存在を聞きつけ部下に探鉱を指示していたものだった。これを明治政府が14年から開発したのである。生野鉱山の支山という位置づけであった。
 表1 神子畑〜生野間の鉱山道路に架けられた橋梁
名  称 構     造 橋長 現状
神子畑鋳鉄橋 鋳鉄製上路アーチ橋 15.997m 解体復元
吊橋 鋳鉄製吊り橋 不明 流出
羽渕鋳鉄橋 鋳鉄製2径間上路アーチ橋 18.275m 解体移設
金木鋳鉄橋 鋳鉄製2径間上路アーチ橋  約9m 撤去
無名橋 鋳鉄製下路アーチ橋  約4m 撤去
 (現地の説明版を元に作成)
 神子畑鉱山で採掘された鉱石は生野精錬所まで運ぶ必要があった。その運搬のために延長4里4丁55間(約16.2km)、幅員2間(約3.6m)の鉱山道路が計画され、16年から建設を始め18年に完成した。総工費は4万円だったという。鉱山道路には表-1に示す5本の橋梁が架けられたが、いずれも鋳鉄製であった。別稿で紹介した「生野銀山寮馬車道」(通称「銀の馬車道」、9年開通)に架けられた22橋が木橋と土橋であったのに比べて著しく近代化されているのが注目される。横須賀製鉄所で作られて飾磨まで回航し、そこから現地まで陸送した。現地で個々の鋳造品がボルトで結合されたようだ。
子畑鋳鉄橋は、JR播但線新井(にい)駅から朝来(あさご)市が運行するコミュニティバスに乗って7.5kmのところにある。表題の写真がそれだ。昭和52(1977)に国指定の重要文化財になっている。54年に国・県の補助を受けての調査、57年から翌年にかけて保存のための解体修理が行われた。
 図2 神子畑鋳鉄橋の橋面と桁裏
 鉄橋の材質は鋳鉄→錬鉄→鋼鉄と発展してきた歴史がある。わが国に現存する鉄橋として最も古いのは大阪の心斎橋(明治6年)で錬鉄製、2番目は東京の弾正橋(11年)で錬鋳混用であった。明治18年に完成した本橋は3番目に当たるが、鋳鉄製としては最も古いことになる。本橋は、鋳鉄から錬鉄への移行の過程
 表2 神子畑に関連する鉱業及び鉱石輸送の変遷
  鉱業の変遷 鉱石輸送の変遷



1881

1889

1896
1900

神子畑鉱山が開山

皇室財産として宮内省に移管

三菱合資会社に払い下げ
神子畑の奥で明延鉱山が開山

1885

1891

神子畑鉱山から生野精錬所までの鉱山道路が開通
馬車鉄道に改良


1917
1919

1922
神子畑鉱山が閉山
明延鉱山の増産に伴い神子畑に大規模な選鉱場を開設
香川県直島に三菱の精錬所が新設されたことにより生野精錬所を廃止



1921



馬車鉄道を播但鉄道新井駅に結び(神新軌道)、新井から飾磨港までを貨車輸送とする









1987






明延鉱山が閉山、神子畑選鉱場は閉鎖
1929

1933


1957
明延鉱山の鉱石を神子畑に送る明神軌道が開通
馬車を内燃化する


鉱石の運搬をトラック輸送に変更し神新軌道を廃止
平成 2004 神子畑選鉱場を解体除去    
において建設されたものであり、鋳鉄橋としては最終段階のものであるといえよう。なお、本橋の設計・施工に外国人の関与は記録されていないが、その優美な姿からして、鉱山の開発に当たったフランス人技師の指導があったことは明らかであると思われる。
 鉱山道路での運搬には、当初は牛車と人力による手引車が用いられていたが、後には馬車になった。明治22(1887)年に行われた鉱山の操業調査の結果、輸送コストを下げるために馬車道は24年に馬車鉄道に改良され、神子畑鋳鉄橋には軌道が敷設された。また、大正10(1921)年には、生野まで行くのをやめて播但線新井駅に接続するように付替えられ(これにより「神新軌道」と呼ばれるようになった)、新井から飾磨港までは鉄道貨物による輸送に変更された。さらに昭和8(1933)年には馬車を内燃化している。
 図3 神子畑鋳鉄橋から神子畑選鉱場に
  向かう神新軌道の跡地
子畑鋳鉄橋から神子畑川右岸に沿って軌道の跡地が残っており、これをたどると神子畑鉱山の跡に到達する。鉱山は、政府の管理から一時は皇室財産として宮内省の管轄になった1)が、明治29(1896)年に三菱に払い下げられている。その後、大正6(1917)年に閉山し、8年には神子畑から約6km奥にある明延鉱山の鉱石を選別する神子畑選鉱場が跡地に開設された。現在は選鉱場の施設も撤去されて基礎しか残っていないが、比重の違いを利用して亜鉛・錫・銅などを分離するシックナー(thickener)という巨大なすり鉢状の装置が形をとどめている。

@ 神子畑選鉱場で使われた巨大なシックナー A 選鉱場建物の階段状の基礎 B 場内の軌道交差部のターンテーブル C 明神軌道の機関車と客車
F 選鉱場の上下を結ぶ
インクライン
D 生野から移されたムーセ旧宅(旧鉱山事務所) E 不用土の堆積場

 図4 神子畑鉱山・神子畑選鉱場の遺構

うひとつ残っている羽渕鋳鉄橋は、神子畑川に沿って下ってきた鉱山道路が、円山川に合流する手前で南にカーブしたところにある。もともとは田路(とうじ)川に架かっていたが、平成2年の台風被害による改修で川が拡幅されたことにより、鉱山道路から遠くない国道312号の脇に移設して当初の形に戻して保存されている。県の重要文化財である。橋台の石積みも移築前の状態で復元しているという。神子畑鋳鉄橋と異なって2径間であり、アーチリブは中央の橋脚に剛結されている。桁裏から見ると、部材の使い方は神子畑鋳鉄橋とよく似ていることがわかる。

 図6 羽渕鋳鉄橋の橋面と桁裏

図5 羽渕鋳鉄橋

(2020.11.05)

1) 表1で2番目に記されている吊り橋の主塔には、直径25cmの菊のご紋章が掲げられていたそうである(現地の説明版による)。