た に ぜ

谷瀬1)の吊り橋− 住民が架けた日本一の生活用吊り橋

右岸の谷瀬地区から見た「谷瀬の吊り橋」
 紀伊半島の中央に位置する十津川村は、面積672.38kuという日本一広い村だ。急峻な地形で、近年では平成23(1911)年の大水害で大きな被害を受けたことで知られる。山々を抉って流れる川に沿って集落が点在するので、集落に通じる吊り橋が村内に60以上あるという、日本一の吊り橋の多い村でもある。その中でも有名なのが、日常生活用として日本一長い2)全長297.7mの「谷瀬の吊り橋」。起点から終点まで6時間半を要する日本一長い路線バスに乗って訪ねてみよう。

津川村は深い山の中にある。しかし、この地にも、第10代崇神天皇(実在したのは3世紀後期から4世紀初頭か)が創建した神社があるほど、古くから人が住み着いていた。農地が少ないので林業や狩猟を営んでいたと思われ、強健で勇壮な人々だったようだ。大海人皇子が吉野で挙兵(天智11(672)年)したときに十津川の人々が加勢し、その功績から諸税勅免地を許されたと伝わる(この措置は明治6(1873)年の「地租改正」まで維持された)し、後醍醐天皇が吉野に逃れた時(建武3(1336)年)も南朝政権は十津川に対して協力を求めた。このようなことから勤皇の念が強く、文久3(1863)年の「天誅組の変」には十津川郷士1,000人ほどが出兵して攘夷運動に加わっている。日本史の局面において陰ながら重要な鍵を握った地であった。
 衰退したとはいえ、十津川村は林業の盛んな土地である。かつては木材輸送を目的とした五新線3)事業が進められた時もあったが、昭和55(1982)年に凍結されてからはこの地を鉄道が通る見込みはなくなり、国道168号が村を縦貫す
 図1 「谷瀬の吊り橋」の位置 図2 「谷瀬の吊り橋」の周辺の現況
る唯一の基幹道路となっている。村人の生活もこの道路に頼らざるを得ない。
瀬の吊り橋は、国道に面し学校や商店のある上野地地区から対岸の谷瀬地区に渡るもので、昭和29(1954)年に架けられた。それまでは、谷瀬の人々は、崖のようなところを70mほども降りて、水面近くに渡された丸木橋を通り、また昇らなくてはならなかった。しかも、十津川は水害の著しいところで、丸木橋はしばしば流された。
 図3 「谷瀬の吊り橋」の現況
あまりの不便さに、架橋費用1,000万円のうち 800万円を地区が負担して吊り橋を架けたのである。各戸の拠出は20〜30万円に達した。はがきが5円、たばこ(ゴールデンバット)が30円という時代だったから、現在価値にすると13〜15倍くらいの額に相当しようか。監督能力の問題から発注は村が行うことになり、地区の用意した資金は寄付という形で村に納められた。大阪の高田機工が受注して設計と工事監督に当たったが、設計荷重はなんと牛1頭、100貫目(約375kg)であったという。床面の踏板は地区が山から切出して提供し、地区の女性が炊き出しをするなどして工事に協力した。
図5 3本のストランドロープからなる当初の主索(メインケーブル)と昭和46年にその上に追加された主索
図4 幅1mの敷板を設置した路面
 爾来、学童はこの橋を渡って小学校に通うなど、村人に愛された。橋は村が村道として管理している。当初は主索(メインケーブル)は片側3本のストランドロープで構成されていたが、昭和46(1971)年に平行線ストランドの主索を追加し、併せてこれを支える主塔を建設している。こうして、主索が2段ある珍しい橋ができあがった。また、橋を下方から引っ張って揺れを軽減する耐風索も張替えた。これにも、工事費の1割270万円を地区が負担した。また、61年から3カ年で主塔・ケーブルの塗装、耐風索の取り替えなどの大規模な修繕を行っている。
 現在は400mほど上流に「針金橋」という幅員6mのワーレントラス橋が架けられ自動車も通行できるようになった。が、本橋が今も生活に欠かせない橋であることは変わりない。しかし、床面は厚いとはいえ1m幅に板が敷いてあるだけで、補剛はいっさいない。従って、歩くと大きく揺れる。しかも、水面から54mという高さだ。慣れない人は足がすくむ。それが手軽にスリルを楽しめると評判になり、今では年間17万人が訪れるという、村で最大の観光資源となっている。路線バスが上野地停留所で20分ほど休憩する間に少し
図6 右岸側に広がるキャンプ場、かつてはここに集落があった
だけ渡るらしいが、観光シーズンには駐車場がいっぱいになるほどマイカーが訪れて、橋は一方通行になるという。観光客向けに、わざとゆすらない、同時に20人以上渡らないなどの注意事項が掲げられている。
 また、毎年8月4日(はしの日)には、村の太鼓クラブ「鼓魂(こだま)」による吊り橋の上での演奏「揺れ太鼓」が披露される。
から右岸側を見下ろすと、かなり広い河原があってキャンプ場になっている。かつてはここには集落があった。しかし、明治22(1889)年の洪水で十津川村は死者168人という大きな被害を受け、この地にあった生活再建のむつかしい600戸、2,489人が政府の方針に従って北海道に移住して、かの地に新十津川町を作った。
 谷瀬の吊り橋は、そんな十津川を一跨ぎすることによって自然の猛威と共存してきたのだ。この小さな橋に、安全・安心な生活を希求する人々の思いがずっしりと載っているのである。

(謝 辞)
本稿の作成に当たって十津川村建設課及び高田機工からご教示を賜った。
                                                  (2020.09.24)


1) この読み方に関しては現地でも複数の表記がなされているが、本稿では十津川村観光協会の記載に従う。

2) 人道橋としては、平成27(2015)年に三島市にオープンした全長400mの「三島スカイウォーク」が現在では最長とされ、2位は18年に久住町にできた「九重"夢"大吊橋」390m、3位は6年に常陸太田市にできた375mの「竜神大吊橋」である。いずれも観光用で有料。谷瀬の吊り橋はそれに次ぐ長さであるので、本橋を日常生活用として最長と表現した。

3) 「鉄道敷設法」(大正11年法律第37号)別表第82号に「奈良県五条ヨリ和歌山県新宮ニ至ル鉄道」として掲げられていたもの。昭和12(1937)年に五条〜坂本間が着工されたが、70%以上進捗したところで国鉄の財政再建により中止。途中の城戸まで完成していた路盤を使用して国鉄バスが走ったものの、それも平成14(2002)年に廃止されている。