梨ヶ原地区の山陽本線煉瓦拱渠群

梨ヶ原拱渠の下り線側
 播磨と備前の国境をなす船坂峠は、古来から山陽道随一の難所と呼ばれた。道行く人が難儀をして命を落とすことすらあったようだ。これを緩和するため、鎌倉時代に公共事業に活躍した重源上人は、人々から勧進を募って修築を行っている。明治時代に敷設された鉄道も、ここを越えるのには苦労した。本稿では、船坂峠の東麓の梨ヶ原地区を訪れ、JR山陽本線の高い築堤に設けられた煉瓦構造物を探訪した。



戸から門司まで通じている山陽本線の起源は、明治21(1888)年1月に設立された「山陽鉄道」に遡る。同社は、その年のうちに姫路まで開通させた後、22年11月には龍野まで、23年12月には三石までと、順調に路線を伸ばしていった。ただし、この時点で終点であった三石駅は仮設のもので、岡山県和気郡三石村(現在の備前市)の名を冠してはいたが、実際の所在地は船坂峠の東麓の兵庫県赤穂郡船坂村(現在の上郡町)梨ケ原であった。県境に建設中の「舩坂隧道」(L=1,137.7m)の開通が遅れたためである1)
 山陽鉄道の社長は中上川(なかみがわ)彦次郎(嘉永7(1854)〜明治34年)であった。ここで中上川について触れておくと、彼は明治時代を代表する啓蒙思想家 福沢 諭吉の甥にあたる人物で、明治2年 16歳の時に中津から東京に出て慶応義塾に学び、7年に福沢の支援でイギリスに留学している。留学中に知り合った井上 馨の推挙で帰国後は官界に入り井上の下で働いていたが、14年に退官して福沢の主宰する「時事新報」の社務を管掌しつつ実業界への転身を考えていたという。山陽鉄道の建設に当たり、井上の推挙もあって、外国人技術者の招聘や外国からの材料輸入のために外国語のできる中上川を社長に据えるということになったようだ。
 従って、中上川は鉄道事業に特に明るいわけではなかったが、海外の文献を取り寄せて熱心に知識を吸収するとともに、部下に命じてその成果を「英国鐵道論」として出版させている。また、若手技術者10名を官鉄に見習いに出して幹部候補生の育成を図るなど、会社の技術的基盤を築くことに務めた。
 路線測量は日本土木会社2)に全面的に委託した。中上川は、当時隆盛であった瀬戸内海航路との競争を制するには長編成列車の高速運転が必要と考えており、勾配10‰以下、曲線半径300m以上にするよう強く指示していた3)。兵庫・岡山県境をどう越えるかというのは、会社が最初に直面したルート選定の難題であった。いくつかのルートを比較検討した結果、迂回は大きいが中上川の条件にかなうものとして、有年(うね)から千種川に沿っていったん北上し、
図1 高い盛土が続く梨ヶ原地区の山陽本線
上郡駅を過ぎたところで大きく向きを変えて舩坂隧道を目指して南西に走るルートを選定した。上郡駅の標高が海抜約30m、舩坂隧道が海抜約130mであり、その間の距離が約10kmであるから、鉄道は10‰の勾配で登り続けなければならない。よって、船坂峠に近い梨ヶ原地区では、見上げるほどに高い盛土が長区間に渡って築かれることになった。盛土構造の鉄道が既存の里道や河川・水路と交差するところには橋梁が必要となる。当時の土木材料は主に煉瓦であって、山陽鉄道のこれらの橋梁も煉瓦造りであった。
 産業面でも軍事面でも重要であった山陽鉄道は、輸送力の増強のために複線化が図られた。勾配区間である上郡〜三石間は他に先駆けて39年11月に完成した。この時、北側に線路が増設されている。現在の上り線がそれだ。煉瓦造りの橋梁も北側に拡張された。そして、その年の12月、山陽鉄道は、3月31日に成立していた「鉄道国有法」に基づいて
図2 梨ヶ原地区の煉瓦橋梁
国に買取られた。
坂峠を西に越えた三石地区では、「三石の煉瓦拱渠群」が土木学会選奨土木遺産に認定されている。4連の煉瓦アーチ橋が金剛川とその両側に並走する道路を横断している「三石金剛川橋りょう」が特に著名だ。地元では「四列穴門」と呼んでいる。峠の東麓の梨ヶ原地区にも図2に示す煉瓦橋梁があるようだが、本稿ではその中でも改変の軽微な3つの煉瓦拱渠(アーチ橋)を見ていこう。
 最初に訪れるのは「梨ヶ原拱渠」(N:34゚49'48"、E:134゚18'15")だ。梨ヶ原集落の西にあるL=2.4mほどの煉瓦アーチ橋で、前後の道路とのつながりが悪いことや床面の様子から、水路に蓋掛けしたものであると
@三石金剛川橋りょう(上り線側) A赤坂川橋りょう(下り線側) B黒谷川橋りょう(下り線側)
思われる。
 明治23年に完成した下り線側の様子は表題の写真のようなもの。まず目につくのは笠石が斜めになっていることだが、その理由は鉄道と下を通る
 C梨ヶ原拱渠(上り線側)  D広畑川橋りょう(下り線側)
                
E北谷川橋りょう(下り線側)
 F入星谷囲渠(下り線側) G梨ヶ原川橋りょう(上り線側)
 図3 三石金剛川橋りょうと梨ヶ原地区の煉瓦橋梁
水路・道路が斜交しているからだ。煉瓦アーチ橋が斜交するときに「ねじりまんぽ」という技法があることはすでに紹介しているが、それは橋梁自体が斜橋になっている時で、本橋は、橋梁自体は直橋で坑門を盛土に対して斜めに取付けているのである(図4)。
 次いで特徴的なのは、スパンドレルに焼色の異なる
図4 煉瓦アーチ橋が斜交するときにねじりまんぼにならない場合(左)となる場合(右)
煉瓦で装飾を施していることだ。この装飾は内部においてさらに顕著で(図5)、起拱線を色調の濃い焼過(やきすぎ)煉瓦で強調するとともに、イギリス積みになっている側壁部分の小口積みの段のみ通常の赤煉瓦と焼過煉瓦を3個ずつ配置するという規則性のある文様を描いている。
 ところが、明治39年に完成した上り線の様相は全く異なり、全面が黒っぽい焼過煉瓦で構成されている(図3C)。ここでは、側壁の端部に部分的に弧状煉瓦を用いて仕上げ
図5 赤煉瓦と焼過煉瓦で文様を描いた下り線側の内部 図6 弧状煉瓦を用いて端部を仕上げた上り線側
ているところに特徴がみられる(図6)。入念なデザインと言えよう。
 次いで「広畑川橋りょう」(N:34゚50'27"、E:134゚18'46")(図3D)に向かう。L=3.6mほどの煉瓦アーチ橋である。河川の上に板材で床を敷いて通路と併用している。地元の人に話を聞くことができたが、この橋梁は実は内部の高さが4mほどもある大きなもので、側壁にある石の張り出しに桁を渡してその上に床板を敷いているという。その裏面に「明治二十三寅年」と墨書してあるのを見たそうで、建設当初からこのような形であったと思われる。内部には過去の洪水の水位が記録されていた。床より上に水があふれると、あふれた水は川に戻らずに道路を伝って人家に流れ込むそうで、たいへん困るということだった。三石金剛川橋りょうに倣って河川と通路の2連のアーチ橋にしておけばよかったのかもしれない。
 煉瓦の使用については、下り線側は文様は異なるがスパンドレルと内部に焼過煉瓦による装飾を施しており、上り線側は黒っぽい焼過煉瓦を全面的に用いて端部を弧状煉瓦で仕上げている。
 最後は「入星谷囲渠」(N:34゚51'40"、E:134゚19'04")(図3F)である。これはL=1.8mほどの小さなアーチ橋で、水路にグレーチングで蓋掛けして人の通行を許している。煉瓦の使用については広畑川橋りょうと同じコメントが成立する。
回、梨ヶ原地区の煉瓦橋梁を探訪して、そのデザイン性の高さに驚いた。特に、上り線は、完工後まもなく国の手に渡るという状況にあったにもかかわらず、丁寧な仕上げが施されている。山陽鉄道は国有化には大反対であったが、ひとたびこれが決定した後は、その日までにすべきことを誠実に実行したことが見て取れる4)
 煉瓦に関していえば、そのサイズが下り線側と上り線側で異なっており、前者では厚みが7cm近くあるのに対し後者では5cmほどになっている。また、一般的には焼過煉瓦は次第に使用頻度が下がっていく傾向にあるのだが、ここでは後に施工された側に焼過煉瓦が多用されているのも興味深い。この区間の複線化と同時期に山陽鉄道が建設を進めた厚狭〜大嶺間でも黒色の煉瓦の使用や弧状煉瓦による処理という特徴がみられるということであり(鈴木 敬二「黒い煉瓦の系譜−明治期の山陽鉄道の構造物−」(https://www.hyogo-c.ed.jp/
~rekihaku-bo/historystation/hiroba-column/column/column_1709.html))、この時期における同社の標準的な施工であったと考えられる。煉瓦の製造所は不明である5)
 なお、本稿で取り上げなかった3つの床版橋や桁橋の煉瓦造り橋台についても、後年における改変はあるものの、拱渠と同様の特徴が見られたことを付記しておく。
(2020.02.20)

(参考文献)
1 長船(おさふね)友則「山陽鉄道物語」(JTBパブリッシング)
2 鈴木 敬二ほか「山陽鉄道の建設と煉瓦〜船坂トンネル周辺の構造物調査より〜」(兵庫県立歴史博物館「塵界 第23号」所収)

1) 舩坂隧道は、落盤や火薬の爆発などの事故に加えて、工事中にコレラが流行して人夫の逃亡が頻発した。中上川は、この報に接すると、直ちに隔離病院を設けて医師を派遣するとともに、健康な人を新しく建てた人夫小屋に移して従来の小屋を焼き払うなどの措置を果敢に講じた(参考文献1)。これにより工事の遅延を最小限に抑えたという。

2) 藤田 伝三郎(天保12(1841)〜明治45(1912)年)らが起こした藤田組と大倉 喜八郎(天保8(1837)〜昭和3(1928)年)が起こした大倉組を中核とするわが国で最初の法人組織による建設会社。明治20(1987)年設立。今日の大成建設の祖にあたる。

3) 勾配を10‰(100分の1)以下に抑えることを口癖のようにしていたことから、中上川には「ミスターハンドレッド」というあだ名が付いたと言われる。

4) 明治39年4月19日付「芸備日日新聞」に山陽鉄道専務取締役の社員への訓示が掲載されており、そこでは「起つ鳥は跡を濁さずと云ふ比喩の如く政府に引継ぎたる後も(中略)一点の非難なしと言わるる位に」したいと述べているという(参考文献1)。

5) 舩坂隧道の2期線(明治39年)の坑口に使用された煉瓦には堺煉瓦会社の刻印と思われるものが押されているという(参考文献2)。当時は泉州地域に多くの煉瓦工場が立地しており、本稿で紹介した橋梁の煉瓦もこの方面から調達された可能性が高い。