但馬地方の2つのラティス桁橋
−竹野川橋りょう・田君川橋りょう
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版桁とラティス桁で構成される田君川橋りょう |
ラティス桁橋とは、標題の写真のようなもので、版桁橋の腹板(ウェブ)を版ではなく格子にしたもの。わが国に3橋が現存するとされるが、そのうち山口線の「徳佐川橋りょう」(大正11(1922)年架設)を除く2橋が但馬地方の山陰本線にある。今回はその2橋を訪れた。 |
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ティス桁とは、大正7年に「鋼格鈑桁」という名称で40ft、50ft、60ft、70ftの4種類の標準設計が示達された形式である。当時は、国内で大形鋼構造物の製作設備が乏しく、第1次世界大戦の影響を受けて海外からの輸入も非常に困難であったことから、版桁橋の腹板の代わりに山型鋼を45゚の角度で交差させたラティスを組むことにしたのだといわれる。しかし、ラティス桁の設計が示された翌年には新たに版桁橋の標準設計が示達されたことから、ラティス橋が採用された期間は短かった。昭和29(1954)年に全国で50連のラティス橋が確認できた(高坂
紫朗「鉄道防災改良施工法」(三報社))とのことだが、鋼材の使用量が少ないだけに版桁橋に比べて弱点があって、補強修繕の必要や振動の抑制の
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図1 竹野川橋りょうと田君川橋りょうの位置 |
ための速度制限の必要が診断されている。そのため、その後の列車の重量化・高速化への対応や構造物の老朽化などにより架替えられるものが多く、現状では「竹野川橋りょう」、「田君川橋りょう」、「徳佐川橋りょう」の3橋が残るだけになってしまった。
ず、訪ねるのは豊岡市竹野町にある竹野川橋りょうである。山陰本線が城崎(現在の「城崎温泉」)から西に延びて香住まで達した明治44(1911)年に竹野川に架けられた。竹野川は、源流である三川山から北流する延長21.2km、流域面積85.9km2の2級河川である。深い谷間を縫って流下しているため川幅が狭く、現在のような河川整備が行われるまでは、少しの雨でも氾濫が生じる暴れ川であった。
大正7年9月14日に紀伊半島に上陸した台風17号は、最低気圧981.3hPaを記録して15日にかけて近畿地方を北上して日本海に抜けた。
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図2 竹野川橋りょう4連目のラティス桁(中央)と5連目の版桁(左) |
神戸の雨量は39mmに過ぎなかったのに、但馬地方では香住で総雨量716mm、浜坂で649mmという豪雨を記録し、各河川が氾濫して死者・行方不明者130人、家屋倒潰・流失166棟、床上浸水3422棟、田畑の冠水・流失2万町(約200km2)余りという大きな被害があった。
現在の竹野川橋りょうは、右岸から2×16.03m(版桁)+25.37m(版桁)+19.15m(ラティス桁)+22.33m(版桁)=101.21mという構成であるが、当初の架設時は3連の版桁橋であった。この災害により2連が流出するという被害を受けている。その復旧に当たって竹野川が拡幅され、大正9年、橋梁は左岸側に2連が追加されたのである。そのうちの1連のラティス桁が現用されている。
なお、5連目の版桁は昭和11年に架替えられたものだが、作30年式と呼ばれる明治期の桁を補強して使っている。転用品であることは確実と思われるが、詳細は未調査である。1〜3連目の版桁は昭和61年に架替えられたもので、見た目にも新しい。
下部工について付記しておくと、右岸側の橋台と3基の橋脚は、昭和59年に一部改修されているが、明治44年に築造された煉瓦造りである。4基目の橋脚は大正9年の竹野川の拡幅時に設けられた煉瓦造り。左岸側の橋台は昭和11年築造のコンクリート造りである。
に、山陰本線浜坂駅を降りて東へ約1km進んだところにある田君川橋りょうを訪ねる。扇ノ山(おうぎのせん)を源流とする岸田川(延長25.2km、流域面積201.4km2)に左岸から合流する(旧)田君川に架かる。現在の田君川橋りょうは、右岸側から19.2m(ラティス桁)+19.2m(版桁)=38.4mという2連の橋梁である。当該区間が開通した明治45年には単径間の版桁橋だったが、先述の洪水の結果
田君川が拡幅されることになり、大正11年にラティス桁の径間が追加されたという。その後、流路が変更されて、橋梁が架かっているところでは用水路ほどの小さな川になってしまった。
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図3 おびただしい数のリベットが施工されたラティス桁 |
よって、橋梁の直下まで容易に接近できる。見上げると、山型鋼が交差する箇所にことごとくリベットを打っているのがわかる。たいへんな数だ。また、径間の中央付近に近づくにつれラティスの間隔を小さくして強度を高める工夫がなされていることもわかる。ラティス桁は材料の節減にはなるが施工に手間を要する。鋼材が高価で人件費が低廉だった時代の産物だ。
左岸側の版桁は建設時のものが今も使われている。当時のいろいろな輸入鋼材を組合せて製作されたと考えられている。また、煉瓦造りの橋台も、嵩上げがなされているものの築造時の姿をよく保っており、これはこれで貴重な土木遺産である。 |
(2020.04.17) |
(参考文献) 西野 保行ほか「わが国における鉄道用ラチス桁の現況とその歴史的経緯」(土木学会「土木史研究
第15号」所収) |
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