大阪環状線 木津川橋りょう・岩崎運河橋りょう

木津川を1径間で渡る大阪環状線木津川橋りょう
 大阪ドームにほど近い大阪環状線の大正駅で降りると、見る者を圧倒させるほどに巨大な橋梁がホームの両側に見える。芦原橋方にある白く塗装されたのが木津川橋りょう、弁天町方にある緑に塗装されたのが岩崎運河橋りょうだ。今回は、これらの橋梁が建設された臨港貨物線の経緯とその後の動向をご紹介する。



応4(1868)年に開港した神戸港が着々と整備が進んで日清戦争(明治27(1894)〜28年)の後にはロンドン・ニューヨーク・ハンブルクと並ぶ世界4大海運市場となるまでに発展したのに対し、大阪港は相変わらず堂島川と土佐堀川の合流点付近の富島や川口が中心であった。ここは川幅や水深の制約から大型船が入ることができず、天保山の沖合で小型船に積み替える必要があった。このままでは神戸港に貨物がシフトしてしまう。これを恐れた大阪市により、30年に「大阪港第1次修築事業」が開始され、安治川河口左岸の天保山地区に近代的な港湾が整備されるのである。この資材運搬と港湾整備後の貨客輸送のために鉄道が考えられた。「西成鉄道」である。29年に着工し、31年に大阪〜安治川口間が開通した。途中、福島、野田、西九条に駅を置いた。38年に天保山(現存せず)まで延伸し、翌39年に国有化されて「西成線」となった。現在の「桜島線(愛称「ゆめ咲線」)」の前身に当たる。
の終点である天保山駅は、名前こそ天保山だったが安治川を挟んだ対岸にあり、修築事業が進む天保山には達していなかった。大阪港が海陸連絡機能を果たすためには、陸上交通としての臨港鉄道が備わっていなくてはならない。この観点から、当駅の開設に先立つ34年、大阪市会は「臨港鉄道に関する建議」を可決し、政府に対して安治川左岸に展開する港湾区域への鉄道の敷設を求めた。政府も鉄道の必要性は認めてはいたものの、実際には、国の財政難から建設は大幅に遅れた。また、大阪港修築事業も市の財政難から進捗はままならなかった。
図1 関西本線貨物支線の位置、この建設に至るまでの比較案
  と現在の大阪環状線のルートを付記した

 その間、臨港鉄道は経路選定が難航していた。西成線福島駅からおおむね尻無川に沿って南西に走る案(北線)と関西本線今宮駅付近から西に直進する案(南線)が比較され、南線は工費・工期とも北線に優れるということだったが、北線が大阪駅に直結できるのに対し南線は城東線を迂回しなければならないという不利があった。また、南線は船舶の通航の多い尻無川や木津川を横断するために橋梁が水運の障害となる恐れがあったし、北線は市街地に貨物線を通すことの妥当性が問題とされた。
 大正4(1915)年になって、いよいよ港湾事業の継続が困難となった大阪市は、臨港鉄道の敷設について再度の建議を決議し、これによりようやく政府も路線の検討を本格化させた。そして、南線案の弊を軽減すべく、今宮駅から北西に走って木津川のできる限り上流で渡河し、続けて岩崎運河1)を渡ってから尻無川に沿って南下するルートを決定した(6年)。今宮駅から尻無川までは市街地であったので高架構造、そこから浪速駅の手前までは盛土構造、その先は倉庫や埠頭への引込みを考慮して平面構造とされた。臨海部の平面構造部分では、運河や水路を横断する際には可動橋が計画された。
 関西本線の貨物支線という扱いであったが、鉄道省と大阪市が一定の考え方の元に費用を分担することとした。事業面においては、用地取得は大阪市、工事は国鉄が担当し、それぞれの分担額に合致するように精算した。用地取得に着手したのは8年。鉄道貨物は輸送費が安価だったのでその伸張
 図2 川を斜めに渡っているため左右の主構が1パネルずれてい
  る木津川橋りょう(左)と岩崎運河橋りょう(右)
が見込まれたものの、永年の商慣習を短時日に打破することは難しいと思料して当面は単線での運行を想定していた。しかし、将来を見越して用地は複線分を確保することとして所要面積4万9,278坪(約16万2,900m2)を10年までに取得した。
様に、主な構造物も複線規格で建設された。その最大のものは、木津川橋りょうと岩崎運河橋りょうだ。河川交通に支障を与えないよう1 径間で渡河しており、支間311ft6in(約94.9m)のダブルワーレントラスである。いずれも河川と斜交するので、左右の主構が1パネルずれている。同一の設計と思われる。
 ダブルワーレントラスとは、側面から見て斜材をすべて× 
 図3 鋼材が無数のリベット
  で接合されている
型に交差させるトラス橋のこと。わが国ではポーナル(Charles A. W. Pownall)が200ft(約61m)の標準設計として示したのが始まりで、東海道本線の富士川・大井川・天竜川・木曽川・長良川・揖斐川で架設された。しかし、他の形式に比べて鋼材を多く使用することから、その後は採用の機会がなかった形式だ。それがおよそ30年ほどたって突如現れたのである。また、トラス橋は、端部を斜材とするのが一般的であり、また、中央部が高い曲弦トラスにすることも多いが、本橋は高さを揃えた並行弦トラスで、端材も垂直である。よって、四角い籠のように見え、きわめて無骨な外形である。桁の天端が約O.P.+7.2mという巨大さに加えて、たくさんのリベットで部材を接合しているのも、一種の壮観である。
 上記の特徴は、鋼材の使用量の節減と事業費の低廉という点では難があるが、同じ架構を並べただけなので、設計・製作・架設の時間短縮は図られるであろう。貨物線の建設
 図4 木津川橋りょうの架設風景、大型のゴライアスを
  使用して組立てている(出典:参考文献1)
が大いに急がれた結果だと思われる。木津川橋りょうは大正11年7月に着工して翌年12月に完成、岩崎運河橋りょうは13年9月に着工して15年2月に完成した。重量は828tに及び、国鉄で最大とされた。
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年に発生した関東大震災の影響で国の財政が圧迫されて貨物支線の進捗が滞ることが懸念されたが、大阪市は日本港湾協会の力も借りて促進の動きを続けた。それもあって工事は本格化し、橋梁の架設に続いて高架の築造、軌条の敷設と進んで、昭和3(1928)年12月、ついに今宮〜大阪港間8.4kmの貨物支線が完成した。これから分岐して埠頭や周辺の工場等に引き込む側線は18.3kmを数えた。時あたかも築港工事も完成を見ようとしており、これらの開通は意義深いものであった。
 図5 完成した浪速駅(出典:参考文献1)  図6 第3突堤に引き込まれた側線(出典:参考文献2)
 貨物支線では、大阪港駅や側線からの貨車を浪速駅に集め、ここで列車に編成して、城東線経由で吹田操車場から西日本に、関西本線を東進して木津から東日本に運行した。貨物支線の取扱量は次第に拡大し、支線から関西本線への貨車をさばくために、龍華操車場(現存せず)が13年に設けられている。
図7 浪速駅の貨物取扱量の推移(参考文献2により作成)
 敗戦により貨物取扱量は著しく減少したが、23年頃には戦前の水準に回復した。戦後は、戦災復旧事業において大阪港の内港化が実施されることとなり、安治川が左岸方向に拡幅されてここに岸壁が建設された。併せて臨港鉄道の必要性が感じられ、これも大阪市と国鉄が費用を分担して建設することにした。浪速駅から北西に進んで現在の港晴地区に至る路線が28年に着工されて31年に完成した。延長は2.0kmでこれに2.8kmの側線が附帯した。浪速駅から2.3kmの地点には大阪東港駅が開設された。その後、安治川沿岸の港湾施設の拡張に伴い、側線が北東方向に延長されている。
港鉄道の拡充と並行して、大阪市には市街地の交通計画に係る別の考えがあった。大阪駅と天王寺駅という2つのターミナルからともに臨海部に伸びる西成線と関西本線貨物支線を結び、城東線と併せて環状運転をすれば、大阪市の交通利便性に寄与するだろう。この構想は、大阪市の第2次市域拡張(大正14(1925)年)によりこれらの沿線が大阪市に編入されたのを契機に持ち上がったようだが、船舶の航行の多い安治川に架橋することへの反対が強く、この時は実現しなかった。しかし、戦災復興計画の中で、大阪市の努力によってこれが具体化したのだった。環状線は昭和31年に着工し36年に完成した2)。木津川橋りょうや岩崎運河橋りょうを複線規格で作っておいたことが役立った。これまで貨物支線にあってあまり人目に触れることのなかったこれらの橋梁が大阪環状線に編入されたことで、その壮大な姿を多くの旅客が目にするようになった。
 なお、大阪環状線の成立により、旅客線化に伴って大阪環状線に新設された大正駅から先を、大阪環状線貨物支線として扱うことになった。
図8 阪神高速道路4号湾岸線大阪港出口に沿う貨物支線の跡地
 
図9 最後まで残っていた三十間堀川の可動橋も撤去された
 
図10 車内から見る岩崎運河橋りょう、規則正しく配置された大量の鋼材が圧倒的な存在感を見せる
らく港湾物流を支えてきた鉄道貨物は、昭和42年から始まったコンテナ輸送への対応の遅れから、自動車輸送にシェアを奪われて急速に減退していった。大阪環状線貨物支線でも事情は同様だった。沿線の工場や倉庫が引込み線を使用しなくなり、59年には大阪港駅と大阪東港駅が廃止されて浪速駅の側線扱いとなり、61年にはそれも廃止されて用地が大阪市に引き継がれた。その後も浪速駅はしばらく営業を続けたが、平成16(2004)年には貨物列 車の運行がなくなり、18年に浪速駅も廃止になった。
 今では、広大な浪速駅の跡地には物流事業を営む各社の倉庫や配送センターが立ち並ぶ。港湾物流の担い手が鉄道からトラックにシフトしたことを否応なく見せつける光景だ。貨物支線の特徴だった臨港部の可動橋も、橋台と防潮水門を残して撤去され、貨物支線の存在は徐々に忘れられつつある。
 一方、大阪環状線に編入されて貨物線としての色合いを払拭した木津川橋りょうと岩崎運河橋りょうには、今では奈良・和歌山・関西空港に向かう快速や特急が走る。工場が多かった沿線は、大阪ドーム(平成9(1997)年開場)を始めとする商業開発が進展するとともに、工場跡地が大規模マンションになる例も多い。沿線の風景が変わっていく中で、木津川橋りょうと岩崎運河橋りょうの姿は、ますます特異な存在感を際だたせている。

(2020.01.25) (2021.05.06)
                                          
(参考文献)
1. 鉄道省大阪改良事務所「大阪臨港線新設工事概要」
2. 大阪市港湾局「大阪港史 第3巻」

1) 尻無川はもともとは土佐堀川から分岐して木津川に並行して流れていたが、上流部は水深が浅く航行に不適であったため、尻無川と木津川を結ぶために大正9(1920)年に開かれた水路。昭和25(1950)年に水路より上流の尻無川が埋め立てられ、現在では実質的に尻無川の水源となっている。

2) 当初は西九条駅で西成線と接続していなかったので、桜島〜西九条〜大阪〜天王寺〜今宮〜西九条という逆“の”の字運転だったが、昭和39年に西九条〜大阪間の高架化が完成して、現在のような環状運転がなされるようになった。併せて、西成線の桜島〜西九条間を大阪環状線から切離して桜島線と呼ぶようになった。