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図1 琵琶湖を中心とする淀川水系の概要 |
田川は、大津市の瀬田と石山の間で琵琶湖から流れ出し、大日山西麓の狭隘部から鹿跳(ししとび)渓谷を経て宇治市に入り宇治川と名を変える。琵琶湖に流入する河川が一級河川だけでも117本あるのに対して、琵琶湖から流出するのは瀬田川だけだ。近江に大雨が降ったとき、瀬田川からの流出量が限られていると、琵琶湖の水位が上がり周囲は浸水する(これを地域では「水込み」と呼ぶ)。古来、湖岸の人々は何度もこのような災害に悩まされてきたが、大規模だったのは明治29(1896)年の洪水だ。9月3日から12日までの10日間に、滋賀県の年間雨量の半分に当たる1,008mm(彦根)の雨が降り、琵琶湖の水位がB.S.L+3.76m1)まで上昇して周辺の広い範囲が浸水した。彦根市の80%、大津市中心部の全部が水没したとされている。浸水期間は237日に及んだ。生活再建をあきらめ海外に移住した人も多かったという。この被害を後世に語り継ぐため、洪水位を記した石標や痕跡が今も各地に残されているほどである(図2はその一例)。
一方、瀬田川の流量を大きくすると、京都・大阪で淀川が氾濫する恐れが大きく
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図2 大津市瀬田の西光寺門前にある石標、横 線の所までに水が来たことを記録している |
なるとして、下流の住民は改修に反対してきた。古くは、行基が近江の農民の願いを聞いて瀬田川を狭めている大日山を切ろうとした時、下流の反対で断念せざるを得なかったと伝わっている。河川法の制定と淀川改良工事の実現に大きな功績のあった「淀川改修期成同盟」も瀬田川の浚渫には大反対であった。このように、淀川は琵琶湖から大阪湾まで続く1本の川でありながら、狭隘部を境に上下流で利害を分け合う関係にあったのである。
のような状況下で淀川改修計画がスタートした。この中で、瀬田川を浚渫して湖水位を低下させると同時に、洗堰を設けて水位を調節する方策が採用され、洪水時には下流の流量を軽減するために洗堰を全閉するという操作方針が打ち出された。 淀川水系の河川には、木津川・桂川の流量が宇治川よりも先に増大し、続いて淀川本川がピークを迎え、その後ある時間差をもって琵琶湖水位がピークを迎えるという特性がある。瀬田川洗堰の操作は、この特性に基づき、下流部が危険な時は下流の洪水防御のために放流制限もしくは全閉操作を行い、下流部の洪水がピークを過ぎた後に、上昇した琵琶湖水位を速やかに低下させるために、全開して琵琶湖からの放流を行うという考えに根差している。
事業を指揮した沖野 忠雄が29年6月の臨時滋賀県会でこの計画について説明したところ、各議員が全閉操作の問題点を追及するなど、白熱した議論が闘わされたと伝えられる。沖野は、滋賀県の意向を無視しては治水計画が成立しないことを理解していた2)。瀬田川においては、まず33年から大日山付近の拡幅による疎通能力の増大を進め、次いで35年から洗堰の建設に取りかかった。粘土層が十分に硬かったため、杭打工は施工せず、基礎コンクリート工の上に田上羽栗町産の石と大阪窯業会社製の煉瓦を使用して堰柱・堰壁を築いた。総工費約252,000円をかけて完成は38年。洗堰は、
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図3 完成した瀬田川洗堰(出典:近畿地方整備局琵琶湖河川事務所「瀬田川洗堰」) |
幅12尺(約3.64m)の水通し32門から成り、門を隔てる堰柱は幅6尺(約1.82m)、高さ19尺5寸(約5.91m)とした。堰柱には縦溝を設け、ここに長さ14尺(約4.24m)、角8寸(約24cm)の木桁を最大19本まで落とし込んで流量調整するものとした3)。木桁の落し込みと抜取りは、内務省大阪土木出張所(現在の近畿地方整備局)からの電話指令に基づいて、人力で行った。
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ころが、流量調整のための操作は、淀川に洪水や渇水が起こるたびに混乱を生じた。洪水時には上流側の滋賀県は堰を開けて琵琶湖から放流することを要望し、下流の京都府・大阪府は堰を閉めて流出を制限することを要望する。逆に、渇水時には滋賀県は琵琶湖の水位低下を避けるために堰を閉めることを要望し、下流は水量確保のために放流を要望する。よって、河川管理者と府県の調整がつかないために明文化した操作規定が制定できず、その時々の対応に任されることになったためである。
例えば、大正6(1917)年の洪水の状況は次のようなものだった。9月29日未明から降り始めた雨は翌30日午後からは激しい強雨になり、淀川水系の各河川の水量は大きく上昇して、枚方では5.58mまで上昇した。その水勢のため10月1日朝には右岸側の大塚(高槻市)で約200mにわたって堤防が決壊した。さらに2日にかけて味舌(摂津市)、岸辺(吹田市)、竹の花(吹田市)、宮島(茨木市)などで次々と決壊が起こった。京都府でも山崎(大山崎町)、納所(伏見区)、三栖(伏見区)などで決壊が発生した。一方、琵琶湖周辺においても、日野川・高時川・愛知川などで堤防決壊が生じたほか、琵琶湖の水位がB.S.L+1.43mまで上昇し沿岸が浸水した。
この洪水において、9月30日に土木出張所は木桁20本の抜取りを指令している。次いで、10月1日午前7時に100本を落し込んで放流量を制限する措置が採られたが、下流の決壊にもかかわらず全閉されることなく依然として越流は続いていた。その後淀川の水位が低下したら桁を開放して琵琶湖水位を下げることとしていたが、大塚の決壊箇所からの流出が激しくて締切り工事が難航し、洗堰の制限を継続したため、さらなる降雨に見舞われた琵琶湖の水位はさらに上がった。洗堰が洪水前の桁数に戻ったのはおよそ1か月後となる11月8日で、湖岸の浸水日数は50日を数え浸水家屋は約3,500戸であった。
この操作をめぐる不満は苛烈をきわめた。滋賀県では、知事が土木出張所長に木桁の抜取りを依頼したが、出張所長の回答は、下流の被害甚大なため滋賀県の要求には応じられないというものだった4)。12日に「琵琶湖治水会」の臨時総会が開かれ、会長は「沖野技師が言明せる所に依れば、下流非常高水の時には4日間洗堰の角落しを入れ置けば下流の水も減ずる故に、4日を過ぎれば角落しを引抜くべしとあり、これに対して県会議員諸氏より、もし堤防の切れたる場合は如何と質問せられたるに、(中略)万一堤防決壊せる以上最早下流を助けること能わざるが故に、角落しを引抜きて琵琶湖減水の方法を採り、上を保護する次第なりと言明せられたり」と述べている(参考文献2、以下同じ)。17日には「第1回沿湖民大会」が急遽開催され「下流の被害を理由とし半月余依然角落しを除却せざるは淀川改良工事の意義を没却するものと認む」と決議している。
これに対する行政の対応は一貫を欠いたようだ。17日に知事が内務大臣に面会した際に大臣は「速やかに角落しを抜取りて相当の水を流し、万一、不都合を生じたる場合には宜しく善後策を講ずべく、徒に角落しを投入し置くは不可なりとの旨を通達せり」と、土木出張所長の意見とは異なる発言をしている。その後も、陳情を受けた高官の発言に伴って木桁を除去したり挿入したり目まぐるしい操作が行われた。同時に、関係者が洗堰周辺に続々と詰めかけて協議を要求するなど、現場は極めて緊迫した状況となった。そして、この一連の騒動は、天皇・皇后が行幸啓されるほどの
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図4 「水のめぐみ館 アクア琵琶5)」に展示されている旧洗堰の木桁操作 |
大きな問題に発展したのであった。
ころで、木桁の扱いはたいへんな重労働だった。落し込むときは角材に浮力が働くので鉄槌でたたいて沈める必要があり、引上げるときは水を吸って130kgにもなった桁を上げなければならない。昭和に入ってからは、石油発動機型のウインチで上げ下げするようになったが、それでも落とし込むときには浮力で浮き上がる木桁を抑える作業は続いた。
これを能率的に行うとともに瀬田川の疎通能力を上げるため、120m下流に新たな洗堰を整備する工事が昭和32(1957)年に着手され、4億6500万円をかけて36年に完成した。これが現在の瀬田川洗堰である(以下、これを「新洗堰」と呼び、従前のものを旧洗堰と呼ぶ)。新洗堰は鉄筋コンクリート造りで全長173m。幅10.8mの2段式ローラーゲートが装備された水通し10門を有する。ゲートは電動で、非常時の全開・全閉を30分で行えるだけの能力があるという。これによって旧洗堰は役割を終え、左岸の7堰柱と右岸側の2堰柱を残し撤去された(標題の写真)。残った部分は平成14(2002)年に土木学会選奨土木遺産に認定されている。 |
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図5 右岸側下流から見た新洗堰、上面は県道になっている |
堰の性能は向上したが、その操作を明確に規定したものは依然として策定されなかった。39年に河川法が改正されて、第14条にダム・堰・水門等は操作規則を定めなければならないとされた後も、関係府県知事が納得できるような操作規則を作ることができず、先送りされ続けた。それが制定の動きに転ずるのは、「琵琶湖総合開発」が終結に近づく頃のことである。
ここで、琵琶湖総合開発とは、昭和47年に制定された「琵琶湖総合開発特別措置法」(昭和47年法律第64号)に基づいて行われた事業で、治水・利水・水質保全を目標に多くの事業を組合せたものだ。その最大のものは、水資源開発公団
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図6 新洗堰の左岸側に整備されたバイパス水路 |
(当時)が行った「琵琶湖開発事業」。湖岸堤及び内水排除施設の整備と瀬田川浚渫により、琵琶湖水位の上昇による浸水を軽減するとともに、下流域において40m3/秒の新たな利水を可能にした。これに関連して、国・県・市町村等が、琵琶湖流入河川でのダム・砂防事業や沿川での造林事業等の治水事業、下水道・し尿処理施設・畜産環境整備・ごみ処理施設等の水質保全事業、土地改良等の利水事業を幅広く展開した。総合開発の一環として、瀬田川洗堰では左岸側にバイパス水路を整備する事業が行われ(平成14(1992)年完成)、これにより琵琶湖の水位が低い時でも流量を高い精度で調整できるようになった。 琵琶湖の貯水量と瀬田川の疎通能力がともに増加して瀬田川洗堰の運用の幅が広がった。操作規則の明文化に向けて精力的な検討とねばり強い説明が行われ、関係知事の意見を聞いたうえで、平成4年3月に「瀬田川洗堰操作規則」が制定された。旧洗堰の完成から約90年、新洗堰が完成してからも約30年の歳月が流れていた。
成25年台風18号において、9月15〜16日にかけて滋賀県の山間部で600mmを超える豪雨を記録し、琵琶湖への流入量は6,000m3/秒に達した。この値は、瀬田川洗堰の放流量800m3/秒を大きく越えるものであり、琵琶湖の水位は15日6時にB.S.L-25cmであったものが急上昇した。一方、下流の天ヶ瀬ダムで洪水調整開始流量を越える事態となったため、瀬田川洗堰では、操作規則制定後はじめて規則に基づき全閉操作を行った。全閉は16日2時40分頃から約12時間継続した。琵琶湖の水位は翌日8時にB.S.L+77cmに達し、一部で浸水被害が出た。その後、下流の状況を見て18日11時頃から全開操作に移行し、以前の水位に戻ったのは30日頃だった。また、29年台風21号では、10月23日2時頃から3時半までの約1時間半の間、天ヶ瀬ダムの流量を理由に全閉操作を行っている。その後、24日15時頃から全開操作に入り、11月2日まで継続した。今回は短時間だったが、立て続けの全閉操作に県内市町の首長や県議らの反発は激しく、県は遺憾の意を国に伝えている。
国では、洗堰全閉による水位上昇は、25年台風18号で10cm程度、29年台風21号では0.4mm程度と、顕著な影響はないことを強調している。が、天ケ瀬ダムの流量に伴って瀬田川洗堰を調整するというのは、下流を守るために沿岸の浸水被害を受忍するということではないかとの滋賀県側の想いは根深い。国では、天ヶ瀬ダム再開発、宇治川(塔の島地区)改修により
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図7 瀬田川洗堰を見守り続けている旧瀬田川洗堰看守場 |
1,500m3/秒の流下能力を確保して浸水深の低下を図ることとしている。上下流とも納得できる治水への道のりは長い。
その長い道のりを見つめてきたのが、新洗堰の近くに建つ木造洋風建築。旧洗堰の「洗堰看守場」だ。明治44年に現在地の約100m上流に建築され、約50年間、洗堰の管理に当たってきた。資料館等に転用された後、平成3年に現在地に移されて今も瀬田川の治水を見守り続けている。
(参考文献)
1. 森田 一彦「100年ぶりに明らかとなった旧瀬田川洗堰の秘密」(近畿建設協会技術部「水が語るもの」第16号所収)
2. 宮井 宏「淀川の大洪水と河川改修(W)−大正6年の洗堰操作をめぐる大騒動−」(近畿建設協会技術部「水が語るもの」第9号所収) |
(2019.12.27) |
1) 琵琶湖の水位については、明治7(1874)年に唐橋の付近に設置された「鳥居川観測所」で観測されており、同年の大阪湾最低潮位(O.P.B)に対して+85.614mを琵琶湖潮位(B.S.L)±0と定めている。。
2) 参考文献1によれば、瀬田川洗堰の敷高は、計画段階ではO.P.B+82.81mであったが、実際にはO.P.B+81.82mと計画に比べて99cm低く作られていたという。敷高を低くすれば多くの放水が可能になる反面、下流のリスクが大きくなるし事業費の増嵩を招く。施工に際してこのような変更が加えられたのは、沖野が滋賀県議会に説明したときの議会側の激しい意見を反映した結果だと推察される。
3) 明治38年から洗堰の運用が廃止される昭和36(1961)年までの日々の堰桁の配置状況を記録した「瀬田川洗堰堰桁配置表」を精査した結果、2〜11号までの10門には1段目から4段目までの約96cmは石桁を入れており、これら40本の桁は開堰操作はされなかったことがわかった(参考文献1による)。
4) 土木出張所は沖野技監から「大塚堰止め工事完了までは角落し1本も抜き取ってはならない」という命を受けていたのである。しかし、その考えを深く理解しなかった内務省の指示により、混乱のうちに木桁の操作が繰り返されることとなった。なお、出張所長は混乱の責任を問われて文官分限令により休職となった。
5) 琵琶湖河川事務所が運用する、琵琶湖の治水・利水・水環境に関する学習施設。旧瀬田川洗堰の歴史的な資料も展示している。豪雨が体験できる「雨たいけん室」も人気。
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