ビル・高架道路・地下鉄駅の一体整備

御堂筋に面する船場センタービル9号館
 大阪万博を目前に控えた昭和45(1970)年3月、大阪の都心に位置する10棟の船場センタービルとその屋上を連ねて走る阪神高速道路が次々とオープンした。その姿は、万博のパビリオンと同じくらいに人々に近未来をイメージさせるに充分だった。立体道路制度に先駆けるユニークな発案によって、幹線道路の建設とその計画地にあった商店街の再生という二律背反的な課題に立ち向かった、船場センタービルの事例をレポートする。



阪では、阪神高速1号環状線に囲まれたエリアの北半に当たる中心業務地を「船場」と呼ぶ。天正11(1583)年に大阪城を築いた豊臣 秀吉は、同時に四天王寺方面に伸びる上町台地上に城下町を造成するが、慶長3(1598)年にその拡張を指令する。こうして、大阪城の西側の低地に生まれたのが船場であった。おりしも慶長元年に京阪神で発生した地震で京・伏見・堺に被害が出ていた(とりわけ堺の被害は大きかったと言われる)。秀吉は、これらに替わる商業都市の建設を意図したのではないかと考えられる。船場の町割りは京都と同じ碁盤目状で、東西と南北の道路に囲まれた1つの区画は京間で1辺が40間1)(約78.8m)の大きさだった。
図1 風格ある堺筋の景観(昭和32年)(出典:辰巳 博ほか「大阪市電が走った街今昔−水の都の路面電車定点対比」(JTB)@網村 成一)
 この整然とした町割りは江戸時代を通じて維持されたが、明治時代以降は近代都市にふさわしいいくつかの改変が加えられた。そのひとつは、市電敷設による堺筋の拡幅である。堺筋は、和歌山に至る紀州街道の一部で人通りの多い道だったが、他の「筋」と同様に幅は秀吉が開いたのと同じ3間(約5.9m)しかなかった。明治41(19
08)年に日本橋3丁目〜恵美須町間に市電南北線が開通したのに引き続き、45年には北浜1丁目〜日本橋3丁目間が12間(約21.8m)に拡幅され、市電堺筋線が通じた。現在の堺筋の姿はこの時にできたものだ。道路拡幅に伴う大きな変化は、堺筋に近代建築が立ち並ぶようになったことだ。そして、高麗橋通に三越百貨店(大正6(1917)年)が、備後町通に白木屋(10年)が進出するなど大いに繁華した。
 また、大正2年には、本町通が12間に拡幅され市電靭(うつぼ)本町線が通じた。その沿道には区役所や警察署などの公共建築が立地したほか、卸売業や商社が集まった。
 次に挙げられるのは御堂筋の整備だ。これは、大阪市の第1次都市計画事業の基幹事業として大正10年に計画された幅員24間(43.6m)の幹線道路で、昭和12(1937)年に完成したものだ。電線を全て地下に配し、イチョウ並木を備えた近代的な街路が誕生した。道路の完成に先駆けて地下鉄が開通し(8年に梅田〜心斎橋間、10年に難波まで、12年に天王寺まで延伸)、大企業・金融機関などの趣向が凝らされた建物が続々と建てられて、堺筋を凌ぐ美しく活気に満ちた街並みが作られていった。こうして近代商業都市としての風格を作った大阪は、「大大阪」と呼ばれる繁栄を迎える。関東大震災で疲弊した東京を超える人口を集め、あらゆる産業が繁盛し、モボやモガが華やかに町を闊歩する時代だった。船場に残る近代建築がその雰囲気を物語る。
 しかし、第2次世界大戦が勃発し、戦況が悪化するにつれわが国は大きな打撃を受ける。大阪では19年12月から28回に及ぶ空襲を受け、約1万5千人が亡くなり市域の27%が焼失した。船場も例外ではなかった。戦後、焼け野原になった船場に、避難していた商人や大陸からの引揚者がいち早く戻ってきた。スコップで瓦礫を除去して仮建築で営業を開始したという。こうして、船場には小資本で狭小な商店が立ち並ぶことになった。とりわけ小規模だったのは「共販所2)」で、1つの店舗を数坪のエリアに分割して賃貸しそれぞれの商品を販売するものだった。
図2 特定商品を扱う専門卸売店が並ぶ唐物町の光景(出典:「カメラ」1956年1月号(アルス)@緑川 洋一)、唐物町は現在の中央大通の北半分にあった町
船場では、商品を実際に見て店頭で現金取引をする形態がとられていたので、これら小規模な商店は、少種類の商品を店舗に備える専門卸売業に進むものが多かった。
後の復興を計画的に進めるため、大阪市では20年10月の「全国都市計画主任官会議」の趣旨を受けて早々に関係部局・学識経験者・商工界から成る委員会を立上げ、復興計画の策定に取りかかった。そして、狭い市域に多くの人口を収容するために商工業・中小企業を発展させることを基本方針に、区画整理の実施と幹線道路の整備による経済活動の円滑化とこれまで不足していた公園緑地の確保による都市美化などを目的に、都市計画街路(築港深江線ほか63路線、延長367km)、土地区画整理(約6,107ha)、公園(112箇所約824ha)に係る計画を策定した。
 このうち築港深江線は、大阪港と東大阪の内陸工業地を結ぶことを目的に21年に都市計画決定された延長12kmの道路。大阪を南北に縦貫する御堂筋に対応する東西方向の幹線道路で、幅員は大きいところで100mもあった(財政状況を考慮して25年に80mに縮小)。併せて、地下鉄も築港深江線に計画された(34年)。また、阪神高速道路を築港深江線に高架で建設することも計画決定された(37年)。これらが船場地区の唐物町通と北久太郎町通に挟まれた街区を通過することになったのである。
 先に述べたように、復興都市計画は土地区画整理事業と幹線道路の整備を組合せるところに特徴があった。築港深江線も中心市街地の東西ではこの方式により着実に整備が進められていった。しかし、都心の船場地区は土地区画整理事業の対象外とされた。その理由は、すでに船場の地価が高騰しており、区画整理をしても価格上昇が少ないため、広幅員の街路を整備するためには多額の減歩保証金が必要となって国や市の財政を圧迫すると見込まれたからだと言われる。
 さすれば、船場地区の築港深江線は通常の街路事業のように用地買収して行なわざるを得なくなるが、この場合、2つの問題が懸念された。ひとつは、高額な事業費である。本事業に要すると見込まれる約360億円の用地補償費費は、1県の道路整備をすべて賄えるほどの額であり、国はこの節減を考えない限り国費の補助はありえないという考えであった。もうひとつは広幅員の街路が通ることによる商店街の分断である。船場は、限られた商品を扱う小規模な店舗がそれぞれ補い合って小売店の仕入れ需要に対応しているところであった。従って、街路用地に抵触する店舗は近隣に移転する必要があったし、もし一部の店舗が域外に移転してしまうと商店街全体の機能が衰退する恐れもあった。
図3 自動車と歩行者で混雑する北久太郎町(昭和39年頃)(出典:参考文献1)、北久太郎町は現在の中央大通の南半分にあった町
 船場の商業は、わが国の経済復興に支えられて売上げを伸ばしていた。しかし、30年代後半からは自動車による輸送が一般化したので、狭い街路に車があふれる事態となった。これを放置しては船場の商業に限界が訪れるのは明らかだった。地元としても築港深江線に期待するところはあったが、その事業手法は大きな関心事であった。そこで、地元では「大阪市都市計画船場地区対策協議会」を設置し、@信号交差点が多いままで幹線道路を整備しても効果が薄いのでこれを立体化すべきであること、A立体化は繊維街の分断解消にも寄与すること、B船場地区内に代替地を求めることが困難なので立体化した道路の下に店舗を建設すること、C地下駐車場を整備すること、D事業中は近隣の街路用地を仮営業所として使用させること、E併せて船場地区の街路の拡幅を図ること、などを要望している(38年11月)。
区の課題を解決しつつ築港深江線を建設することについて、38年6月、大阪市は河野 一郎建設大臣3)を大阪に招いて助力を求めた。大臣の質問に答えて大阪市は、築港深江線の近くにある市有地(幼稚園・小学校・市立高校移転跡地)を利用してビルを建設し、ここに移転対象者を収容しながら若干の経費節減を図る案を提出した(12月)。しかし、この案は80mの築港深江線を平面構造で通すことを前提としていたので、事業費のうち用地補償費の占める割合が極端に大きく、節減はわずかで投資効果が疑問だとされた。
 河野大臣は突破力のある政治家で、各界から広く知恵を借りようと有識者を招集して個人的な諮問機関を設置した。ここでは、築港深江線と重複して計画されている阪神高速道路の整備形態にも注意が払われ、1.街路の車道幅員いっぱいに高層ビルを建設してその中層に高速道路を1階に屋内街路を通す案、2.街路用地の中央に中層ビルを建設しその屋上に高速道路と高架街路を通す案、3.平面街路の地下に高速道路を建設する案、4.平面街路に高架で高速道路を建設する案に集約して比較検討された。有識者の間では、2番目の中層ビル案が最も支持を集めたとされている。
 中層ビル案と地元から出された要望が類似していたので、大阪市は建設省と協議を重ねてこの案を軸に「事業目論見書」をとりまとめ、39年6月に建設省に提出した。
図4 標準部(上)と本町駅部(下)における築港深江線の整備計画
船場地区の930mにわたって80mの幅員の中に4車線の平面街路と地下2階地上2〜4階のビルを設け、ビルの屋上に4車線の高架街路と6車線の阪神高速道路を通すというものだった。そして、この内容は、ちょうど阪神高速道路湊町〜土佐堀間2.3kmの開通式(6月27日)のために来阪していた河野大臣から公表され、事業費を100億円縮減するアイデアとして新聞に大きく取上げられたのだった。
 事業費が縮減できたのは、用地取得にかかる補償費のかなりの部分をビルの負担としたからだ。すなわち、ビルと道路が一体となる道路敷地の部分については、補償費をビルの屋上を含む各階層が均等に負担することとして、道路が負担する補償費を大幅に軽減したのである(地上4階、地下2階、屋上に道路という標準的な区間では、道路の負担する補償費は1/7で済みビルが6/7を負担する)。ビルが負担した費用は、「建物の区分所有等に関する法律」(昭和37年法律第69号、以下「区分所有法」という)によって入居者に区分所有権を売却して回収する。
 道路とビルが一体構造になることについて、当初は道路法の改正も考えられたようだ。しかし、万国博覧会を45年に開催することが予定され(決定は42年8月)、当事業がその関連道路になると見込まれていたことから、開催に間に合わせるために現行法にもとづき実施することとされた。すなわち、道路法第32条が高架道路の路下に事務所・駐車場等の占用を認め、かつ、建築基準法第44条がそのような占用物件を道路内建築制限の除外対象としていたので、ビルを道路の占用物件と扱うことにより実現可能と考えられたのである4)
用を許可する立場にある道路管理者としては、高架道路を支えているビルの柱は道路構造物として自らの管理下におきたかったはずだ。しかし、そうすればビルは柱をもたないことになってしまうが、このようなビルは登記できないことが前例で示されていた5)。ビルに多額の負担を求めるには、ビルが円満に登記されて区分所有者がその権利を登記できるよう措置する必要があった。そのため、ビルは主要構造物を含めて一括して占用物件とすることとされた。道路側としては、自ら橋脚を持つ代わりに、ビルとの間で私法上の契約を結び、それに基づいて道路管理権を行使することを考えた。
 また、ビルの区分所有者は持分比率でもってビルに与えられた占用権を有するというのが区分所有法の原則であったが、それならば個々の区分所有者にそれぞれ占用許可を出さなければならなかったし、ビルの共有部分は全ての区分所有者が関係してくることとなる。そこで、区分所有者を総括した区分所有者会を組織し、それに一括して占用許可を与える形をとらざるを得なかった。ビル側は、法に基づくビル規約(43年2月策定)に、「道路管理者からの共用部分の変更または保全維持命令に従うこと」、「高架道路の存続期間中、建物を無償使用に供すること」、「道路の保全に支障のないよう道路関係法令および占用許可条件に従うこと」等の条文を設け、これを区分所有者に承認させることによって道路管理権の確保を図ることとした。
 このような築港深江線の道路計画に対応し、同じく築港深江線を通ることになっていた地下鉄は、本町駅及び堺筋本町駅をビルと一体にすることにしたが、その間の軌道は、工期の確実性を期待して、両側の平面街路の下にそれぞれ単線シールドを建設する方針とした。
 道路とビルの一体構造物の維持管理面での課題など、懸念が払拭できたわけではなかったが、事業は順調に進んだ。ビルの工事は、一足早く42年6月に着工した地下鉄の後を追って、同年8月に着手された。幅員80mの築港深江線の敷地内で大規模な工事が並行して行われ、しかもそれぞれが早期完成を要するものであったから、工程の調整が大変だったという。
図5 ビルの屋上で施工中の高架街路と阪神高速道路(阪神高速道路提供)
また、相互に事務の受委託を行うことによる効率化が図られ、用地買収については高速道路部分を阪神高速道路公団が大阪市に委託して、市において一括して執行している。高架街路の設計・施工は、公団が受託して高速道路と併せて執行した。
 そして、地下鉄は44年12月6日に開通6)、阪神高速道路は45年3月8日に開通し、ビルも万博開催直前の3月12日に開館した。築港深江線の平面部分は中央大通と、地下鉄は中央線と、ビルは船場センタービルとそれぞれ名付けられた。
来は排他的である道路と建物を一体整備して約50年が経過し、この間、維持管理上の課題も見えてきている。道路側としては、振動や騒音の苦情が時折来るのは予想していたことだが、建物と近接している道路構造物の目視点検や補修作業が能率よく行えないことが課題だと捉えている。阪神・淡路大震災の後の耐震補強では、通常の補強方法が採れず特殊な設計を考える必要があったり、施工面でも資材搬入方法や作業時間の制約が多いという問題があった。建物側においても、屋上等の補修において作業性が非常に悪いことや、外壁が埃っぽくなりやすく清掃頻度が高いことが指摘されている。これまでのところビルは道路の信託によく応えていると思うが、今後さらに経年してビルの躯体に劣化が見られるようになる時、新たなステージの問題が明らかになってくると思える。
 なお、船場センタービルで営業している店舗等で構成する「船場センタービル連盟」の池永 純造会長によれば、船場センタービルを契機に路上荷捌きが根絶される等、船場の商習慣の近代化に大きな効果があった。しかし、このビルの運営にも変化の時が訪れているという。大手アパレル小売店が大規模に展開するようになって卸売業者の顧客である小規模小売店の廃業が目立つ現状では、船場センタービルも小売りを中心とする業態に変わらざるを得ない。夜間・休日に閉館している運営を改めるとともに、幹線道路に面した部分に広いエントランスを設けて一般の顧客が来街しやすいビルに意匠替えすることにより、将来も繁栄し続けるビルにしていきたいとの意気込みを熱心に語られた。

(参考文献) (財)大阪市土木技術協会「大阪都市計画街路築港深江線「船場地区」建設事業誌」

  (2019.10.31) (2019.12.17) (2020.03.19)(2022.11.12)

1) 平安京では1辺が60間であったが、秀吉は、商工業を中心とした町ではこの区画は大きすぎると感じていたようで、既存の道路の間に新たな道路を通す「天正の地割り」と呼ぶ改造を行っている。そこで、船場の開発に当たっては、京都より小さい40間を採用した。 なお、秀吉が行った開発には京間が使用されたが、その1間は6尺5寸(約1.97m)で通常の6尺(約1.82m)より長い。

2) 共販所の面影を残す建物として、中央区久太郎町3丁目に「OSKビル」が現存する。

3) 河野 一郎(明治31(1898)〜昭和40(1965)年)は昭和中期の政界実力者の一人。神奈川県に生まれ、早稲田大学を卒業。朝日新聞に入社するが昭和7年に政界に転じて、"党人派"として権勢を誇った。農林大臣・建設大臣・経済企画庁長官・行政管理庁長官・副総理などを歴任し、東京オリンピックの関連事業や京都国際会議場の建設に尽力した。

4) この扱いは、形式的には適法であるが、占用の考え方が通常とは著しく異なっていることに注意すべきである。すなわち、占用とは、他に設置することが困難または不適当なものをやむなく道路区域に設置させる意味合いで許可されるのが通常であるのに対し、本件の場合はビルが存在しなければ道路が存立できないのであり、いわばビルは道路との共同事業者である。そのため、ビルを道路との兼用工作物とする案も考えられたようであるが、道路法は対象を公共施設に限定しているため、本ビルでは適用できなかった。なお、参考文献によれば、兼用工作物を私的施設にも適用して管理協定等によって処理する方法のほか、空中権の設定による道路区域の限定による解決法、道路管理者もビルの区分所有者となって道路管理を行う方法などが 当時 考察されており、平成元(1989)年度に創設された立体道路制度の枠組みがこの時点ですでにイメージされていたことが伺われる。

5) 阪神高速道路1号環状線が木津青果市場を通過するに当たって、代替機能として、阪神高速道路協会(当時)が高架下に2階建て建物(右図、阪神高速地域交流センター提供)の占用許可を受けてこれを市場に使用させたが、これは道路の橋脚の間に壁と床を設けたものだった。これが法務局によって登記を拒否されたのである。建物としての独立性がなく一個の不動産として把握できないと考えられたようだ。阪神高速道路の耐震補強の際に壁と床を撤去されたのを機に、橋脚の間に独立した建物が新たに占用許可を受けて建っている。

6) 地下鉄中央線は、昭和36(1961)年に大阪港〜弁天町間3.7km、39年に弁天町〜本町(仮)間3.7km、42年に谷町四丁目〜森ノ宮間1.3km、43年に森ノ宮〜深江橋間2.3kmが開通しており、この開通(本町〜谷町四丁目間1.7km)により東西に分かれて運行していた路線が1本につながった。