近江商人屋敷とヴォーリズ建築の町、近江八幡

近江商人屋敷が建ち並ぶ新町通
 琵琶湖を抱える滋賀県は、昭和59(1984)年に独自に「ふるさと滋賀の風景を守り育てる条例(風景条例)」を制定して、全国に先駆けて風景を保全・修復・創造する取組みを進めてきた。本稿では、その中でも特に先駆的な存在である近江八幡市を取り上げ、現況をレポートする。

江八幡の成立は、天正13(1585)年に豊臣 秀吉の甥である秀次が八幡山に城を築いたときに遡る。安土を支配の拠点とした織田 信長により、八幡には彼が整備した「朝鮮人街道」1)と呼ばれる道路が通じていた。水運の利便を拓いて城下町発展の基礎とした。
図1 近江八幡市の中心市街地の現況
秀次は、それに加えて、幅員約15m、延長約6kmの「八幡堀」という運河を築いて、城の守りとするとともに琵琶湖へのまた、秀次は「楽市楽座」と呼ばれる商工業振興策を打出し、これらが八幡の商人の活動の原動力となった。しかし、秀次は5年後に移封され、さらに5年後には城郭も廃された。城下町としての性格は失ったが商人の勢いは健在で、リスクを恐れるよりもチャンスに掛ける胆力のある彼らは、八幡に本家を置きながらも三都に大きな店舗を構える大商人へと、たちまちのうちに育っていくのである。
 近江八幡の市街地には彼らの邸宅がいくつか残っている。図2には5邸を紹介しているが、新町通の北端に大規模な邸宅が集まっている(表題の写真)のは、ここが八幡堀と朝鮮人街道が近接するところであって、商業の拠点とするにふさわしかったからであろう。旧西川 利右衛門邸と旧伴 庄右衛門邸は、近江八幡が管理する市立資料館を構成し、内部が公開されて近江八幡の歴史・文化と近江商人の暮らしぶりなどを学ぶ展示がなされている。 

図2 新町通付近に残っている近江商人屋敷、(A)西川 甚五郎邸、(B)旧西川 利右衛門邸、(C)旧西川 庄六邸、(D)森 五郎兵衛邸、(E)旧伴庄右衛門邸
 新町通と八幡堀周辺・永原町通を併せた約13.1haが「重要伝統的建造物群保存地区」(以下、「伝建地区」という)に指定(平成3(1991)年)されており、地区内の保存物件数は建築物183件、工作物93件、環境物件85件を数える。特に良好な状態で残っている新町通の一部では電線の移設が行われた。
 このような景観保全の取組みはおよそ50年近く前に遡る。その頃、長く近江八幡の経済基盤であった八幡堀は近代化のプロセスの中で徐々にその機能を失い、ヘドロが堆積するどぶ川になり果てていた。この著しく悪化した環境への対策として市は八幡堀の埋立てを計画した(昭和47(1972)年)。この計画に対し、近江八幡の発展を担ってきた象徴的存在であるとして、八幡堀を守る動きが青年会議所を中心に巻き起こり、自主的な清掃活動を行うとともに市に計画の見直しを迫った。この動きは「よみがえる近江八幡の会」(50年)から「明日の近江八幡を考える研究会」(55年)へと発展し、八幡堀の保存に端を発した運動は市街地のまちづくり運動に変貌していった。この運動の中で実施された八幡堀周辺の土蔵等の調査は市内に残る町並み調査に拡大し、これが上述の伝建地区の指定に結実していく。指定後、100棟以上の民間住宅などについて修理・修景が施されているという。
うひとつ、近江八幡の市街地景観を特徴づけるものとして、ヴォーリズ(William Merrell Vories、1880〜昭和39(1964)年)が設計した建築物群がある。ヴォーリズは、明治38(1905)年にアメリカのYMCAから派遣されて滋賀県立商業学校(現在の八幡商業高等学校)の英語科教師として来日するも、あまりに熱心にキリスト教を講義したことを疎まれて2年で退職し、「近江ミッション」(近江基督教伝道団)を立ち上げて建築設計事務所2)やメンソレータムの販売などを手掛けた。昭和16年に日本国籍を取得し一柳(ひとつやなぎ) 米来留(めれる)を名乗る。幼稚園や結核療養所などの社会公共事業に対して26年に藍綬褒章、建築における功績に対し36年に黄綬褒章を受けている。


図3 近江八幡に残る主なヴォーリズ建築、(A)吉田 悦蔵邸、(B)ウォーターハウス記念館、(C)ダブルハウス、(D)市立郷土資料館、(E)近江八幡教会牧師館、(F)アンドリュース記念館、(G)旧八幡郵便局、(H)ヴォーリズ記念館、(I)ハイド記念館・教育会館、(J)八幡商業高校本館
 約1,600にも及ぶ彼の建築は、教会・YMCA会館・学校・病院・個人住宅など多岐にわたり、国内ばかりでなく韓国や中国にも分布しているが、彼が拠点とした近江八幡には多くの作品が残っている。いくつかは公開されており筆者も見学したが、外観もさることながら、部屋に複数のドアをつけて相互のコミュニケーションを図ったり、階段に踊り場をつけて高齢者の便を期すなど、内部の造作に細かい配慮が行き届いたものだった。このような保存と公開は、近江ミッションの後を継いだ公益財団法人「近江兄弟社」の努力が大きい。
江八幡市は、市民の後押しを受けながら景観行政に力を注いできた。その成果として、平成17(2005)年に施行された「景観法」3)(平成16年法律第110号)に基づいて、市は同年3月21日に「景観行政団体」になり、引き続いて景観計画の策定を進めた。ここいおいて同市の特徴と思われるは、市域を一括した計画とするのではなく、市域を水郷・湖岸・旧市街地・田園・街道・新市街地という6つの風景ゾーンに分けて、その類型に応じた計画を策定したことである。これにより市民合意が容易になり、計画の策定が早まったと思われる。17年9月に水郷風景計画4)を、19年10月に伝統的風景計画を、28年10月に歴史文化風景計画を策定し同時にこれらを取りまとめて全市の計画とした。
図4 八幡堀や伝建地区に近い白雲館の来場者数の推移(各年度の「近江八幡市統計書」により作成)
 景観に係る取組みが観光客の増加につながっているように思える(図4)が、市は、観光客に来てもらうために景観施策を推進しているのではないという。平成22年に実施したアンケートで、目指したい観光として市民が選択したのが「観光客の増加に躍起にならない観光振興」であり、「自然、歴史、文化に特化した観光資源の整備」であった。市は、近江八幡を“終(つい)のすみか”と思えるほどに地域のアイデンティティを高める文化施策の主要な柱として景観施策を進めているという位置づけであって、観光客の増加はその結果としてついてきたにすぎないということだ。義を尽くせばおのずと利益がついてくるのだと考える近江商人のこころがここにも息づいているのであろうか。
 

(参考文献) 垣内 恵美子ほか「GRIPS文化政策ケース・シリーズNo.12 近江八幡市の景観政策」(政策研究大学院大学) (http://
www3.grips.ac.jp/~culturalpolicy/rsc/cse/case.ohmihachiman.pdf)
                                                  (2019.08.30)

1) 織田 信長が、天正4(1576)年に安土城を築いたとき、中山道が安土を経由しないことから、これに変わる幹線道路として整備したもの。草津宿と鳥居本宿(彦根市)の間を、中山道より琵琶湖寄りを進んだ。よって、中山道との比較で「下街道」や「浜街道」と呼ばれることもある。「朝鮮人街道」の名は、「朝鮮通信使」(室町時代から江戸時代にかけて高麗や李氏朝鮮からわが国に送られた友好親善使節団)が通ったことにちなむ。

2) ヴォーリズは幼少期から芸術に優れ建築家を志望していたが、宣教義勇軍の講演に感銘してコロラドカレッジ(The Colorado College)哲学科に進んだ。彼が実際に建築に携わるようになったのは、県立商業高校を解職されて失業中に京都YMCA三条本館の建築現場監督を依頼されたのがきっかけという。よって、彼の建築はほとんどが独学によるものと考えられる。

3) 都市、農山漁村等における良好な景観の形成を促進するために景観計画の策定その他の施策を講ずることを定める法律。法自体が景観を規制しているわけではなく、景観行政団体が景観に関する計画や条例を作る際の根拠法となっている。なお、法に基づく景観行政団体は平成30年3月31日時点で713団体、そのうち558団体が景観計画を策定している(http://www.mlit.go.jp/common/001251069.pdf)。

4) 市域で最初に計画が策定できた水郷の景観については、「文化財保護法」に新たに設けられた「重要文化的景観」の選定第1号となった(平成18年3月)。