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村田 鶴が残した湖北地方の隧道群

村田 鶴の作品の中でも特に高い完成度を見せる谷坂隧道
 村田 鶴という技術者をご存じだろうか。彼の経歴を突き止めたのは、廃道の研究で著名な永富 謙氏だ。それによると、村田は、明治17(1886)年に茨城県に生まれ、42年に工手学校を卒業後、埼玉県土木課を経て大正7(1918)年に滋賀県に赴任し、主に湖北地方のトンネルに携わった。本稿では、「滋賀県土木百年年表」に村田の設計であることが明記されているトンネル4本のうち、アクセスの可能な3本についてレポートする。

図1 村田 鶴の設計であると記録されている湖北地方の隧道群
浜の市街地から県道大野木(おおのぎ)志賀谷(しがや)長浜線を約7.3km。ほぼ直線で進んできた道路が山裾に沿って左右にうねる先にトンネルが見える。平成14(2002)年に開通した新横山トンネル(L=356m)だ。その坑口の手前から右に分かれる旧道があって、これを辿ると村田 鶴が来県して最初に完成させた横山隧道に至る。滋賀県に残されている資料によると、大正8(1919)年に着工し12年に完成した。延長163.6m、内幅4.5m、高さ4.2m。坑門はレンガのイギリス積みで、迫石・笠石・帯石と4本の壁柱は石材である。笠石よりも上に壁柱が突出するいわゆる冠木門(かぶきもん)タイプで、全体としてバランスの取れたプロポーションが秀逸である。堀田 義次郎知事が寄せた扁額が架かっている。
 なお、本隧道で注目すべきは坑門の背後の水の処理だ。
図2 坑口が閉じられている横山隧道、格調の高い坑門のデザインは充分に鑑賞に値する 図3 坑門の背後の水を逃がす設備
壁柱の前に三角形の壁のような物が見えるが、これが排水溝で、ここに坑門の上から樋が通じているのである。これにより、坑門に作用する土水圧を軽減しトンネルの耐久性を高めているのであろう。坑門の意匠と一体化している点に村田の設計力を見るべきだ。
 この隧道の工費は11万7千円余で、そのうち2万1千円はトンネルの両側の西黒田村と東黒田村が負担している。
図4 西黒田村(左)と東黒田村(右)が建てた隧道碑、表面の碑文は滋賀県内務部長が撰した同一のもの
少し戻ったところに工事の経緯と西黒田村の寄付者氏名を刻した巨大な石碑がある。同じよなう碑が東黒田村にもある。これほどの碑を両村が建てるというのは、このトンネルの開通が大きな喜びで迎えられたことを物語る。さらに、東黒田村には「横山隧道創始者 高森慶多郎之碑」というのもある。新横山トンネルの開通に際して、横山隧道に貢献した先人の遺徳を忘れじと、明治18(1885)年頃から隧道開削運動を続けた当時の東黒田村長の名を刻んだものという。
 トンネルの内部には入れなかったが、側壁部・上半部ともレンガの長手積みのようである。白化や煤でまだらになっているが、地下水を含んでしっとりとしたレンガは十分に健在に見えた。ところどころに小口ひとつ分くらいの穴があいていて、水抜きの用を果たしているようだ。覆工のレンガは1枚巻きであることが推定される。
図5 コンクリートを使用してレンガ造りとは大胆に意匠を転換させた観音坂隧道の坑門
山隧道から県道を東に下り次いで黒田川に沿って北上すると観音寺の集落である。この地を走る県道間田(はさまた)長浜線にも平成28年に観音坂トンネル(L=531m)が通じ、村田 鶴が設計した観音坂隧道へは旧道を行かなくてはならない。観音坂隧道は延長320.6m、内幅5.7m、高さ3.9mで、大正13年に着工して完成は昭和8(1933)年であった。このころには煉瓦が建設材料としては用いられなくなっていた。本隧道はコンクリートブロックで巻立てられている。
 観音坂隧道は村田が携わった最初のコンクリートトンネルらしいが、
図6 「観音坂隧道碑」、撰文は滋賀県経済部長、裏面に資金拠出者の名が並ぶ
煉瓦とは異なったデザインを大胆に採用している。坑門においては、壁柱を廃してその代わりに坑口を翼壁より30cmほど突出させるという独創的な意匠を凝らしている。壁面は木造建築における下見板張り1)に似た装飾をコンクリートで再現している。迫石は花崗岩と思われるが、壁面の横縞とサイズを合わせるという気配りを見せる。また、笠石にはデンティル(歯飾り)が施され、荘重感を出している。扁額は、開通時に滋賀県知事を務めていた伊藤 武彦。
 本隧道でも18万円余の工費のうち6万3千円は関係有志の拠出によっている。長浜側に「観音坂隧道碑」があって、開通までの経緯と資金拠出者の名が残されている。
 坑門は創建時のままと思われるが、内部はモルタルが吹き付けられ側壁はプラスチックパネル張りとなっている。筆者が訪れた時には坑口に足場が組まれていた。横山隧道と同じようなフェンスが施工されるのかもしれない。 
後は、県道郷野(ごうの)湖北線にある谷坂隧道だ(標題の写真)。昭和8年に着工し10年に完成した、延長300.0
m、内幅4.8m、高さ3.0mのコンクリートトンネルである。ここで特徴的なのは、観音坂隧道で見られた壁面の突出をなくして半円形の壁柱が復活していることで、笠石のデンティルと相まってきわめて重厚なデザインとなっている。壁面の下板見張り風の装飾は引継がれている。トンネルの両側が開けているので、翼壁が城壁のような圧倒的な量感を示している。
図7 隧道の開通5周年を期して建てられた記念碑、撰文は滋賀県経済部長
扁額は村地 信夫知事。なお、壁柱は単なる装飾ではなく、坑門の上部に流れ込む雨水を落とす排水管の役割も果たしているという。横山隧道と並んで彼の排水への配慮が美的に処理されている例である。
 本隧道は、姉川支流草野川上流の村落から河毛・虎姫への短絡路であり、工費15万6千円余のうち2万3千円は関係の村が負担したという。西側坑口から下がった山側に建つ竣工記念石碑にそういう記述がある。隧道ができるまでは厳しい山越えだったのであろう。隧道の両坑口に地蔵尊が祀ってあるのが印象的だった。
 関ケ原方面から長浜市街地に入る幹線であった横山隧道や観音坂隧道と異なり、本隧道は極めて地方的な交通を扱っている。だからこそ今に至るまで2車線化の必要に迫られず、創設時の姿を残すことができた。建設材料の変化に合わせて設計を洗練させてきた一連の村田 鶴の作品の中でも本隧道の意匠は際立っている。高い格調を誇る彼の作品がこれからも地域に根付いていくことを願う。
稿
を終えるに当たり、村田 鶴について述べておこう。参考文献1にあるとおり、村田は選ばれたエリート官吏では決してなかった。彼が設計を担当しても記録に名が残らないこともあったようだ2)。その彼が腕をふるうことができたのは、恐らく彼の設計が上司の手直しを経ずに採用に至ったからであろう。彼の設計の周到さは本文でも触れたところだが、永富氏の労作がなければ知られることはなかったひとりの技術者の生きざまに、インフラ整備に携わる者へのメッセージを見た気がした。

(参考文献)
1 永富 謙「滋賀県の道路隧道と村田鶴−戦前の技術系官吏の経歴調査−」(近畿産業考古学会「近畿の産業遺産 第4号」所収)
2 田中 雅彦・上野 邦雄「滋賀の近代のトンネルの歴史と村田鶴が残した隧道群」
(https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/
1013962.pdf)
(2019.08.07)

1) 建物の外壁に使う工法のひとつで、長い板材を横に用いて板の下端がその下の板の上端に少し重なるように張ること。水が入りにくいとされる。

2) 記録にはないが村田 鶴の関与が推察されるものとして、百瀬川隧道(高島市、大正14(1925)年完成)、賤ヶ岳隧道(長浜市、昭和2(1927)年完成)、湖北隧道(長浜市、昭和9年完成)が挙げられる。特に、湖北隧道は、凸型坑門や曲線の採用など、本稿で紹介した手法と類似する特徴が見られ、村田による可能性が極めて高い。