鴨 川

その美を司るデザインコンセプトを探る

出町柳付近で高野川と合流する鴨川
 朝はジョギング、昼はカップルの語らい、夕方は犬の散歩、夜はミュージシャンの演奏と、市民の憩いのスポットとして親しまれている京都の鴨川。その鴨川のあり方の基本は、まちが自然と上手に調和していると実感できることにある。このような鴨川の風情を形成しているのは、人工性を感じさせない一貫したデザインコンセプトの存在だ。昭和10(1935)年の洪水からの復旧において採用されたそのデザインコンセプトを見てみよう。

川は、桟敷ケ岳付近に源を発し、出町柳付近で左から高野川を合わせて、京都の市街地東部を南流する、延長約23kmの河川である。通例では出町柳付近で高野川と合流する地点より下流を鴨川、上流を賀茂川または加茂川と書き分けているが、河川法(昭和39年法律第167号)による表記はすべて鴨川に統一されている。
 鴨川の穏やかで伸びやかな風景は、千年の古都を代表する景観とされている。だが、鴨川がこのように美しい川になったのはさほど古いことではない。歴史的には、鴨川はしばしば洪水を起こす荒々しい川だったのだ。
 京都の市街地は、城丹国境を形成する山地から流れ出る中小の諸河川が形成した扇状地の上にできている。扇状地の常として、山地から平地に出てきた河川はしばしば流路を変える。鴨川も例に漏れない。平安京の建設に当たって鴨川は都の東を南流するように固定されたが、それから30年後の天長元(824)年には鴨川の堤防を補修するために「防鴨河使」(ぼうがし)という官職が設けられている。しかし、当時の治水技術では成果はあまりなかったようだ1)。白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなはぬもの」(「平家物語」)と、天下三不如意の第一に鴨川の水をあげたほどである。河角(かわすみ)龍典立命館大学教授がまとめたところ2)によると、確かに平安時代初〜中期に当たる800〜950年頃には水害の発生が多く、これと並んで室町時代から安土桃山時代に当たる1,400〜1,600年頃、江戸時代中〜後期に当たる1,700〜1,850年頃にも多かったということだ。
の後も洪水を頻発させていた鴨川が、未曽有の大洪水を起こしたのは昭和10(1935)年のことだった。6月28日の夜から降り始めた雨は、日付が変わることからバケツをひっくり返したような勢いになり、時間雨量40mm程度の豪雨を京都市内で4回も記録した。0時から9時までの雨量は235mm、日雨量は269.9mmに達した。既往の最大日雨量は161.3mmであって、
図1 三条大橋付近の被害状況、鴨川の左岸で崩壊した京阪電車三条駅とその手前に浸水した鴨川運河が見える(出典:参考文献1)
今回の雨はそれを100mm以上も超える測候所開設以来の激しさであった。鴨川・高野川の水位は急激に上昇し、これらを横断する41橋のうち32橋が流失または大破し、無事だったのは北大路橋・加茂大橋・七条大橋の3橋に過ぎなかった。とりわけ、当時コンクリートアーチ橋だった四条大橋が三条大橋などの廃材で堰き止められて、右岸側の先斗(ぽんと)町や左岸側の宮川町方面に水があふれ、並行する京阪電車や鴨川運河の施設を破壊するなど、都心での大きな被害が目立った。これによる死傷者12名、家屋流出及び全半壊295棟、床上・床下浸水24,173棟を数える。また、上賀茂橋上流の右岸側堤防が侵食されて決壊寸前までいったが、軍や水防団が出動して懸命の水防活動を行った結果、かろうじて破堤をまぬがれた。もし、ここが破堤していたら市街地全域が水魔に襲われていたであろうことは想像に難くない。
 この被害を受けて、京都府ではただちに復旧計画の策定に着手した。そして、内務省や京都市とも協議し、改修計画が正式に決定したのは11月27日だった。その内容は参考文献1にまとめられている。同書で真っ先に謳われているのは、京都は「千百有餘年の間、王城の地として又歴史の都として(中略)日本史上最重要の地位にある」という主張である。これに基づいて、災害復旧事業のレベルをはるかに超えた総合的で上質な計画が策定された。すなわち、被災の再発を避けるために計画流量を見直してそれに応じた河積を確保し、堤体や護岸を補強し、河床の洗掘防止を図るのは当然として、これらに加えて、計画には鴨川の風致を向上させることと都市交通の支障となっている京阪電鉄と鴨川運河の地下化を盛り込んだのだった。そして、「鴨川改修工事の完璧を期すと同時に、京都市多年の懸案を一掃し、永遠の公共的利益を増進」するものと自負している。
記のうち、京阪電鉄と鴨川運河の地下化についてまず説明しよう。話は明治27(1894)年に遡る。琵琶湖から流れ下る疏水の水をそのまま鴨川に放流するのではなくこれを舟運に活かそうということで、伏見まで約8.9kmの運河が建設された。鴨川運河である。これにより大津から琵琶湖疏水・鴨川運河と淀川を通って大阪までが船で結ばれることとなった。琵琶湖疏水の通船数で見ると、26年の延べ通船数が貨物用 7,217艘・旅客用 12,540艘であったのが、35年には貨物用 14,647艘・旅客用 21,025艘とほぼ倍増している(京都経済同友会「京都・近代化の軌跡 第11回〜琵琶湖疏水のたまもの(その1)」による)。運河のうち、市街地内の冷泉通から塩小路通までの間は、鴨川の左岸に沿って設けられた。
図2 鴨川改修計画図のうち都市計画道路に係る部分、民地に接して広幅員の歩道をとり他方にせせらぎ水路を設けるなど現在の目からも見劣りしない計画だ(参考文献1による)
 43年になって大阪天満橋から京阪電車が計画された。用地買収の困難な五条通と塩小路通の間は、京都府の提案で鴨川と運河とを隔てる背割堤を拡幅して敷設することになり、さらに、大正4(1915)年には京都市が持っていた特許を借りて三条通まで延伸した。四条通・五条通・七条通との交差部には大きな踏切が設けられた。
 当然、これらの計画は当時の河川計画に合致していた。しかし、上述の水害を受けて計画流量を従前(明治14年の京都測候所開設以来の最大雨量をもとに334m3/秒としていた)のほぼ2倍の650m3/秒に設定したことで、河床を掘り下げるとともに川幅を最少57mから70mまで拡幅することとなり、鴨川運河と京阪電車を移設する必要が生じたのである。同時に、
表1 鴨川の災害復旧事業とそれに関連する事業の概要(京都府「鴨川及高野川改修計畫並に鴨川改修に附帯する事業計畫」に基づき作成)
事   業 事業期間 事業費
(単位:千円)
備    考
河川事業 災害復旧事業 S11 2,074  
河川改修事業 S11〜15 6,151  
小計 8,225  
附帯事業 京阪軌道改築及び都市計画道路新設 S11〜15 2,000 移設費(京都府、河川改修事業費の一部)
1,300 街路新設(京都府)
2,500 軌道新設(京都市)
2,000 軌道新設(京阪電鉄)
小計 7,800  
疏水送水管及び鴨川発電所建設 S12〜15 1,888 送水管(京都府)
492 発電所(京都市)
小計 2,380  
 総     計 16,405  
市内交通の支障になっていた踏切を解消するとともに、南北方向の道路が不足する鴨川左岸地区の状況を改善するため、京阪電車を地下化した上に都市計画道路を築造することとされた。鴨川運河の水は管路で発電所に導くことが考えられた。これらの事業に見込まれた事業費は表1の附帯事業の欄に示すが、災害復旧事業を契機としていかに大規模な市街地整備が企画されたかがわかる。
に、この計画に盛り込まれた鴨川の風致向上について見ていこう。河川を堅牢にするためには護岸や井堰をコンクリートで築造する必要があるが、それが目立つと人工的な印象が強くなる。これについて、京都府が予算要求に当たって国に提出した
図3 検討された河川断面(京都府「鴨川改修計画標準断面図案」に基づき描画)
「鴨川改修ニ関スル稟議書」では、「風致維持ノ関係上相当ノ考慮ヲ必要トシ例ヘバ工事材料ニ於テモ混凝土ヲ露出セシメザル様特別ノ方法ニ依等ザルベカラザル等ノ事情」があると述べ、コンクリートの表面に玉石張や割石練積みを採用することとしている。
 また、河川断面については、図3@のような低水路と高水敷で構成される断面が考えられたが、これに対して幅広い河川敷をうねうねと流れ方が風情があるとしてAの単断面案が比較された。しかし、塵芥がたまりやすいことが懸念されたこともあって、折衷案というべきBが提案されたという。
図4 低水路の緩傾斜護岸と巻天端処理された法肩 図5 禊川の上に張出して営業する納涼床
A案の考えを取り入れ、低水路の法面を緩傾斜にするとともに石張りを巻天端3)にして自然な感じを出した。結局、風致面を考慮して、二条通〜七条通間はBに、その上下流は@にすることとされた。
 河川断面でもうひとつ注目したいのは、右岸側の二条通から五条通の間の高水敷に禊(みそそぎ)川を残したことだ。鴨川では豊臣時代から水面に納涼床を張出して飲食することが行われていたようだが、河川整備により民地と流水部が離れることになったため、大正6(1917)年に地元から出された陳情に基づき整備されたのが禊川の始まりという。
図6 ゆるやかな曲線を描く堰堤付近の低水路護岸
幅員6m、水深60cm程度のせせらぎである。その後、沿川の料理屋などが夏季にこれを占用して納涼床を営業することが京都の風物詩となっていた。鴨川の改修にあたっては、納涼床も鴨川の風致を形成する要素と考えられて、占用を継続できる河川整備が行われたのである。
 そして、河川が洪水を処理するための河道計画については、鴨川が平均勾配1/200という急流であることから、流速を減ずべく55基の床止堰堤が設けられた。ここで面白いのは、堰堤の下流側では川幅を堰堤の翼部まで広げ、ゆるやかな曲線の法線で標準の幅員に戻している点である。この曲線は、内務省土木試験場において安芸 皎一らによる水理実験により設定されたと伝えられる。
上のように、鴨川改修計画はかなり細心の注意を払って立案されているが、誰がこれをリードしたかは記録に残されていない。おそらく、ある特定の個人が指示したのではなく、技術者集団が検討する中で自然になされていったものと推察される。個々の技術者に風致に関する鑑識眼とそれを設計に体現する造形力が備わっていたのであろう。
 昭和15年を完成目標とされた鴨川改修事業は遅延した。しかも、第2次世界大戦による資材不足などから、京阪電車と疏水の地下化は見送られ、暫定的に疎通能力を確保するよう設計変更して22年に一応の完成を見た。この改修の結果、治水上の効果は格段に向上した。34年には10年の大洪水を越える最大時間雨量を経験したが、破堤や越水などの大きな災害は起こらなかった。
 残された都市計画事業が再開されたのは54年。62年に地下化が竣工して鴨川の拡幅が可能となった。京都府では、
図7 鴨川に設けられた魚道、当初には無かったものだが石張りはなされている
図8 中洲を好んで生息する水鳥
京都市と連携して、河川管理用通路と歩道の機能を併せ持った散策路を整備し、シダレザクラなどを植栽した「花の回廊」とした。ここにおいても、護岸の石張りと法肩の巻天端というデザインコンセプトは継承されている。
 それ以外にも、高水敷きでサイクリングやウォーキングを楽しむ市民の増加に応じて橋梁をくぐる部分の基盤を切下げたり、鮎などの遡上のために魚道を設けたり、親水性を高める飛び石を設置するなど、時代の要請に対応した整備は続けられているが、いずれも違和感なく溶け込むような配慮はされている。
 府の担当者によると、鴨川の日常管理で最も気を遣うのは中洲の浚渫だそうだ。二条通以北では以南よりも敷地に余裕があるので低水路の幅が広くなっており、砂礫がたまって中洲ができやすい。疎通能力の点では中洲はない方がいいのだが、一方、中洲は鳥類の営巣や魚類の産卵に格好の環境を与えている。これらを重視する市民も多いので、府では市民の反応をモニターしつつ慎重に浚渫を進めているという。
 そういえば、魚道の設置も、もとは災害で崩れた堰堤をそのままにしておいてほしいとした漁業者からの要望が整備の発端であると聞いた。このように、市民と対話しつつ河川を管理していく姿勢も、鴨川が市民に愛される理由のひとつではないかと思った。

(参考文献)
1 京都府「昭和十年六月二十九日鴨川未曽有の大洪水と舊都復與計畫」
2 松浦 茂樹「戦前の鴨川改修計画における環境面の配慮」(「第7回日本土木史研究発表会論文集」所収)

(2019.06.21)

1) 寛仁元(1017)年の洪水では富小路以東が海のようになり,悲田院に収容されていた貧窮者や病人300人が流された。西野 喬「防鴨河使異聞」はこれを題材にしたもの。

2) 河角 龍典「歴史時代における京都の洪水と氾濫原の地形変化−遺跡に記録された災害情報を用いた水害史の再構築」(「京都歴史災害研究1」所収)

3) 石積みの最上部の処理の仕方のひとつで、法面から天端にかけてエッジをつけずに擦りつける方法。