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加悦鉄道

国策に翻弄された地方の小鉄道

「加悦SL広場」に残されている「加悦鉄道」の転車台
 昭和60(1985)年まで、丹後地方に延長5.7kmという小さな鉄道会社があった。「加悦鉄道」だ。丹後ちりめんの輸送のために創業し、戦時中はニッケル鉱土の輸送で国策に協力し、戦後は国鉄の合理化により廃業を余儀なくされた、地方の小鉄道の時局に翻弄された歩みを見てみよう。

悦はちりめんで栄えた町である。丹後ちりめんは、享保7(1722)年に手米屋 小右衛門らによって創始された、独特の撚糸技術を用いた絹織物である。当初は女性の手により織られていたが、明治期に導入したジャカード織機による「紋ちりめん」がヒットし、最盛期には地域の4割以上の世帯が従事する地場産業に成長した。専業は少なく多くは農家の副業であった。紋ちりめんには定番の紋様だけで1,000以上の種類があるが、個々の事業所は小規模で多品種を作るのが難しかったから、近隣の産地である峰山・出石(いずし)・宮津などを含めて同業者との連携が必要であり
図1 加悦鉄道と周辺の鉄道網
相互の往来が盛んだった。
 製品は京都の西陣に送られてそこで染めなどの加工が行われた。従って、京都への交通は欠くことのできない重要なものだった。明治8(1875)年に大阪の業者が通運を開始し、飛脚が京都に往復したという。また、21年頃には宮津の澤田 和平が馬車便の営業を始めた。夜間に走行し翌朝に京都に着いたようだ。翌年、敦賀から京都までが鉄道で結ばれたので、それに連絡する宮津〜敦賀間の航路も拓かれた。
 そして、29年には加悦町の有志により「三丹鉄道」の創設が進められたと「加悦町史」は伝える。同社は、加悦〜出石〜豊岡間51kmと加悦〜下天津〜福知山間29kmの計80kmを計画した。「阪鶴鉄道」が32年に開通させた福知山までの鉄道と、加悦を中心とするちりめん機業地域との連絡を意図したものと考えられる。しかし、この計画は実現するに至らなかった。
時の主な鉄道は、25年に制定された「鉄道敷設法」に基づいて建設されていたが、ここには京都〜舞鶴間の「近畿線」と舞鶴〜鳥取〜山口間の「山陰線」が掲げられていた。このうち、舞鶴からの路線について、国は宮津〜須津(岩滝口駅付近の地名)〜出石〜豊岡ルートや宮津〜須津〜峰山〜城崎ルートなどを比較検討している。加悦の人々は、山陰線が加悦から出石を通るように猛烈に運動した。ところが、国は、福知山〜和田山〜八鹿〜豊岡〜城崎というルートを採用することを決定して42年に開通させてしまった。日本海に開いた要衝である境港などを京阪神と短絡したいとの軍の意向が働いたとされる。そして、舞鶴から西進する鉄道は「峰山線」として建設することとなった。こうして、加悦に鉄道が通ることはなくなったと思われた。
 峰山線は大正10(1921)年10月に起工し、13年4月に宮津、14年7月に丹後山田(現在の与謝野)、同11月に峰山までと、順次 開通区間を伸ばしていった。こうして峰山線の建設が進む中、11年に鉄道敷設法の改正が実現した。そして、その別表第80号にかつて要望した「京都府山田ヨリ兵庫県出石ヲ経テ豊岡ニ至ル鉄道」が盛り込まれたのである。これを根拠として、加悦では「山田豊岡間鉄道期成同盟会」を組織して早期着工を国に働きかけた。しかし、国の態度は煮え切らず、なかなか工事に至る見通しが得られない状況が続いた。
 そこで、加悦地方のちりめんの流通を確保する最小限の交通機関として、山田〜加悦間のみの鉄道を地元の力で建設する案が浮上した。独自の調査により、軌条や車両に中古を充てるなどして節約すれば30万円での建設が可能との結論を得、13年9月に有力者36名が発起人となって「加悦鉄道」の免許を申請し、同時に株式の募集を開始した。京都府歴彩館が保有する「加悦鉄道株式会社発起人資産及信用程度調書」をもとにした参考文献1の考察によれば、36名の発起人には、沿線8町村(加悦町、桑飼村、与謝村、三河内(みごうち)村、岩屋村、市場村、山田村、石川村)と宮津町の町村長9名を始め国会議員・府議会議員・町村会議員・助役・区長らの公職者が名を連ねるとともに、地場産業であるちりめん業者も13名を数えるということだ。
図2 緑と赤の瓦を葺いた斬新な加悦駅、開設と同時に駅前の道路が拡幅されるなど既存市街地の近代化も図られた、写真は昭和40年代のもの(出典:加悦町20世紀記録集制作委員会「加悦町20世紀の記憶」)
地域の名望家がこぞって参画している感がある。いかに加悦鉄道が地域に密着したものであったかが伺える。
 株式募集は順調に進んで翌年3月に823名の出資で満株となり、同月に免許も下付された。工事も順調に進み、15年12月5日、念願の開通を果たした。町は沸き返るようであったという。路線の概要は、単線非電化の延長5.7km、軌間1,067mmで、加悦、丹後三河内、丹後四辻、水戸谷、丹後山田の5駅を置いた(後に、三河内口と加悦谷高校前が追加された)。
通から3か月余り経った昭和2(1927)年3月7日、丹後半島北部を震源とするマグニチュード7.3の大地震が発生し、加悦鉄道も駅舎の倒壊・焼失や盛土の崩落、従業員2名の死亡などの被害を受けた。会社は被害の復旧を急ぎ、6日後の13日には全線で運転を再開し、復旧資材の輸送に貢献した。この功績に対し加悦町より金200円を贈られている。
 その後の同社の輸送実績はまさしくちりめん機業の景況と連動していた。昭和3〜4年頃は好況で年3%程度の配当を行ったが、5〜7年は甚だしい不況に見舞われ、8年頃から再び回復して9年に過去最高の輸送量を記録し、機関車の増備、プラットホームの延伸、軌条の整備などに相当の資金をつぎ込むことができた。
 昭和9年、大江山にニッケル鉱石が発見された。含有率は低かったが規模は大きく、軍の後押しのもとにその採掘を行う「大江山ニッケル鉱業」が設立された。当初は七尾市(石川県)で精錬しており、加悦鉄道と国鉄を利用して鉱土を運搬した。
図3 2号機関車が乗る転写台、地方鉄道としては大規模なものだが駆動は人力だった(出典:同上)
加悦駅までの運搬はトラックによったので、沿道の家は埃で赤く染まったという。同社は生産の本格化のために岩滝に精錬工場を新設することとし1)、鉱山と工場の間にあった加悦鉄道の株式の大半を取得して経営権を握った(14年)。そして、加悦〜大江山鉱山間2.8km(15年6月開通)と丹後山田〜岩滝工場間2.9km(17年10月開通)の専用線を整備し、鉱山から工場までの一貫輸送を行った。鉱土の輸送により加悦鉄道の経営は大いに潤うことになる。将来の輸送力増強に備え、16年には130万円に増資して、駅の拡張、信号設備の設置、軌条の交換を行い、加悦駅に20mの転車台を建造している。含ニッケル鉄の増産の要請にこたえて、鉱土の運搬量は年間20tに及んだ。なお、大江山ニッケル工業は18年に「日本冶金工業」と合併させられ、加悦鉄道は同社の手に移っている。
 一方で、15年7月に発出された「奢侈品等製造販売制限規則」2)によりちりめん産業は大打撃を受け、ちりめんの輸送は事実上なくなった。戦時体制は、加悦鉄道にちりめんからニッケルへの大転換をもたらしたのである。
 敗戦とともにニッケルの採鉱は中止された。鉱山復活の見通しが立たず、岩滝精練工場は「大江山製造所」と名を変えて豆炭や肥料などの生産を始めた。鉱土運搬に頼っていた鉄道経営はたちまち赤字に陥り、加悦〜大江山鉱山間のレールや余剰の貨車を売却するなどして急場をしのいだ。しかし、朝鮮動乱を契機に世界的に戦略物資の不足をきたしたため、大江山製造所でのニッケル精錬が27年より再開され、高品度の輸入鉱石が宮津港から丹後山田を経由して専用線で工場に運ばれた。戦後のモータリゼーションの進展にあって旅客輸送が伸びない中で、加悦鉄道の主な収入は専用線での貨物輸送から賄われた。この間、老朽化した蒸気機関車に替えてディーゼル機関車を導入するなどして営業を継続した。
 その死命を制したのは、国鉄の合理化による貨物輸送の廃止である(60年3月)。貨物輸送がないと経営が成り立たないことから、60年4月30日をもって加悦鉄道は60年にわたる鉄道事業に終止符を打った。鉄道敷地を京都府に、加悦駅用地を加悦町(当時)に譲渡し、「カヤ興産」と改称してバス事業・車両整備事業・土木事業などを継承した。
ず、京都府に移管された鉄道用地の状況を見よう。京都丹後鉄道宮豊線与謝野駅で「丹後山田駅資料室」を見学した後、レンタサイクルを駆って駅の東側から宮豊線に沿うサイクリングロードを北に走る。京都府が鉄道用地を「府道加悦岩滝自転車道線」として整備したものだ。
図4 加悦鉄道の廃線敷の現況
図5 加悦駅舎を利用した「加悦鉄道資料館」(左)、内部には鉄道の作業に用いた道具(中)や駅の備品(右)を展示している
しばらくすると宮豊線は左に離れていき、サイクリングロードは縦断を上げていく。そして、かつて日本冶金工業専用線が国鉄と国道176号(当時、現在の府道宮津養父線)を越えていた「石田架道橋」(L=43.6m)の跡に出る(図-4A)。上部工は撤去され北側の橋台だけが存置されている。その先に残る築堤は、ゆるやかにに右にカーブして野田川を渡っていた。対岸は日本冶金工業の敷地である。ここにも橋台が残る。
 与謝野駅に戻り、こんどは加悦鉄道跡地を南に進む。平坦で線形も良く、極めて走りやすい。駅のあった箇所では軌道をイメージしたカラーリングが施されて、主なところに休憩施設が整備されている(B)。しかし、土木遺産として見るべきものは意外に乏しく、この先、加悦〜大江山鉱山間にある「滝川橋梁」の桁が鉄道の遺構であるくらいだ(C)。
 次に、加悦町に譲渡された加悦駅の跡地について見ると、そこは町の行政施設になっていた。それに隣接して建つ旧駅舎は「加悦鉄道資料館」として使用され、鉄道関係の設備や用具を保存して所狭しと展示している。「加悦鐵道保存会」という熱心なNPOがあって、休日には会員が待機して求めに応じて説明を行っている。
図6 加悦SL広場に静態保存されている2号機関車(上)とハ4995客車の車内(下)
 
先に述べたように、加悦鉄道は零細な資本でスタートしたので、機材は可能な限り中古品を使った。その履歴を辿ると驚くほど由緒のある貴重な物がある。加悦鉄道でも、それを自覚して、転車台のある加悦駅構内に使わなくなった蒸気機関車を展示して「SL広場」としていたが、今は大江山鉱山の跡地に転車台(標題の写真)ともども拡張移転している。展示品の中でも、昭和2年に購入した2号機関車は、1873年の英国スティブソン社製で、翌明治7年に神戸〜大阪間を走ったもの。その後、島根県の「簸上(ひのかみ)鉄道」(現在の「木次線」の一部)に払い下げられ、加悦鉄道の開業に当たり同社から譲受した。国の重要文化財になっている。客車では、明治26年に国鉄新橋工場で作られた古参の客車のひとつだ。側面に4枚ずつの外開きの扉を有する「マッチ箱客車」というタイプで、進行方向と直角に8列の畳敷きの座席が並ぶ。加悦鐵道保存会の努力で動態保存されている客車やディーゼル機関車がいくつもあり、イベントの際には会員が運転してファンを喜ばせる。
 

図7 動態保存されている車両の例、左から、開業に際し「伊賀鉄道」発注の新車を譲受したハ10、戦後 加悦鉄道が新製したディーゼル機関車DB201、カヤ興産が日本冶金工業から譲受したディーゼル機関車DB202、加悦鉄道が国鉄から譲受した排雪モーターカーTMC100BS

(参考文献)
1.田中 真人ほか「京都滋賀鉄道の歴史」(京都新聞社)
2.NPO法人加悦鐵道保存会「よみがえる加悦鉄道〜加悦SL広場と加悦鉄道ゆかりの施設〜」 
(2019.05.17)

1) 含ニッケル鉄は飛行機・魚雷・戦車などの主要部品や砲弾などに欠かせぬ金属で、軍はその増産を強く希望していた。ドイツから帰国した海軍将校の情報をもとに、含ニッケル鉄の試作を開始し、次いで七尾セメント」の休止中の設備を利用して、低品位鉱を大量処理できる独自の製法(含ニッケル鉄鉱土・無煙炭・石灰石を湿式粉砕機で粉状にして一定化でよく調合した後、ロータリーキルン内で約1,300℃まで加熱して鉱土中のニッケルと鉄を還元して含ニッケル鉄を得る)を開発した(昭和15(1939)年3月)。これに自信を得た軍の意向で岩滝での生産に至ったものである(日本冶金工業史編纂委員会「日本冶金工業六十年史」による)。

2) 昭和12年から始まった日中戦争の長期化に伴い、各種物資が不足をきたすようになった反面、軍需成金による奢侈品の購入が目立った。これに対する庶民の不満を慰撫するため、当時の商工省と農林省が国家総動員法(13年制定)を根拠に発した、不急不用品・奢侈贅沢品・規格外品等の製造・加工・販売を禁止する省令。