日本で最初の鉄筋コンクリート橋

柵が添えられただけで原形のまま使われている第11号橋
 明治36(1903)年6月、琵琶湖疏水の生みの親である田辺 朔郎は、すでに通水していた疏水でひとつの試験施工を行った。鉄筋コンクリートの橋を架けることである。田辺は卓越した技術者であったが優れた教育者でもあって、彼の指導を受けた若き技術者たちは、その後 次々と京都の地に鉄筋コンクリート橋を架けていくのである。本稿はそのプロセスを追った。


代の土木建築分野における技術革新とは、人類が100万年以上も前から使ってきた木材・石材・土に代わって鉄とコンクリートが使用されるようになったことだろう。とりわけ、この2つを組み合わせた鉄筋コンクリートは、圧縮に対する強度に比べて引張りに対する抵抗力が小さいコンクリートの特性を補うために引張りに強い鉄材で補強するという、両者の長所を生かした優れた発明だ。
 鉄筋コンクリートを誰の発明とするかは定説がないが、1855年の第1回パリ万国博覧会に鉄網を入れたコンクリート製のボートを出品したランボー(Joseph-Louis Lambot,1814〜1887年)を挙げておこう。次いで挙げるべきはコワニエ(Franc, ios Coigne,1814〜1888年)かもしれない。彼は1861年に出版した図書で、コンクリートと鉄棒が十分に付着することによってコンクリートが圧縮力に抵抗し鉄棒が引張り力に抵抗するという、鉄筋コンクリートの原理を明らかにした。
 ところが、ランボーの展示を見たフランス人庭園師モニエ(Joseph Monnie,1823〜1906年)が、鉄線を格子状に組込んだコンクリートで植木鉢をつくると格段に強度が増すとして1867年に特許をとってしまった。彼は鉄筋コンクリートのメカニズムを理解しておらず、コンクリートの強度や鉄筋量の計算方法などを明らかにしないまま、これを鉄道用枕木、橋、建築などさまざまな分野に展開・応用することを試み次々と特許を取った。
 その後、各国の研究者が鉄筋コンクリートを構造材として使用するための実験を繰返し理論を磨いていった。その過程は参考文献1に詳しいが、本稿ではフランスの建築家エヌビック(Franc, ios Hennebique,1842〜1921年)とオーストリアのブルノ工科大学教授メラン(Joseph Melan,1853〜1941年)を紹介するにとどめておこう。エヌビックは、鉄筋コンクリートの耐火性能・構造性能を向上させることを考え1887年に特許を取った。その最大の功績は床版と梁を一体化させたT型梁の創案だ。メランは、自分が専門とする鋼橋をコンクリートで巻く工法を案出し、モニエ式と異なる新しい特許を取得している。こうした研究が積み重ねられ、鉄筋コンクリートの先進地フランスで鉄筋コンクリートの規準が制定されたのは1906年のことだった1)
が国に鉄筋コンクリート橋を紹介したのは広井 勇が明治36年に「工学会誌」に掲載した「鐵筋混凝土橋梁」という報文とされるが、探求心の旺盛な田辺もこの新しい構造に強い関心を抱いていたに違いない。
図1 架設当時の第11号橋(出典:日本ポルトランドセメント同業会「昔のコンクリート」)
図2 第11号橋の近くにある顕彰碑、市が昭和7年に建てたもの(左)とライオンズクラブが52年に建てたもの(右)
メラン式の鉄筋コンクリート橋を試作してみたのである。第一疏水の第3トンネルの東坑口から50mほどのところにある第11号橋がそれだ。橋長7.23m、幅員1.55mの、やや弧を描いた桁橋である。メランが特許を得たのは1892年のことだったから、ここに適用された方式は当時の鉄筋コンクリート技術の中でも最新の部類であった。京都市水道局が著した「琵琶湖疏水の100年」によれば、これは国産セメント2)の試験のために施工したものだという。この橋の対岸は、現在は新山科浄水場への取水施設(日ノ岡取水場)になっているが、当時は舟溜りであって、関係者しか通行しないことから、簡素な試作品の現場として使用されたようだ。専用の鉄筋が無かったので、疏水の工事用軌道のレールを使ったそうである。メラン式は、鋼材を1〜1.5m間隔で設置した後、これを巻き込むようにコンクリートを打設するので、支保工が不要で吊型枠だけで打設できる。疏水の通船を妨げずに架設するにはうってつけの工法だった。
 はじめ田辺自身が本橋の先駆性を強調していなかったため、それが知られるようになったのは昭和6(1932)年。翌年に市が建てた「本邦最初鐵筋混凝土橋」の碑が疏水の右岸側にある。
図3 基部の曲率を変えた優美なアーチを見せる第10号橋
左岸側には京都洛東 ライオンズクラブが建てた同趣旨の新しい碑がある。標題の写真に見る転落防止用の金属製の柵は後年における付設であることは言うまでもない。
 この経験3)から手応えを感じたのであろう。田辺は、翌年、本格的な鉄筋コンクリート橋を架設する。それが第2トンネルの東にある「第10号橋」だ。ここには第一疏水ができた時から「對山橋」または
図4 基部に監督員(左)と請負人(右)の氏名が刻
  まれている
「黒岩橋」と呼ばれる橋が架かっていたが、それを鉄筋コンクリート橋に改修したのである。橋長12.9m、幅員1.4m。右岸側の基部に「技師 山田 忠三、技手 河野 一茂」、左岸側基部に「請負人 大西 己之助」の名が刻まれているが、現在は亀裂が生じていて補修されているものの文字は読みづらい。とは言え、第11号橋に比べて実用橋としての完成度は格段に高く、前掲書はこれを本格的な鉄筋コンクリート橋の第1号としている。鉄製の高欄もよくマッチしており、ヨーロッパの様式を思わせるライズ(rise)比4)の小さいスレンダーな姿は114年たっても健在だ。平成8年に第11号橋とともに国指定史跡になっている。 
の後の鉄筋コンクリート橋の普及は急速だった。早くも38年には京都市が高瀬川に「仏光寺橋」(L=7.3m)、「姉小路橋」(L=5.5m)、「材木町橋」(L=7.3m)を、40年には「六軒橋」(L=7.3m)をそれぞれ建設している。
仏光寺橋 姉小路橋
材木町橋 六軒橋
図5 高瀬川に架けられた鉄筋コンクリート橋(出典:原田 碧「実用鉄筋コンクリート構法」、ただし 原田はこれらの事業に関与しておらず写真は監修者である田辺 朔郎から提供を受けたものと思われる)
これらの架設は、土木課長に登用された井上 秀二5)(明治6(1876)〜昭和18(1943)年)が指導した。仏光寺橋はメラン式2ヒンジ開腹アーチ、姉小路橋と材木町橋はエヌビック式ゲルバー桁、六軒橋はメラン式アーチとされている。いずれも高瀬川の舟運を確保するため両岸から階段で上がる人道橋であり、昭和に入って撤去されているようだ。
 さらに、41年から始まった京都の「三大事業」において、街路の拡幅及び市電の敷設のために「四条大橋」と「七条大橋」の架設が必要となった。これらは京都の近代化を象徴するものとして西洋風の鉄筋コンクリートアーチ橋が採用され、東京帝国大学教授であった柴田 畦作(明治6(1873)〜大正14(1925)年)に設計が依頼された。2橋は44年に起工し大正2年3月と4月に竣工した。なお、七條大橋は現存して平成20年度の選奨土木遺産に認定されているが、四条大橋は昭和10(1935)年6月の大出水の後の鴨川拡幅工事おいて撤去され鋼版桁橋に代わっている。

 図6 絵はがきに描かれた大正初期の四条大橋(左)と現在の七条大橋(右)
  
方、京都府でも鉄筋コンクリート橋に興味を持っていたようだ。佐世保橋や梅香崎橋などの実績のある原田 碧6)を長崎市から招いて(41年)鉄筋コンクリート橋の建設を加速させる。その代表的なものが「市原橋」と「二之瀬橋」だ。いずれも、京都から鞍馬を経て丹波・若狭に至る「鞍馬街道」(府道京都広河原美山線)にある。
 市原橋は、45年に完成したもので、橋長32.2m、アーチ径間20.2mの開腹鉄筋コンクリート橋だが、内務省土木試験所に保存されている図によれば、アーチ部だけでなく支柱や床組にも鉄骨のような鋼材が用いられた鉄骨コンクリート橋と呼ぶべきものだという。アーチ部だけに太い鋼材を入れるメラン式とは異なった独自の様式だ。現在は補修を終えているが、参考文献2の著者が現地を訪れたときは支柱部のコンクリートが剥がれて中の鋼材が見える状況であり、上記の事実を確認することができたということだ。この構造は、わが国で伝統的に用いられてきた木造構造物における軸組み工法の影響があるのかもしれない。昭和41の道路改良により隣接して合成鋼版桁橋が架けられ、もとの市原橋は人道橋として利用されている。平成27年度に土木学会選奨土木遺産に認定された。
 二之瀬橋は、やや遅れて大正3年に架けられた橋長14.5m、幅員3.64mの小さな橋であるが、鋼製ワーレントラスをコンクリートで包んだ形式である。明らかに鉄骨コンクリート橋の系譜を引いていよう。特段の装飾が施されているわけではないが、整然とした格点の配置に景観への配慮が感じられる。なお、現在は隣接して合成鋼版桁橋が架けられ、本橋は使用されていない状況にある。

 図7 コンクリートの剥落防止工が施された市原人道橋(左)と廃橋になっている二ノ瀬橋(右)
 
上 秀二と原田 碧はそれぞれ鉄筋コンクリート橋に関する著書を出版しているが、それらはいずれも田辺 朔郎が監修を加えている。このことからも、彼らが田辺に連なる技術者であることが明らかであり、著作だけでなく、彼らが業務として行った橋梁の設計や施工に関しても田辺から種々の技術指導を受けていたことが容易に想像される。わが国の鉄筋コンクリート橋に先鞭をつけた田辺は、その後も引続いて実務者の技術指導を通じてその発展を牽引し、新たな展開を誘導したのであった。

(参考文献)
1. 鈴木 圭ほか「欧州における鉄筋コンクリート技術の歴史的変遷−欧州の鉄筋コンクリート指針成立過程に関する考察−」(「土木史研究論文集Vol.25」所収)
2. 山根 巌「明治末期における京都での鉄筋コンクリート橋」(「土木史研究第20号」所収)
(2018.09.18)

1) 鉄筋コンクリートの規準化がこの年までずれ込んだのは、エヌビックの特許が関係しているという。彼の特許は1907年まで有効であったが、その間、彼は自らの特許を訴訟などによって強く守る姿勢を取ったので、それに少しでも抵触する場合は特許料を払うリスクがあった。そのために、その後の研究者が鉄筋コンクリートの研究を進めて実用化する段階に至っても、本格的な採用ができなかったのである。

2) コンクリートの材料である水硬性セメント(ポルトランドセメント(Portland cement))は、アスプディン(Joseph Aspdin,1778〜1855年)がウェイクフィールド(Wakefield)の工場で生産(1825年)したのが最初とされる。石灰石と粘土をまぜあわせたものを焼成・粉砕して少量の石膏を混ぜたもので、硬化体がイギリスのポートランド島産の石に似ているのでこの名がある。その後、ドイツ(1850年)、アメリカ(1871年)と広まり、わが国では明治8(1875)年に官営深川摂綿篤(セメント)製造所において製造に成功している。この製造所は16年に民間に払い下げられるが、同年に山口県小野田市で民間の工場が操業を開始したのを皮切りに各地に次々とセメント会社が設立され、30年には15社に達していたという(http://www.jcassoc.or.jp/cement/
4pdf/meiji150.pdf)。なお、第11号橋で使用したのは小野田セメントであったと言うことだ(「小野田セメント製造株式会社創業五十年史」による)。


3) 田辺が編纂委員長を務めた「明治工業史 土木編」(工学会)によれば、第11号橋に続くメラン式鉄筋コンクリート橋として、10月に「鹿ケ谷御殿前橋」(L=7.5m)が、11月に「鞍馬街道橋」(L=5.3m)がそれぞれ架けられたというが、架橋位置を含め詳細は不明である。

4) アーチの高さの支間長に対する比。

5) 井上は仙台に生まれて京都帝国大学理工科大学土木工学科の第1期生として卒業(33年)し、そのまま同学の助教授になって京都市が施行する西洞院川の地下化においてコンクリート製ボックスカルバートを指導した。35年に京都市土木課長に奉職し、橋梁の架設のほか、京都の「三大事業」と呼ばれた第二疏水・上水道・市電敷設に力を発揮する。次いで横浜市水道局工事長に迎えられ、道志川からの引水工事を成功させている。土木学会第24代会長も務めた。田辺 朔郎の監修を受けてわが国最初の鉄筋コンクリートに関する書籍である「鉄筋コンクリート」(明治39年)を著述している。

6) 原田は明治26(1893)年に攻玉社土木科を卒業しているが、ここで受講したJohn
Benjamin Henck(1815〜1903年)の「Field-Book for Railroad Engineers」をまとめた「曲線測設法」という図書を在学中に制作している。その後は山口県萩町の第4区土木出張所、長崎市の長崎港湾改良事務所などに勤務した。なお、佐世保橋(右図、上)は、39年に竣工した橋長49.4m、幅員7.3m(車道4.6m、歩道1.1m×2)の4径間鉄筋コンクリート橋。佐世保川の河口近くに架かり、佐世保鎮守府の正面にあるので鎮守府の強い要望により欧米風の近代的意匠が選ばれたらしい。エヌビックの特許であるT型梁が採用され、連続桁の反りに見えるように桁高を変化させている。昭和13(1938)年に拡幅、60年に撤去。また、梅香崎橋(右図、下)は、40年に長崎市に竣工したメラン式鉄筋コンクリートアーチ橋。英米を含め9カ国の領事館が集中する外国人居留地の中心部に位置し、径間22.2m、幅員6.4m、ライズ比1/4というスレンダーな形状を有する。昭和12年撤去。これらの建設に従事した後、原田は京都府に招かれ、次いで山口県に移って錦川(岩国市)の「臥龍橋」を担当し、さらに海軍佐世保鎮守府に転じて「前畑火薬庫」の設計・監督に当たった。田辺 朔郎の監修のもと、「実用鉄筋コンクリート構法」(大正元(1912)年)を刊行している。(図は、大坪 聖子ほか「長崎市における鉄筋コンクリート橋建設の変遷」(「土木学会西部支部研究発表会(2005.3)」所収)による)