美樹志が追求しコンクリートアーチ橋の美

JR灘駅の西にある灘拱橋
 今回は阿部 美樹志(みきし)(明治16(1883)〜昭和40(1965)年)を紹介しよう。阿部は後半生の建築家としての華やかな業績が著名であるために、前半生の鉄道高架構造物設計者としての活動が霞んでしまっている感があるが、彼が“コンクリート博士”と呼ばれるほどの技術者でありえたスタートは土木の分野であった。本稿では、王子公園〜三宮間の阪急電鉄の高架橋を訪ねて阿倍の作品を見ていくことにする。

図1 三宮のランドマークとなった神戸阪急ビル((公財)阪急文化財団「一三ネットワークの100人」(http://
www.hankyu-bunka.or.jp/ichizo/
network100/economics/)より転載)
正9(1920)年に神戸線を開業した阪神急行電鉄(以下「阪急」という)は、ターミナルを現在の神戸市中央区坂口通2丁目に置かざるを得なかったが、昭和11(1936)年に王子公園(当時の駅名は西灘)から三宮(当時の駅名は神戸)まで延長3.3kmの高架線を開業して念願の神戸都心への乗入れを果たした。阪急の高架構造には異論も強かったので、これを克服して事業を完遂するために、(イ)構造は美観を保たしむること (ロ)運転上の騒音を軽微ならしむること (ハ)高架下の土地を有効に利用すること(阪神急行電鐵「神戸市内高架線史」)という方針を定め、鉄筋コンクリート橋を得意とする阿部 美樹志に設計を全面的に託した。そのルートは、王子公園駅から既存の街路と斜交しながら南西に進み、灘駅の西方で国鉄線に逢会してからはそれに並行するというもの。こうして、阪急は国鉄三宮駅に隣接して自身のターミナルを設けることができたのだった。
 その時三宮駅と同時に建築された「神戸阪急ビル」は、駅・映画館・飲食店・食品売場などが一体となった建物で、屋上の36mの尖塔と電車が出入りするアーチ状の開口部がひときわ目を引いた。
図2 原田拱橋・灘駅前拱橋・灘拱橋の位置
阿部の設計、竹中工務店の施工になるもので、阪神淡路大震災で損壊するまでの60年近く、三宮のシンボル的な存在だった1)
 このスタイリッシュな雰囲気は高架橋にも表れている。まず訪ねるのは、王子公園駅のすぐ西にある「原田拱橋」だ。鉄筋コンクリートアーチ橋で、橋長65.5m。6車線幅の山手幹線を一気にまたぐ中央径間は32.5mある。道路を斜めに渡っているのでねじれて見えるという稀有な造形だ。次いで「灘駅前拱橋」を見る。こちらは25mの単径間で、アーチ部には迫石を模した装飾が浮かび上がり、高欄にも細かい装飾が見える。そのすぐ西にあるのが「灘拱橋」(標題の写真)。7.5m+33.73m+8.84mという3径間から成り、ねじれ方は先の2橋よりもさらに大きい。側径間の親柱には、石を布積みにしたような装飾が表面処理されてないで残っている。 

 図3 阿部の設計になる原田拱橋(左)と灘駅前拱橋(右)

ころで、アーチ橋の発祥は紀元前4,000年ころのメソポタミア文明にさかのぼるといわれているが、わが国では弓型に湾曲した構造体の圧縮力で荷重を保持するというアーチ構造がなぜか発想されず、明から来朝した黙子如定(もくすにょじょう)が寛永20(1643)年に長崎市に架けた石造アーチ橋「眼鏡橋」を待たなくてならなかった。しかも、その技法は石工集団の秘伝とされたため、アーチ橋は彼らが活動する九州地方から外に広がることはなかった2)
 本格的にアーチ橋が建設されるのは鉄道においてであった。明治7(1874)年に建設された大阪〜神戸間の鉄道に「マンボウ」と呼ばれる小さな煉瓦アーチ橋が設けられたことはすでに紹介したが、より大規模なものとしては26年に完成した信越本線碓氷峠付近を挙げることができよう。最大のものは、長さ298.75ft(約91.1m)、高さ103ft(約31.4m)の「碓氷第3橋梁」で、径間60ft(約18.3m)の4連のアーチから成る。また、43年の新橋〜上野間の高架化に際して建設された「新永間市街線」でも2.8kmにわたって径間12mと8mの連続した煉瓦アーチ橋が採用されている。さらに、明治末期になると煉瓦に替えてコンクリートが普及し、鉄筋コンクリートアーチ橋が登場した(最初の鉄筋コンクリートアーチ橋は40年完成の山陰本線「島田川溝渠」)。
 これらを通じて、アーチ橋が近代的な美しい造形であるとの認識が広まったのかもしれない。事実、アーチ橋の弧の描く「懸垂曲線」3)は自然界におのずと存在するなじみ深いもので、見ていて違和感がない。しかし、筆者は、鉄筋コンクリート橋の真骨頂は、従来の構造材料である石やレンガでは到底まねのできない
図4 ラーメン橋と桁橋で構成される標準部の構造、前面の道路は環境と高架下利用のために設けた付属街路
桁橋とラーメン橋にあると思っている。柱・梁・床版などの明確な要素で構成される桁橋とラーメン橋は、アーチ橋に比べて使用する材料も格段に少ないし、その内部にアーチ橋より広い空間を得ることができる。阿部もその点はよく心得ていて、標準部では4径間(一部5径間)のラーメン橋を単径間の桁橋で結ぶ構造を採用している。それでも幹線道路横断部にはアーチ橋を架けたのは、阿部の景観に対するこだわりというべきであろう。
部は、38年に札幌農学校を主席で卒業して鉄道院に奉職した後、農商務省に移って44年に省の研修生としてアメリカのイリノイ大学大学院に留学し、コンクリート工学の世界的権威であったタルボット(Arthur N.Talbot, 1857〜1942年)教授の下で学位を得るという予想外の成果を挙げて大正3(1914)年に帰国。鉄道院に復帰してすぐに東京〜万世橋4)間の高架橋(8年完成)の設計を担当した。この事業は、新永間市街線に次いで着手したもので、それまでの煉瓦構造から脱却し、わが国最初の鉄筋コンクリート高架橋として進められたものであった。阿部はアメリカで学んだばかりの最新の技術で設計にあたったが、札幌農学校は当時は大学として扱われておらず、阿倍の技術力にかかわらず職位は低かった。彼の意見はなかなか通らなかったようだ。鉄筋コンクリートによるラーメン橋の実績が乏しかったことから、結局は、標準設計としては先の新永間市街線における煉瓦アーチ橋をベースとして材料を鉄筋コンクリートに替えただけの案が採用された。しかし、地盤の悪い一部区間では重量の軽いラーメン橋や桁橋が採用され、阿部の技術を生かす機会がかろうじて与えられた。阿部は、その完成を見届けて9年に鉄道院を辞し、自らの設計事務所を開設する。
 独立した阿部の最初の仕事は、東京横浜電鉄(現在の東急電鉄)の東白楽〜神奈川間に計画された延長約530mのコンクリートラーメン橋による高架線であった。
図5 今津線に残る阿部が関与したと思われるラーメン橋、この時期の阿部は上下線の軌道の直下に橋脚を建てることをセオリーとしており横梁や床版の張出しが大きくなっている
この仕事を通じて、阿部は小林 一三の知己を得たと思われる。以後、小林の愛顧を受けて阪急関係のコンクリート構造物を一手に引受けるようになった。今津線国鉄横断部付近の高架橋(15年)に関与したと推定されるほか、主なものでは梅田〜十三間高架橋と梅田駅(同)、梅田阪急ビル(昭和4年)、阪急百貨店増築(11年)、阪急西宮球場(12年)などを挙げることができる。
 いくつものコンクリートラーメン橋を手がけながら、隅角部に円曲線を挿入するなど設計を洗練させてきた阿部であったが、コンクリートアーチ橋の見せるクラシックな気品ある景観性も捨てることはなかった(例えば博多湾鉄道汽船(現在の西日本鉄道宮地岳線)名島川拱橋)。自身の出発点であったコンクリートアーチ橋に特別な思い入れがあったのであろう。ハイカラを好み芸術家としても名を馳せた小林が阿部を支持したのも、このようなこだわりがあったからではなかろうか。
 こんな詮索をよそに、ねじれたコンクリートアーチ橋は80年以上も優美な姿を見せ続けている。

(追記)本稿で紹介した以外の阿部 美樹志が設計した鉄道高架橋
 目黒蒲田電鉄(現在の東急電鉄)大井町線大井町〜戸越公園間、同大岡山〜緑ヶ丘間、東京横浜電鉄渋谷〜代官山間、同神奈川〜高島町間(現存せず)、鶴見臨港鉄道(現在のJR鶴見線)鶴見〜鶴見小野間、南武鉄道(現在のJR南武線)尻手付近(改築されて原型を留めず)、大阪電気軌道(現在の近畿日本鉄道)鶴橋〜今里間(今里駅付近の一部は田辺 朔郎)


(参考文献) 小野田 滋「阿部美樹志とわが国における黎明期の鉄道高架橋」(土木学会「土木史研究 第21号」所収)

(2018.10.24)

1) 現在は2021年の完成を目指して建て替え工事中で、高さ約120mの高層ビルに生まれ変わる予定。低層部には大きなアーチ状の窓と円筒形の立面を配して旧ビルのイメージを継承するという。ただし、駅との合築は考慮されていない。

2)
山口県岩国市にある「錦帯橋」は、延宝元(1673)年に架けられたもので、形状はアーチのようであるが、構造は「迫持(せりもち)式」という、桁を重ねながら少しずつ前に迫り出していく方法であって、アーチ橋と呼べるものではない(図は岩国市のHP(http://kintaikyo.iwakuni-city.net/
tech/tech2.html)をもとに作成)。渡来僧から西湖(杭州市)に架かる6連のアーチ橋の存在を教えられ、「猿橋」(山梨県大月市)を参考に独自に開発した技術で架橋された。

3) ロープなどの両端を持って自然に垂らした時にできる曲線で、すべての点において引張り力しか働かないことが特徴。これを上下逆にするとすべての点において圧縮力しか働かない曲線ができ、これがアーチ橋の形状にふさわしいのである。

4) 現在の神田とお茶の水の間にあった駅。中央本線のターミナルとして明治45(1912)年に開業し、周辺は銀座と並ぶ繁華街となった。辰野金吾の設計によるレンガ造りの豪華な駅舎を誇ったが、大正8(1919)年に東京駅まで鉄道がつながったことでターミナル性を失ったほか、須田町交差点の転移により市電への乗換駅としての機能もなくなり、昭和11(1936)年からは「鉄道博物館」に使用され、18年に休止(実質的には廃止)された。現在は、レンガ意匠を施したアーチ橋を利用して「mAAch ecute神田万世橋」が開業(平成24(2012)年)している。