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在の阪堺は、昭和55(1980)年に軌道区間を「南海電気鉄道」から分離してできた会社だ。上町線と阪堺線の2路線を有する。
上町線の前身は明治30(1897)年設立の「大阪馬車鉄道」までさかのぼる。33年9月に天王寺西門前(現存せず)〜東天下茶屋間を開通させたのを皮切りに、同年11月には上住吉(現在の神ノ木)、35年12月には下住吉(現在の住吉)までと順次路線を延長した。その後、沿線一帯の開発が進み乗客数が増えたことなどもあって、馬車から電車に転換しようとして電化工事に着手したが、工事なかばの42年に「南海鉄道」に併呑され同社の上町線と呼ばれるようになる。電化工事は南海鉄道により翌43年に完成された。その後、住吉神社前(下住吉を改名)〜住吉公園間を延長(大正2(1913)年)して南海本線との連絡を可能にするとともに、天王寺西門前〜天王寺駅前間を大阪市に譲渡(同10年)し、さらに、住吉〜住吉公園間を廃止(平成28(2016)年)して今日の姿になる。
一方、阪堺線は明治43年に設立された先代の「阪堺電気軌道」が始まりだ。同社は、恵美須町〜浜寺(現在の浜寺駅前)間および宿院〜大浜海岸(現存せず)間の2路線に電気鉄道を建設する目的で設立されたもので、片岡 直輝1)らをはじめ関西政財界の重鎮が役員に名を連ね、並行する南海鉄道を大いに震撼させたという。44年7月に恵美須町〜大小路間、45年3月に大小路〜少林寺橋(現在の御陵前)間、そして4月に少林寺橋〜浜寺間と宿院〜大浜海岸間が開通して路線を完成させた。この後、阪堺電気軌道が展開する南海鉄道とのはげしい旅客誘致競争は今も語りぐさとなっているが、やがて大正4年に合併して南海鉄道阪堺線になった。
この両路線は、戦時中の企業統合と戦後の分離を経て南海電気鉄道に引き継がれ、現在は先述のとおり阪堺になっているのである2)。軌間1,435mmの標準軌で営業距離は18.3km。駅(停留所)は40を数える。 |
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図1 東天下茶屋停留所に建
てられた「馬車鉄道跡」碑
図2 現在の阪堺の路線が形
成されるまでの経緯 |
堺で最大の構造物は、大和川に架かる「大和川橋梁」だ(標題の写真)。9連の下路版桁橋で、全長198.57m(18.288m + 7×21.336m + 18.288m)。
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図3 大和川橋梁に取り付けられた「横河橋梁製作所」の銘板 |
明治44年に「横河橋梁製作所」が施工したもので、40年に創業した同社の作品としてはごく初期に属する。
本橋の特徴としてまず挙げられるのは、2本の桁をそれぞれ支える2本の鉄管柱によるイギリス式の橋脚だ。梁を用いずに桁を直接に受けており、そのために橋脚の頂部に朝顔のように広がった部材を取り付けている。この時代に桁橋で下路式というのも珍しいが複線を2本の主桁で支えているのも珍しく、よって2本の橋脚がすごく離れる結果となっている。
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図5 2本の鉄管柱からなる橋脚 |
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図4 橋脚の上端部 |
上部工に目を移すと、桁は補剛材の端部をJ 字型に曲げてカバープレートに取付けており、これもイギリス式橋梁の特徴を明瞭に表している。材には「CARGO
FLEET, ENGLAND」の刻印があるものと「DORMANLONG& Co.LD,MIDDLESBROUGH,
ENGLAND」の刻印があるものが混用されている。阪堺が調べたところ、炭素の少ない錬鉄に近い組成を有しる鋼だったということだ。また、桁高が支間中央付近で微妙に高くなっているが、これが景観上の措置なのか、構造力学的に必要だったのかは不明だ。 わが国では、明治7年に大阪〜神戸間の鉄道を建設して以来、イギリス人技師ポーナル(Charles
A.W.Pownall)の指導により
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図7 CARGO FLEET社(上)とDORMAN LONG社(下)の刻印が刻まれた鋼材 |
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図6 J字型に曲げた補剛材の処理 |
橋梁を設計してきたが、濃尾地震(24年)での落橋3)で鉄管柱の弱点が示されたのを契機にイギリス式を見直し、35年頃にはすでにアメリカ式に移行していた。44年の架設にあって本橋の設計は興味深い。
設としては地味だが、阪堺では架線柱にも見どころがある。大和川橋梁では2本のレールを組み合わせた架線柱(明治44年7月建植)が採用され、下端を折り曲げるようにして朝顔状の部材に取付けるというおもしろい処理をしている。また、住吉付近にも阪堺線の創業時に建植した架線柱が残っており(27柱)、こちらは鋼管を繋ぎ合せて作っている。接続部のリングや頂部のキャップはなかなかに装飾的である。
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図8 住吉駅付近に残る創業時の架線柱(左)と珍しいベーツ式架線柱(右) |
非常に稀少なのは、やや時代は下る(昭和4年)が、上町線北畠〜東天下茶屋間にある「ベーツ式」と呼ばれる架線柱。ウエブ部分に切込みを入れたH鋼のフランジ部分を両側に引き開いて作ったものだ。だから斜材が波打っている。通常ならばトラスの斜材を溶接やリベットなどで固定するが、この作業を省略できる利点があるというので、東武鉄道や南海鉄道でも採用されたことがあるらしいが、今も残っているのは阪堺の13対26柱だけだという。
駅舎もおもしろい。通常はホームに架けた上屋に続いて出改札等を行う駅舎がつくと思うが、路面を走る区間が多い阪堺では、待合室だけの駅舎を路外に設けているところがある。建築時期は不詳(駅舎は建築確認が不要だったので資料が公文書として保存されていないということだった)だが、
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図9 簡素ながらも細部に装飾が施された住吉(左)と姫松(右)の駅舎 |
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簡素ながらも細部に装飾を施した往時のデザインが残されている。
また、阪堺は新旧さまざまな車両が活躍していることでも知られる。古いところでは、昭和3(1928)年に製造されたモ161型4両がまだ走っている。すでに90年が経過しており、現役車両としてはわが国で最古という。多くの車両が広告塗
装がなされている中でこの4両は基本塗装を保っており、特にモ161番は開業時の内外装を再現している。新しいところでは、「堺トラム」と称される1001型の「茶ちゃ」(標題の写真)、「紫おん」、「青らん」(平成25(2013)〜27年製造)。堺市による活性化支援策の1つとして導入された。3車体連接固定編成で、同社では初の低床式車両である。木目柄・和紙柄の内装を用いるなどしてグッドデザイン賞4)を受賞した。大阪産業大学との共同研究により開発された、twitterにより位置情報を配信するシステムが稼働している。 |
堺の経営は苦しいようだ。会社は廃止も考えた。平成15(2003)年に結成された「堺のチンチン電車を愛する会」の運動を受けて、堺市では、22年に阪堺線の存続に係る基本合意を会社と結び、市の支援の下で低床車両の導入のほか運賃均一化・高齢者割引・サイクル&ライド・停留場の新設や改修などを進めてきた。その結果、まだ自立できるところまではいかないものの一定の改善効果はあったという。古いものを残しながらも、時代にあった新しい試みが続けられているところも評価できる。
(謝辞) 本稿の作成に当たり阪堺電気軌道からご教示をいただいた。 |
(2018.08.23) (2022.11.01)
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1) 片岡 直温の兄。安政3(1856)年生まれで、電信修技学校、海軍会計学舎を出て海軍省に勤務した後、明治29(1896)年に日本銀行に移り大阪支店長などを務める。32年に退職し、34年に大阪瓦斯社長に就任。阪堺電気軌道のほか南海鉄道・阪神電気鉄道の社長などを歴任し、大阪財界を牽引する有力者となった。晩年(大正9(1920)年)貴族院議員に勅撰されるが、政治に深入りすることを好まず悠々自適の生活を送った。昭和2(1927)年没。
2) 阪堺に移管する直前に廃止されたが、南海電鉄は平野線も持っていた。大正2(1913)年2月に設立された「阪南電気軌道」(役員がすべて阪堺電気軌道と同一という姉妹会社)が今池〜平野間の免許を得、7月に両社が合併して翌3年に開通させたもの。阪堺線恵美須町および上町線天王寺駅前から平野までの直通運転を行っていた。文の里・田辺などの住宅開発に寄与した。跡地の大部分は14号松原線になっている。
3) 長良川橋梁は、明治21(1888)年に架設された200ft 5連、100ft 2連の錬鉄製ワーレントラスで、当時のわが国では最大級を誇ったが、濃尾地震(24年10月28日午前6時37分)によって鋳鉄製の管柱形式の橋脚の多くが折損して3連が落橋した(右図、
出典:John Milneほか「The great earthquake in Japan,1891」Lane, Crawford
& Co.)。なお、濃尾地震は、現在の震度7に相当する「激烈」でマグニチュード8.4と推定されている。全国で死者7,273人、全壊・焼失家屋142,000戸という大きな被害をもたらした。震源の根尾谷では80kmにわたり最大6mの垂直方向のずれを伴う断層が地表に現れた。
4) 日本デザイン振興会が主催して選定される、日本で唯一の総合的デザイン評価・推奨の仕組みである。工業製品のほか、土木・建築作品、放送番組、イベントなど広い分野を対象としている。
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